第11話 ⑪

 気が付くと、紳士と支配人が楽しそうに話をしている。きっとマリのことについて話をしているのだ。支配人は順一を見ると

「この方たちと一緒になられたのですね。それは良かった。実は私もそれを望んでいたのです」と言った。

 紳士が感心したように、

「いつでもあなたは最高の演出をされますな」と言った。

 支配人はとんでもないと言うような顔をした。

「いいえ、私は何も演出を致しません。しかしお客様のお望みに添えるように、出来るだけの努力をさせていただいております」

 支配人はマリの方を向くと「いかがでしょうか今日のお料理は」と聞く。

 マリは支配人を睨むように見る。

「おじさまの定食とても美味しいわ。どうしてこれまで、私には出してくれなかったのかしら」

 支配人は思わず声を出して笑ってしまった。

 他の客もこの楽しそうな会話に、自分たちも参加したいような様子を見せながら、支配人を見た。

 支配人は、もとの支配人としての顔に戻り、マリに向かって「すっかり打ち解けられたようですね」と言った。

 マリは澄ました顔になる。

「私とても大切なことに気がつきました。おじさまにお願いしなければならないことがあったのです。今は言えません。もちろん、それは今言えるようなことではありません」


 ワインの二本が空き、デザートが運ばれてきている。どのテーブルも退屈をしている人がいない。

 話に夢中になっている人がいる。両手を上げて驚いている人がいる。笑い転げている人がいる。それぞれの生活のストーリーが展開しているのだ。

 マリの顔がパッと明るくなった。右手を大きく上げ振っている。

 紳士も秘書もそして順一もマリの視線を追った。

 この店には女性のスタッフを見掛けないのだが、女性の来ている制服は、明らかにこの店の仕立ての良い制服の女性版だ。その制服をきれいに着こなしている美しい女性が、マリに早足で近づいてくる。 

 立ち上がったマリとしっかりと抱き合った。

「聡美さん。私、あなたがここに居るってすぐに分かったわ。だってデザートの薔薇のケーキの色と香りは、あなたそのものよ。こんなに美味しい合図を送ってくれるなんて。そして、また一緒に居られるなんて、なんて幸運な一日でしょう」

紳士はマリに「マリの喜ぶ姿を見ることは、わしの最大の宝だが、その源泉におられるこの女性を紹介してくれんかな」と言った。

「ええ紹介するわ。でもその前に聡美さん、おじさまの前の席に座って頂けないかしら」

 秘書が立ち上がり、順一の前の席の椅子を後ろに引く

「ありがとうございます。でもスタッフがお客様の席に座ることは出来ませんのよ」

「いいえそんなこと。今は例外だと思って。支配人様に、私が無理を言って座っていただいたとお話しするわ」

紳士が目を細めて「どうぞ、何も心配しないでお掛けなさい」と言った。

 秘書が「どうぞ」と言った。

 聡美はちょっと戸惑ったが、椅子に浅く腰掛けた。

「こちら、宮本聡美さん。私がパリで生活するようになって一月した頃、お会いしたのよ。その頃の私はまだ気持ちが定まらなくて、パリに来たのが失敗だったかなって、思い始めていたの。学校での勉強が終わって、サンジェルマン・デプレ教会のそばのケーキ屋さんのショウウインドウがとてもきれいで、眺めていたの。『どうぞお入りになりませんか』って声を掛けてくれたわ。日本語で声を掛けてくださったのか、それともフランス語で言われたのか一瞬分からなかったの。そのくらい疲れていたのだわ。『ええ有り難う』って確か日本語で答えたような気がする。その時聡美さんを見て、この人が自分を救ってくれるっていう直感がはたらいたの」

マリは『その時』を思い出すために、遠くを見ているようだ。

「だから唐突に思われたでしょうけど、話を聞いていただけますかって言ったの。そしたらお店があるから、夕方の六時にまた来て頂ければお話を伺いましょうと言ってくださったわ。それから一月の間は、週に二回は聡美さんのアパートまで押しかけて、明け方まで話した。聡美さんは寝ないで仕事に行かれたこともあったわ。本当に申し訳ないと思ったけど、いやな顔もしないで、私を追い返すこともしないで、いつも最後まで話を聞いてくれたわ。それで私、考えが整理出来てきたの。パリでの勉強の意味が分かってきたのだわ」

 聡美はマリの顔を見ながら話を聞いていた。

 それはマリが話しやすい、聡美の視線だった。

 きっとパリのアパートで同じように聡美は、マリの話を聞いていたのだろう。

 聡美がマリの話を引き取った。

「私もこのお店で七年働かせて頂いて、お菓子作りの壁に当たっていたのです。支配人がそれに気づかれて、パリのお知り合いを紹介して頂いてその方のお店で、勉強を兼ねて一年間働くことになったのです。きっと私もマリさんと同じ状況だったのです。だからマリさんの話は、真っ直ぐに私の気持ちに響いてきました。いい方向に共鳴したのです。それは私の心を強くしました。だからあそこでマリさんが声を掛けてくれたことを本当に感謝しています」

 聡美は、マリと紳士の方を交互に向きながら話した。

 そして時々、ちらっちらっと順一の顔を見た。

 しかし話し終わった時、聡美の視線は順一に釘付けになった。

 順一は聡美の強い眼差しを受けると、下を向いた。

 もう一人、自分と同じ考えの人が現れた。

 秘書の感覚が簡単にうっちゃられると、あるべき謎の存在がベールに隠されてしまったかと思われたが、ここにもう一人現実を抱えた女性が現れた。

 汚れきった作業着を着て、まだらに無精ひげが生えた男がどうしてここに居るのかが分からないのだ。

 それは、私が、今の私の存在が分からないのと同じだ。

 しかし、この女性は、ここの従業員だから、客のことを話題にすることはないだろう。

 きっと後で支配人に聞くに違いない。支配人はこの女性には明確に答えるだろう。

 マリは聡美の異変に気が付いて、

「聡美さん、どうされたの」

 と声をひそめて聞いた。

聡美は両手を口に持って行った。

 それは、叫びたい気持ちを必死で我慢しているようだった。

 聡美は立ち上がると順一の横に、覚悟を決めたように、歩み寄る。

 そして順一の汚れた作業服の上から、両手で順一の腕を握りしめた。

 順一はこの部屋から追い出されるのだと思った。

 きっとこの女性は、この店とこの店に集うお客様を守るために、自分の使命を感じたのだ。そしてそれは正しい判断だ。

 順一は女性の力でも簡単に引っ張り出せるように、体の力を抜いた。



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