第10話 ⑩

 紳士がこちらに近づくとき、紳士がそばを通る、どのテーブルの客も、微笑みとともに会釈をした。

 なかには立ち上がって一礼したものも何人かいる。しかもそれは当然のことのように、ここにいる誰もが思っているようだ。

 紳士が前を向いたまま順一に話しかける。その顔は穏やかだ。

「ご無理を言いましたな。この娘が、どうしてもあなたの隣に座りたいと言うものですから」

 老人は令嬢の言うことには逆らえないようだ。

 またそれを喜んでいるようだった。

 部屋の中が賑やかになってきた。料理が出始めた。ワインも持ち運ばれた。

 マリがワインのラベルを見る。

「こう見えても私、フランスで哲学の勉強の合間にワインの勉強もしたのよ。この国ではまだ飲めないけれど」

 順一の今の生活とは、かけ離れた世界だ。

 どのような返事をしていいかわからない。何か気の利いたことを言おうにも、下を向けばそこに汚れた黄銅色の作業服が目に付く。

 自分の存在は、この人達の食事の話題とどのように、かみ合っていくのだろう。

 順一が今ここで話せるとしたら、

『どうして私の隣に座りたいのですか』

 という疑問をそのままぶつけることしかない。

 でもそれはできない。

 しかし、その疑問はやがてわかるだろう。私が押し黙ったまま食事が進んでいくことは許されないだろうから。

 きっと何かを聞いてくる。

 間もなく。

「おじさま何を考えていらしゃるの」

 マリがじっと順一の横顔を見つめていたのにやっと気が付いた。

 順一が思いを巡らせているとき、マリは美しい瞳を不思議そうにして順一を見ていたのだ。順一は左の頬に暖かい光を無意識に感じていたように思う。

 順一は支離滅裂になりながら言った。

「どうしてぼくがここに居るのか考えていたのです。それは居られるのかということかもしれません。それはとても単純なことかもしれないし、もしかすると単純な策略かもしれないし、またぼくにとってはねじれた策略かもしれない」 

マリはクスクス笑う。

「きっとねじれた策略ね。私だってどうしてここに居るのかわからないわ。きっとおじさまと同じ、ねじれた策略なのね」

 紳士が喉の通りをよくするようにゴホンと咳をすると、

「マリにねじれた策略などない」

 と、言ってから順一のほうに顔を向ける。

「この娘は医学を勉強するために、大学に受かったのだが、何かに行き詰まって、どうも一人で悩んでいたのだ。わしがフランスに住んでいた時代の親友でパリで哲学を講じているのに相談したら、それでは一年間ほど預かるから、こちらに寄越しなさいと言ってくれた。それでフランスに行かせた。どうも哲学を勉強すると理屈に捕らわれて大切なことを見失うのではないかと心配したのだが」

 紳士はワイングラスを口に運ぶ。

 食事はメーンディッシュに移っている。二本目のワインの栓が抜かれた。係が順一のグラスにワインを注ぐ。マリがそのグラスに注がれるワインを見つめる。

「おじさまもワインを頼まれてたのね」

 係はそれぞれのグラスにワインを注ぎ始める。

マリがワインのラベルを見る。

「私このワイン知らないわ。教えてくださる。それにそのお料理もはじめて見たわ。どうして支配人様は今まで私たちには出してくれなかったのかしら。少し頂いてもいいかしら」

 マリはフォークとナイフを持って、順一の前に置かれている料理を切り始めた。マリの髪が順一の顔を撫で、その風のような香りが一瞬娘のいるほっとした過去に立ち返らせた。

「このお料理はなんというの。とても美味しいわ」

 マリにそう聞かれた順一は、ワインに酔ったわけではなく、そうとしか答えられなかったのだ。

「これはランチです。そう定食かな」

 紳士は順一の言った言葉が解らなかった。

 秘書は呆れたような顔をして順一を見た。

 マリは口をギュと結ぶと悪戯っぽく順一を見た。 

「おじさま。お年の割にはお茶目ね。それではそのワインも定食に付いてきたのかな」

 紳士が順一の前からマリの方を向き、困った顔をした。

「ご令嬢様そんな、はしたないことはしないで下さい。この方の料理が気に入ったのなら、すぐに注文するよ」

 と言ってから、順一の横顔に視線を移した。

「失礼なことをいたしましたな。マナーにはうるさく育てたはずじゃが」

 秘書に係を呼ぶように命じた。

 マリは慌てて秘書に、呼ばないように手を振った。

「お爺さまもう一皿頼まれても食べられないの。今頂いたので十分だわ。それになんて注文されるの。『定食もう一人前』かしら」

 三人を均等に見ながら、神経を張りつめていた秘書が下を向くやプッと吹いた。慌てて、ナプキンでズボンの膝のところを拭いた。

マリは自分の料理を切り分けると、それを順一の皿の空いたところに置いた。

「このお料理とても美味しいのよ。私は世界で一番美味しいと思っているの。どうぞ召し上がれ」

世界的な科学者として名声を博している紳士と孫娘が、こんなに明るく食事をしている姿を、他の客が見るのは久しぶりだった。

 あの悲しい出来事があってからは、この二人は居たたまれないぐらい沈み込んで食事をしていた。

 そのことが分かる客は(と言っても順一以外の客はみな分かるのだが)今二人の明るい表情を見て、自分たちも晴れやかな気持ちになった。そのためこの部屋の誰もが順一に関心を持った。あの二人をやっと明るくすることができた立役者を。

 しかし、もちろん順一には、そんな立派なことで、ここで関心をもたれているなどということは分かるはずもなかった。

 もしそのことを、誰かが順一に言ったとしても、順一は余計に混乱をしただろう。

 紳士は決意したように語り始めた。

「実はこの孫娘の父親、わしの息子だが、飛行機事故で外国で亡くなったのだ。大切な仕事をしている最中だった。あいつが生きていれば、今の世界はもう少し良くなっていたに違いないのだが。一年中、世界を飛び回っていた。その後日記が発見されて、国際関係でずいぶん苦しんでいたようだ。この娘が生まれてからもほとんど家に居られることはなかった。生きていればあなたと同じくらいの年になっていた。その時からわしはこの娘の祖父であり父親になった」

 マリは何も言わず静かに食事を取っていた。

 順一は、その飛行機事故について記憶を追った。かなり大きなニュースになっていたはずなのだが思い出せない。でも、この話は知っているような気がした。

 紳士はなぜこの話を自分にしたのだろう。

 私が気の許せる相手になっているとは思えない。

マリがフォークとナイフを静かにテーブルに置く。

「本当は父のことは最近までほとんど知らなかったわ。幼い頃の父との思い出もないの。でもフランスで父のことを知っている人と会ったり、本で調べたりしたの。それではじめて父のことを知って、今はとても尊敬しているし、娘であることを誇りにも思っているわ。だから勘違いしないでね。おじさまの中に父の姿を見ているなんて全然ないのよ」

順一はちょっと驚いたような顔をした。

「勘違いしようがありません。私は、人間だと思いこんだサルよりも、もう少し理解力があります」

マリの目がすこし潤んでいるように見える。 

「そんな意味で言ったのじゃないわ。今の時間は昔にはなかった。 でもとても今が懐かしい気がするの。やっと故郷に帰って来たような感じよ。そう、おじさまの席に父が座っていて、その前にママが座っているの。本当はそんなことはなかったのよ。でも記憶のどこかにそんな風景が懐かしい思い出として残っているの」

 マリは順一の肩にもたれかかって泣いている。

 相変わらず作業服は汚れているし、その作業服とおそろいのように順一の顔は無精ひげがまだらにはえている。

 美しい娘の潤んだ瞳には、世界で一番似合わない組み合わせだ。

秘書が咳払いを一つする。

「このレストランは、どうしてあなたが入るのを許可したのですか」

 順一の方を真っ直ぐに見た。

 順一は自分と同じ世界で考える人と、やっと会えたと思った。

 このレストランの中で、このように考えた人はいなかったのか。それともみんなそう思っていたのに、見かけを取り繕っていたのだろうか。

 しかし謎の答えが一つ、手繰り寄せられたような気がした。

 紳士がその質問を引き取った。

「この店に入れる条件は、第一にこの店に合ったマナーだ。さらにそれを支えるための経済力が必要だ。そしてこのことと同じように大事なことがもう一つ、レストランから信頼を得られなければならない。ようするに支配人のメガネに適わなければならないということだ」

秘書がその通りですというように、大きくうなずく。

「まず経済力でしょう。それからマナー。この店に入れなければ、長者番付にいくら名前を連ねても、富めるものとしてのマナーを知らない、にわか成金というレッテルを張られるでしょう。次に信頼ですが、それは先生のお考えとは違います。私は門番だと思います。このレストランは門番が扉を開けなければ絶対に入れません。それは支配人よりも、どうも上のようです。私は門番と親しくさせていただいていますが、彼の人を見る目の鋭さは一流です。そして招く客の基準を彼は明確にもって、その通りに店の扉を開けています」

マリは秘書の方を向く。

「いいえ、このレストランは誰でも入れるわ。支配人様はとてもやさしい方よ。支配人様は誰でも受け入れてくれるのよ。門番様はこわいと思うこともあるわ。だってとても大きい声を出すことがあるでしょう。でも誰でも扉を開けてくれる。門番様が扉を開けないことなんてないのよ」

秘書はメガネをはずして、手の甲で目をぬぐって、掛け直す。

「お嬢様お言葉を返すようで申し訳ございませんが」

 紳士の方へ顔を向ける。それは紳士の方が賛同してもらえるだろうと、思ったからだ。

「私は支配人が客を断っているところを、見掛けたことがあります。それから門番が扉を開けなかったところも、見掛けたことがあります。それは門を守る鬼のように立ちはだかっていました。その後、私は、この鬼の守る門をくぐれる幸せを、つくづく感じたものでした」

紳士は、マリの方を横目で見る。

「マリ、おまえの言っていることが本当かもしれん。支配人が人を選ぶようなことはしないし、門番とどちらが偉いなどということもない。だから、わしらもこの店に来るのだ。誰でも、どんな立場のものでも、心の安まる場所を求めている。この店に繰り返しくるのは、それがここにはあるということじゃな」

秘書は目をきつくつぶってから開く。

「しかし、やはりこの店は特権階級の店だということは否めません。私一人や私と私の知り合いでこの店に来たとしても、絶対に入れないのです」

 秘書はここでもう一度メガネを掛け直した。

 順一はこの秘書の言葉をつかんでおかないと、謎解きはできなくなると思った。秘書を見た。それから慌てたように

「私がどうしてここに居られるのか、やはりわかりません」

と言った。

 マリも秘書の方を向くとニッコリ笑う。 

「私、ここであなたとお食事ができてとても幸せよ」

 秘書は窮地で天使にあったような気がした。

 そしてもう何も言うまいと思った。

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