第3話 厄介なやつ(2)

 翌朝、いつものように小さな冷蔵庫の上の目覚まし時計が鳴り止むと、ベッドから飛び出たサラがカイに声をかけた。

「カイ、五時だよ、起きなよ!」

 もちろん、カイの反応はない。サラはカイの掛布団を引っ張りながら続けた。

「今日は、卒業文集のことで早く出かけるんじゃなかったの?」

 この日は珍しく、アキもボクも、布団から顔を出してこの様子を観察している。アキは、休日の前日には時々こういうことがある。明日が休みだと思うと、朝から元気が出るみたいだ。ボクは、ちょっと寝不足だけれど、昼寝ができるから、これくらい何でもない。カイは昨晩のことで疲れたのだろうか、死んだように眠っている。それを見たサラは、カイの布団の下からタオルケットを引き抜きながら、少し声のトーンを上げた。

「早く起きないと、昨日物産展で買って来た『イカめし』を食べる時間がなくなるよ」

 すると、カイは、お決まりのようにうつ伏せのまま、ピクリとお尻を突き出し、起き上がる体勢に入った。カイはイカめしに目がないんだ。

「他に何がつくの?」

 カイは、そのままの格好でサイドメニューを催促した。受験が終わってアキとの早朝特訓からも解放されたカイは、時間の余裕と共にお腹にも余裕が出たようだ。

「……ハッシュドポテトならあるよ」

「んー、なら、いいや」

 

 ハッシュドポテト。カイは今まで嫌というほど食べたので、もう飽きたみたいだ。彼は、これを食べたい、となると、毎日のようにそれを徹底的に食べ続ける。そしてサラは、というと――「ちゃんと買っておいてよ」というカイの言葉にとても忠実だ。ところがカイは、ひとたび食べ飽きてしまうと、絶対と言っていいほど、もうそれを食べなくなる。そんな時のサラへの合図はこうだ。


 ――もう、これは買って来ないで。


 カイに悪びれた様子は全くない。もちろん、リビングの大きな冷蔵庫は豊富な在庫を抱えている。以前のボクは、カイとサラのこんな場面を見ていて、サラが怒り出しやしないかと冷や冷やしたものだ。しかし、彼らにとって、これはごく普通のやり取りなんだ。食べることが大好きな二人の間だからこそ、成り立つ会話だ。そう、カイの食べることが大好きなのは、サラの血を引いているのだ。そして、ボクは思う。「食」というのは、ただその欲を満たすだけではない、奥の深いものなんだな、と。

 

 話は戻って、カイはようやく体を起こそうかと、ベッドについた両ひざに力を入れた。が、その時、何やら不穏な空気が――しかも今、何か聞こえたような。……

 サラもアキも、そしてボクも、カイを除いて皆が固まった。

「ちょっとぉ……」

 サラは、丸めたタオルケットを鼻から下に当て、さっさと寝室を出て行ってしまった。アキとボクは、慌てて布団の中に顔をうずめた。

 ガスを放出した当の本人は大はしゃぎでベッドを飛び下り、サラを追いかけて行った。そのすぐ後にボク達も、不穏な空気の充満した寝室を後にした。


「おはよう――」

 アキは、洗濯機の中にタオルケットを収めたサラに声をかけた。

「おはよう、早いね」

「コーヒーでもいれようかな――」

 アキはサラに聞こえるように言った。リビングでイカめしをモグモグやっているカイにもひと声かけると、作業に入った。

 システムキッチンの引出しからろ紙を一枚拾い上げ、そのエッジに沿って指先でなぞるように折り目をつける。それから、トンガリ帽子を逆さにしたような黒い器を手に取ると、その内側にろ紙を広げて敷き、背後の冷蔵庫から四角い缶を取り出す。缶のふたを開け、中に入れてあったプラスチックのスプーンでこげ茶色の細かな粒をすり切りにすくい上げると、これをろ紙に落とす。二度繰り返してスプーン三杯分の粒が入った黒い帽子にふたをあてがい、キッチンに備え置かれた機械にはめ込む。それから缶にスプーンを押し込むようにしてそのふたを閉める。右手の指先でペットボトルのキャップを探り当てると、これをひねりながら、左手で機械の白い上ぶたを取り、ボトルを少しずつ傾けてミネラルウォーターを流し込む。この機械の柱のような側面の一部は、水が入っていく様子が外から分かるのぞき窓になっている。窓にふられた目盛りの下から上へ、三番目の線の所で水面の上昇が停止すると、ボトルが置かれ、白いふたが戻される。ペットボトルの口にキャップを載せて指先に力を加えながら、こげ茶色の粒の入った缶を冷蔵庫に戻し、そろいのマグカップを機械のかたわらに並べる。――準備完了だ。


 ボクは、いつも決まった手順で進められていくアキのこの作業を見るのが好きだ。

 のぞき窓の脇のボタンを押し、オレンジ色のランプが灯ると、間もなく黒い逆さ帽子がポコポコと音を立て始めた。何とも言えない、豊かで暖かな香りがリビングにゆっくりと広がる。――ここにもある至福のひととき。寝室での時間を放棄した甲斐があったというものだ。

 アキとサラがいれたてのコーヒーを楽しんでいると、イカめしを平らげたカイはシャワーを浴びに行った。浴室の折りたたみ式の扉を開け閉めする音の後、シャワーの音が聞こえてきた。

 すると、サラはマグカップをテーブルに置き、浴室の様子を気に懸けながら、向き合ったアキの方に少し身を乗り出した。(つづく)

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