第9話 ⑨ 

 案内係が横にきて声を掛けるまで、順一は、今の自分の状況から遠ざかって、昼下がりの都会の風景に、塵のような記憶を、灰のように降らせていた。

「お客様、大変に申し訳ないのですが、このお席ですが・・・・・・」

案内係が順一の席の後ろから、声を掛けた。

 順一には、次に出てくる言葉が浮かび上がって来た。

 この席に自分が座れるはずはない。

 席を変えろというのだろう。

 いやそんなレベルではない。他の客から、やはりクレームがついたのだ。きっと別の部屋に移されることになるのだろう。

 いやいやそんなレベルではない。支配人がとんでもない間違いをしたのだ。

 いたずら好きの金持ちが、仮装と演技をして店の前を通ることになっていたのだ。

 それと私とを間違えてしまった。

 支配人が裏をかいたつもりだったのだろうが、今その本当の金持ちが登場したのだ。

 勝手に家に入り込んだ、汚れた野良犬のように、今自分は追い出されることになるのだろう。

 しかし、そんなことには慣れっこになっている。まさか金を出せとはいわないだろう。

 案内係は言葉を続けた。

「あちらの壁側に席を取られている方が、どうしてもこちらの席に移りたいおっしゃり、お聞きしてくるようにと申されております。ご許可お願いできますでしょうか」

順一は回りくどく言われるよりも『さっさと出て行け』と一言でいわれた方がすっきりするものをと思ったが、この雰囲気ではこのように慇懃に言わなければならないのだろう。

 順一は、急いで退散しようと思い、できるだけ穏やかな表情を心がけながら、

「もちろん結構です」

 と言いながら立ち上がった。

 案内係は慌てて、立ち上がろうとする順一を押しとどめるように言った。


「お客さまどうぞどうぞ、そのままでお掛けください。言葉足らずで申し訳ありません。あちらの方が、お客様と同席するために移りたいと申しておられるのです」

順一は解け掛かる謎がまた、振り出しに戻ったような戸惑いを覚えた。

 ここで自分と同席したいなんて、いったい誰がどういう目的なんだ。

 部屋を出て行くのは容易いことだ。

 でも同席となると簡単に返事ができない。

 通路側の案内係の顔を見ながら順一が返事に窮していると、となりの窓側の席の椅子が引かれた。

「おじさま、お隣の席にさせてくださいね」

支配人と話していた令嬢が、順一の隣の席に腰掛けた。その大きな瞳は、優しさに満ちていたがドキッとするほど魅惑的だった。

「こらこら真理、まだこの方のお許しがでていないのだよ」

 と言いながら、令嬢の祖父が順一の通路側の席に近づくと、案内係がその席を引く。紳士が座る。

 最後に祖父の秘書が近づいてくる。案内係は祖父の前の席を引く。

案内係が順一の横に来る。

「ご了解を頂きましてありがとうございました」

と言って一礼した。

 このとき初めて、すべての客と従業員の目が順一の上に注がれた。

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