第2話 助けを求める声

幼い頃、父と母は離縁していたため、母と祖母の住む団地に同居していた。

六階に住んでいたのだが、古い建物のためにエレベーターが設備されておらず、毎日階段を昇り降りするのに苦労したものだった。

真下の階に住んでいる家族は息子による家庭内暴力がひどく、そこの母親が毎晩のように階段を駆け上り、うちに助けを求めに来た。

ドアを叩き、傷だらけ(時には血まみれで)の顔で「助けてください!息子が暴れて!警察を呼んでください!」と。母親が耐え兼ね、助けを呼び、その間に父親が息子を抑えている、といったことが日課のようになっていた。

私は祖母に虐待を受けており、母はパートに出ていたために、母のパートが終わる夕方まで一人で団地の前にある公園で時間を潰すことが多かった。家にいれば祖母から殴られてしまう。

いつものようにブランコに乗り、母が帰ってくる方向を眺めていた。まだ昼過ぎなのに、そろそろ帰ってくるのではないかと胸を躍らせていた。すると団地の私が住んでいる辺りから煙が上がり、あっという間に人だかりができた。救急車や警察、消防まであらゆる緊急車両が押し寄せる。

白い布を被せられた人らしき黒いものが何度か運ばれていった。

私は何時間も上の空にそれを眺めた。遠くから母が「博子!」と叫び走ってきて私を抱きしめた。

「あぁよかった。無事でよかった。」と何度も何度も泣きながら呟いた。結局火事が起きたのは真下の階で、私は単純に母から抱きしめられたことが嬉しく笑っていた。

夜になり、テレビの前に座っていると、母と祖母の話が聞こえた。

「旦那さんが、殺して火つけたらしいわ。」

「奥さんも息子も殺して、火つけてから首吊ったみたいやなあ。」

「毎日ひどかったからなあ。耐えきらんかったんやろうなあ。」

理解と想像力が乏しい幼い私にも、下の人たちがみんな死んだ、ということはわかった。うとうとしていると母が布団に入ってくる。

「博子ちゃん、疲れたなあ。もう寝ようなあ。」母が布団に入ってくるとひどく安心する。祖母は睡眠薬を飲み、奥の寝室に入った。意識が途切れるまでは母と二人だけの時間だ。

コンコンと小さな音がした。コンコン、トントン、ドンドンドンと次第に音は大きくなる。

この音は鮮明に聞き覚えがある。下の階の奥さんだ。

握った拳でドアを叩く音から、開いた手の平でドアを叩く音に変わった。ベチャベチャと液体が弾む音。

「…すけ…ください。む…が…主人が…たす…たすけて、たすけてぇ!」

金切声のような叫び声になる。母と私にしか聞こえてないのだろうか。耳鳴りがひどく鳴る。母は私を抱きしめ、震えていた。

「お母さん、おくさん、出らんでいいん?たすけてって。」と立ち上がろうとする私を母は力ずくで引き寄せた。「それは奥さんじゃないんよ。絶対に開けたらだめ。開けたら…。」

母にくるまれ、「それ」がいなくなるのを待った。ベチャベチャとした音が静かになっていく。ドアの外でため息と「…んで?なんで…?」と聞こえた。

もう居なくなるのか、耳鳴りが潮が引くように軽くなったと思ったらすぐに先ほどより大きな耳鳴りと音がした。

私と母が寝ている、すぐ上の窓だ。

「なんで助けてくれないんですか?なんで?なんで!なんで!!」窓が激しく叩かれ割れるように揺れる。私と母が寝ている部屋は、団地の壁際で、そこに人が立つことはまず考えられない。「それ」は朝焼けになる頃に耳鳴りと共に消えて行った。

ドアから窓に移動し、耳元にまで迫ってきたらどうしようかと怯えたが、なぜか「それ」は家の中には入れないようだった。

朝食をすませ、母と外に出ると、玄関に無数の手形が残っていた。拳をかためたもの、手を開いたもの、ドアノブを何度も握ったもの。ドアの下に目をやると、ドアの下から覗き込んだような、無理矢理に開こうとしたもの。

窓にも同様の手形が残っていた。閉めた窓を開けようとした跡と何度も叩いた跡。

それ以降「それ」は来なかったが、もしもあの時ドアを開けていたならばどうなっていたのだろうか。

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