第12話 ⑫
マリが慌てて「聡美さん落ち着いて、何があったのか教えてちょうだい」と言いながら、順一のもう一方の腕を押さえた。
順一を刺すように見ていた聡美の口から、とんでもない言葉が出た。
「私、あなたに会いたかった。本当に会いたかった。でも必ず会えると信じていました」
今度は順一が叫びたかった。
とんでもない勘違いがもう一つ加わってしまった。謎が解明されるどころか、逆に深められてしまった。
紳士がゆっくりと聡美に語り掛けた。
「さあさあ。そのことは、わしも興味が有りますぞ。どうぞお掛けになって聞かせてもらえませんか」
聡美は元の席に戻り、やはり浅く座る。
「あたしこの方に助けられたのです。今の私が有るのはこの方のお陰なのです」
聡美は、順一を正面から見つめる。
「パリであなたの夢を見ました。目が覚めると、きっとあなたに会えると思いました。今日マリさんにも、そしてあなたにも会えるなんて」
感極まったのか下を向いてしゃくり上げている。しかしすぐに気を取り直して紳士のほうを向いて話し始めた。
「今から十年前になります。私、両親の反対を押し切って、高校を卒業すると一人でヨーロッパに行きました。今から考えると、よくあんな無鉄砲なことが出来たなと思います。お菓子職人になりたかったのですが、両親はどうしても大学へ行けというものですから、日本ではお菓子の勉強は出来ないと思って、家出同然にヨーロッパに渡りました。お金がなくて南回りの切符でやっとスイスまでたどり着きました。そこから鉄道でパリに行こうと思って列車に乗ったのですが、どうも風景がだんだん山ばっかりになって、とても美しい風景なのですが、パリに向かっているとは思えないのです。それで廊下に出たら、隣のコンパートメントにこの方が一人で座っていました。もちろんその時の様子と今は違います。でも目を見て分かりました。あのときの目とおんなじ目をしていらっしゃいます。絶対に間違いありません」
順一は過去を閉じている。しかし今、その鍵を開ける覚悟をした。
聡美は順一の方に目を向けて、話を続けた。
「もしあそこにあなたが座っていなければ、悪い人が座っていたらと思うとゾッとします。でもあなたがいてくれたのは誰かが私を守ってくれたのかもしれません。私はこの方が日本人の方かどうかも確認しないで、日本語で話しかけたのです。すると、カバンから時刻表を取り出すと、急いで調べ、『すぐに降りるから荷物をまとめて来なさい』と言われたのです。私は何も考えずその通りにしました。すぐに駅に着き、列車が停まり、私たちは慌てて降りました。
あなたは駅でどこかに電話をされていました。きっと仕事の話をしているのだと思いました。私はあなたの後についてパリまで行きました。列車のコンパートメントの中で、私の話をじっと聞いてくださったのです。そして、パリで生活するために必要なことや、気をつけなければいけないこと、それから両親に理解してもらわなければいけないこと、とてもとても大切なことをたくさん話してくれました。私そのとき始めて『やっていける自信』がついたのです。パリに着くと、ユースホステルに連れて行ってくれて、係の人に説明してくれました。そして最後に『君の顔に成功の二文字が見えるよ、がんばりなさい』って言ってくださいました。それから慌ててタクシーを停めてどこかに行かれてしまいました。私は若かったので、あなたの名前も住所もお聞きしませんでした。でもまた会える。そんな保証はどこにもないのですが、誰かがきっとそうしてくれるだろう思っていました」
聡美は思いの丈を一気に掃き出すかのように話し続けた。しかし、その目は潤んでいた。
「本当に私、つらいときに鏡を見て、この顔に成功の二文字が書かれているのだって思って、自分を励ましていました。本当に本当にあなたには感謝しています」
今度は順一が女性の顔を見つめた。
十年前、仕事でスイスから列車に乗ってイタリアに向かっていたときだった。
飛行機で行く予定だったが時間があったので、列車の一人旅をしてみようと思い立って、ジュネーブから列車に乗り込んだのだった。
車窓からスイスの風景を眺めていると、突然日本語で話しかけられた。まだどこか子供らしさの残ったこの女性だった。
順一はその瞬間、この女性が、八歳になる自分の娘と重なった。 そして、とりあえず何とかしようと思った。パリには仕事で何回か行ったことがある。
仕事に遅れる連絡を駅からした。パリから飛行機で飛べばそんなに遅れることはないと思った。
しかしその仕事は失敗した。仕事に遅れたことが原因ではない。もっと別の理由があった。
その仕事の失敗を期に、順一の仕事はことごとくうまくいかなくなった。
しかし、あの時の女の子がこんなに立派な女性になった。
そのことが順一には、無条件にうれしかった。
聡美はちょっと下をむくと小声で言った。
「お願いしたいことがあるのです。実は結婚することになったのです。それで、私の婚約者と会って頂きたいのです。そのことをずっと考えていたら、そしたらあなたと夢で会えました。それで絶対に会えると思ったのです。あなたと会って頂ければ、なにかとても幸せになれそうな気がします」
順一は、『オイオイ』と心の中で言った。
この格好は特別今日だけ、仮装をしていると思っているのだろうか。
一年中この格好をしているのだ。
この格好で婚約者に会えば、どんな男でも、あっという間に消え去るだろう。是非このことは言っておかなければならない。
順一は、しっかりと聡美を見る。
「実は、今の私は・・・・・・」
左足の腿に鋭い痛みが走った。マリが力の限りつねったのだ。
順一は、マリの方を向いた。マリが恐ろしい顔で睨みつけていた。
その顔はすぐに言葉に翻訳出来た。
『それ以上言ったらなぐるわよ。おじさま』
マリが聡美の方に顔を向けたときには、優しい表情に戻っていた。
「聡美さん分かったわ。おじさまとは近々別の場所でお会いすることになっているの。その時必ず聡美さんにも来て頂くわ。そこで三人で打ち合わせをしましょう」
順一はもう一度、心の中で『オイオイそんな約束いつしたのだ』と言った。しかし、もちろん声には出せなかった。
聡美は不安が解消したように、パッと明るい表情になった。
「マリさん信じていいのね」
マリはニコッと笑う。
「もちろんよ。親友を裏切ることはしないわ。女の友情は男の友情よりも百倍も強いって言うでしょう」
聡美が声を出して笑う。
「その言葉始めて聞いたわ」
「ええ今私が作ったの」
紳士は幸せそうに目を細め、首を振った。
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