第11話 不敵な子と凶暴な母と

「ただいま」

 カイが帰って来た。いつもは、何があっても三分もすればケロリとする彼だが、出かける前と様子は変わっていない。一方、アキは、いつもとあまり変わらない顔を作ってカイを迎えた。


「お帰り。お風呂が沸いているから入っちゃいな」


「うん……」


「いい?今日あったことは、きちんと自分の口からサラに報告しなよ。サラが激怒してお前を刺すかもしれないから、横で見ていてあげるよ。安心しな」


「うん……」


 実は、カイが帰って来る前に、アキはサラに事の次第を電話で伝えていた。学校でいくつかの悪さをやらかしたみたいだけれど、どれもたいしたことではないように聞こえた。確かにほめられたことではないものの、ちょっとした悪戯や何の気なしにやったことがたまたま目立っただけなんだろう。そんなことでいちいち親を呼び出すなんて、よっぽど指導の厳しい学校なんだな。まあ、カイは良く言えば、素直で天真爛漫、悪く言えば、無防備で不器用――幼少を田舎で伸び伸び過ごした彼は、都会のお坊ちゃま、お嬢さま学校の洗礼を受けてしまったというところだ。でも、自分が好んで入った学校なんだから、仕方ないね。


 カイは湯に浸かりながら歌うのが好きだ。でも、さすがに今日は鼻歌も聞こえてこない。

 アキはカイを――そしてサラを待ちながら、何かを考えている。学校で何かショックを受けるようなことでも言われたのかな?いや、アキのことだから教師の小言などいちいち気にするはずはない。彼は普段これでもかってくらいの、サラの攻撃にあっているのだから。もし、気に懸ることあるとすれば、それは、アキが帰り道の車の中でカイを厳しく叱り過ぎたか、あるいはサラがその場にいなかったせいでつい日頃のうっぷんを晴らしてしまったか。そんな自分を省みているのかもしれない。アキはいつも、カイにかなり気を遣っているんだ。


  湯上りのカイは、いつものようにダラダラとしてはいなかった。普段の土曜日なら、もう寝室に向かう時刻だけれど、ダイニングテーブルで英語教室の宿題を始めた。が、五分もしないうちに、元々姿勢の悪い背中が更に丸みを帯び始めた。彼の体内時計は驚くほど正確なのだ。


「眠いんだったら、勉強じゃなくて、ゲームでもやったらどう?」


  窓際のソファに腰を下ろしたアキは後ろからカイに声をかけた。カイは、昼間でも、勉強をやり始めると途端に舟をこぐ。それでも、休憩時間にゲームをやったり、おやつを食べたりする段になると、それまで風前の灯だった瞳がキラキラした輝きを取り戻す。

 しかし、この時のカイはアキの言葉に甘えず、テキストブックとの格闘を続けようとした。もっとも、実際にカイが闘っている相手は、テキストブックではなく、睡魔だった。


「本を読んでいると眠くなるんだったら、読むのをやめたら?」


  見かねたアキがそう言うと、テキストブックを閉じたカイが彼の方へ振り返った。そのカイの顔は、もう眠くてどうしようもないと、上瞼と下瞼がかなり接近し、その僅かな隙間から真っ赤な目がのぞいている。


「おい、大丈夫か?起きていられるか?」

 アキの問いかけに、カイは無言で何かを考えている様子だ。


「どうしても無理なら、明日にするか?」


 すると、アキのこの言葉を待っていたかのようにカイは立ち上がった。


「じゃあ、お願い――」


  気のせいか、心持ち目が大きくなっているカイのその一言に、アキは倍くらいに目を丸くした。


「えっ、お願いって何を?」


「だから、――サラが帰って来たら話しておいて」


 アキは、まさか何を言っているのかと、その言葉をすぐにのみ込めなかったようだ。ボクはこれを聞いて、やっぱりカイは大物だな、と思った。この後、さすがのアキも語気を荒げた。

「なあ、カイ。自分の言った意味が分かってる?今、キミが言ったのは、――俺は先に寝るけど、お前は寝ないで後をやっておけよ、っていうことだけど?」

 カイは、そうだよ――という顔をしている。アキは呆れ顔で、事細かに解説を施し、結局は予定どおり二人でサラの帰りを待つこととなった。


 サラが帰宅したのは十一時過ぎだった。彼女は仕事で疲れていたせいか、それとも予めアキから大方話を聴いていたせいか、いつもの勢いはなく、アキがカイを脅したような事件も起こらなかった。アキは、カイの稚拙な説明でサラが誤解しそうになったり、わざと言葉足らずにしてごまかそうとしたりするのを目ざとく補った。

 カイが寝室に下りるのを許されたのは、日付の変わった一時過ぎだった。そして、座ったまま寝入ってなかなか起きないサラを連れてアキが床に就いた時は、もう四時近くなっていた。

 アキの長い一日が終わった。(つづく)

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