第5話 何はともあれ二人の時間
大地震の明くる日、この家に新しい子がやって来た。今まで、ちょっとサイズの大きめなボーダーコリーのエマがいたはずなんだけれど、一週間ほど前から彼独特のハスキーボイスが聞こえてこなくなった。エマは時々、繋いでいた鎖が外れるくらい大暴れをしていたから、きっと、庭の柵を飛び越えてどこかへ行ってしまったのかもしれない。無事だといいけれど。エマをこの家に連れて来たアキは心配じゃないのかな?
今度の子は、日本古来の種で「シバ」というらしい。まだ名前が決まっていない彼は、寝室の隣のアキの部屋にベッドを作ってもらって寝ている。エマと同じように、じきに大きくなったら庭で暮らすことになるんだろうな。
アキは、また大きな余震でもあったら厄介なので、少し様子を見てから、と思っていたようだけれども、それを口に出すことなくサラの願いを叶えてあげた。彼女は、今のところ、暴れん坊だったエマと違って、このおとなしい子をとても可愛がっている。
ところでカイは、盛り上がっているサラとは対照的に、この何日間か浮かない様子だ。あと一ヶ月足らずで新しい学校へ入学する彼は、そろそろ勉強を始めるよう、サラに尻を叩かれている。カイはアルファベットが大嫌いで、不承不承CDを聴きながら発音を習ってはいるものの、特に「z」の発音が苦手なようで、いつまでも「ぜぇ、ぜぇ」と言ってちっとも良くならない。ボクは、横で聴いていて吹き出しそうになるのをぐっとこらえている。きっと、カイは口の構造がアルファベット向きじゃないんだな。
見かねたサラは、カイをどこかの英語教室の春期コースに通わせようと検討を始めた。が、カイはこれが気に入らない。受験が終わって春休みになったら、幼少を過ごした大好きな田舎に連れて行ってもらう約束をサラとしていたからだ。一方のサラは、そんなことはすっかり忘れてしまっているようだ。しかも、別に予定している家族旅行もこの震災の影響でキャンセルが濃厚となれば、夢のような春休みを思い描いていたカイには、踏んだり蹴ったりだ。そんな彼は、サラの勧めになかなか首を縦に振らなかった。
そうこうしているうちに、どの教室も申込期限が迫り、何とか間に合う所の入室テストを受けたものの、よくよくその教室に話を聞いてみると、そこではカイに合ったプログラムは用意されていなかった。
結局、カイはろくな準備もしないまま、三月を終えてしまった。
四月になってボクは家で一人ぼっちの時間が増えた。カイは、毎朝これまでより二時間くらい早く家を出る。きっと、新しい学校は遠い所にあるんだろう。サラも、毎日ではないけれど、カイが出た後、十分も経たないうちにどこかへ出かけて行く。カイの受験も終わり、手離れしたところで、出稼ぎに行っているに違いない。何せ、カイはたくさん食べる。彼のこれからの成長を考えると、お金があるに越したことはない。そしてアキも、サラと一緒に家を出て行く。震災の影響で早い時間に出勤しなければならなくなった、と彼は言っていた。でも、アキはどちらかといえば、サラのこの「出稼ぎ」を歓迎していない。サラの出かけた土曜日や日曜日のアキの顔を見ていてそんな気がする。家事をやったり、普段は聴けない昔のロックを鳴らしたり、きれいな女の人が主人公の映画をPCで観たり、自分の時間を満喫しているのかと思いきや、彼は少しも楽しそうな表情を見せない。アキが心から楽しんでいる時、滅多にないけれど、目がキラキラして動きが機敏なのをボクは知っている。だから、分かるんだ。たまに、朝から缶ビールを片手にぐったりしている時もある。ボクは、そんなアキを見ていると胸が詰まる思いだ。――元気を出しなよ、アキ。
それでもボクは、アキと二人きりの時間ができてうれしい。陽当たりのいい日は、リビングのソファで日なたぼっこをさせてくれる。おかげで、最近はサンドイッチのパン生地がスポンジケーキに戻って来た。テレビを観る時は、いつも彼のひざの上でかぶりつきだ。
ボクは、いつまでもアキと一緒にいたい。……(つづく)
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