第14話 真夜中の脱走

 アキはここ二ヶ月くらい何だかひどく疲れているようだ。仕事から帰って入浴と食事を済ませると、リビングにごろんとしてそのまま深夜まで目を覚まさない。サラは例の出稼ぎで朝が早いから、夜八時過ぎには寝室に行ってしまう。カイもそれから一時間のうちには床に就く。だから、アキの気がつく時分には、リビングに彼ひとりなんだ。

 でも、そこからアキとボクの時間が始まる。――彼は寝室にいるボクを連れ出しに来るんだ。階段を降りる彼の足音が聞えて来るのが毎晩待ち遠しい。彼は寝室に入ると先ず、蹴飛ばされている二人の掛布団を直す。それからボクを抱え上げてまた階段を上って行く。

 リビングは、間接照明だけが微かに灯っている。アキは、ボクをオレンジ色の座椅子に座らせてくれた後、テレビの深夜番組をつける。大抵はサッカーの試合か音楽ビデオが流れる。コタツのテーブルの上に載った飲みかけのグラスを持ってキッチンに移動すると、シンクに溜まった食器と一緒に洗い始める。そんな時のアキの頭髪は火山が大噴火したように逆立って、頭の大きさが倍くらいになっている。

 アキは、洗い物が終わってコタツに戻って来るや、テーブルの上でサラが使ったペンや化粧道具を元の位置に戻して、時には空き瓶や空き缶を片付けて、場所を空ける。そこにはPCが置かれる。ボクは座椅子に腰掛けたアキの腿の上に乗って一緒にコタツに入る。PCの画面が明るくなると、彼は鍵盤をカチャカチャやりながら文字で埋めていく。少し手を止めて天井を見る。またカチャカチャやりながら文字を増やしていく。時々テレビに目をやり、チャンネルを替えたり、音を小さくしたり、結局は消してしまったりする。そしてまた手を動かし始める。

 こんな調子で一時間や二時間はさっさと過ぎ、サラの起きる時刻が近づくと、PCの電源を落としてコタツの脇に下ろす。アキはそのままボクと一緒に立ち上がると、二人で階段を降りて寝相の悪いサラを見に行く。彼女を起こすのはボクの役目なんだ。

 それから寝室にカイを残して三人でリビングに上がる。

「チップたん、いつも起こしてくれてありがとうね」

 ご機嫌なサラは、朝食の準備をしながら、前の日にあったことを次から次へと気兼ねなくアキに話す。彼はボクとコタツで寝そべりながら、適当に相槌を打つ。一時間くらいすると、サラはカイを起こしに行く。――

 この二ヶ月余りは、こんなふうに一日が始まっている。


 そんなある日の夜中、ボクは寝室にいた。サラはトイレに目を覚ましてボクを見つけると、冷蔵庫の上の目覚まし時計に目を凝らした。――午前二時を回っている。

「あれ?何でチップたんがここにいるの?」

 

  彼女はトイレで用を済ませると、ボクを連れて二階に上がった。真っ暗なリビングの灯りをつけると、そこには誰もいない。

 ボクは、アキが外の物音で目を覚まして出て行ったのを知っている。その物音は、テツが庭の柵を猫のようによじ登り、柵の向こう側に置いてある背の高いゴミ箱に足をかけてカーポートに飛び降りた時、ゴミ箱が車のバンパーに当たってした音だ。でもその時、ボクの頭の中に一瞬見えた車は、アキの乗っているシルバーグレイのワゴンじゃなくて、黒っぽいワンボックスだった。

 もちろんアキは脱走したテツを探しに行った。でも少し帰りが遅いのが気になる。……

 

 サラは、コタツの脇に転がった自分の携帯電話が光っているのに気がついた。それはアキからのメールだ。端末のディスプレイを開いたサラの表情が変わった。――受信からかなり時間が経っているからだ。彼女は着替えて外に出て行った。

 サラはアキと同じように、いつもテツと散歩する公園へのコースをたどった。

 その頃、アキは当たりをつけた公園のどの場所を回っても、テツと遇うことができないでいた。一旦、公園の外に出て来た彼は、普段、自宅からは大通りの向こう側にあるこの大きな公園へ行くのに、歩道橋を渡ることが多いのを思い出した。と同時に、高い所から見渡せばテツが視界に入るかもしれないとも思い、その歩道橋の階段を上り始めた。後ろを振り返りながら一段一段上って行き、あと二、三段で渡り通路に達するというところだった。左手に――橋のすぐ下辺りの中央分離帯の植え込みの陰に何か動くものを認めた。アキは足を止め、車とは反対方向に進行するその物体を注意深く目で追った。そして少し先にある植え込みの切れ目の所にそれが到達する瞬間を見逃さぬよう、目を凝らして待った。――全貌を現したのはやはりテツだ。アキはそう確信するや否や、残りの階段をまとめて跨ぎ、左を気にしながら通路を走り抜け、手すりに左手を添えながら階段を飛ぶように駆け下りた。(つづく)

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