第8話 ⑧

 電線工場の昼休みは、多目的室と呼ばれる部屋で、各自弁当を食べた。

 近所の食堂やそば屋に食べに出るものもいるが、多くは仕出し弁当屋が配達する弁当を朝注文した。

 順一は朝、ご飯を炊き、弁当箱に、夕べのおかずのあまりと一緒に詰めてきて、それを食べた。そうした理由はもちろん節約のためであったが、腹をすかした一太が時々電気釜を覗きに来るためでもあった。

 順一が昼食を取っていると、順一と同じ年齢の総務課の課長が、話し掛けてくる。

 タバコの煙を順一に吐きかけながら、一方的に話して、去っていく。

 話す内容はだいたいが決まっていて、自分がいかに運がなくて、安い給料で耐え忍ばなくてはならないかというグチだった。

 そして最後はフンと鼻で笑ってから顎を上げ、順一を蔑むように見て、いつも同じ文句を繰り返す。

「それにしてもあんたの不運は酷いね。いくら一流企業のエリートサラリーマンだったと得張ったところで、こんなところに捨てられちゃね。もうあんたは這い上がれないだろう。最後が肝心だ。いままでさんざん偉ぶって生きてきたかもしれないが、最後は俺の下だ。しっかり働いてください。いままでいい思いした分、ここでしっかりと落ちぶれるんだな」

 今はテレビのコマーシャルで名の売れた企業になったが、私が在籍した二年前は無名の企業で、私はそこのダメ社員だった。

 一度この男にそう言うと、なにを勘違いしたか、

「無名企業のダメ社員というのは俺のことか。おまえはその下で奴隷のように働いてんのが、分かってねえのかよ」

 と、えらい剣幕で怒鳴り始めた。

それ以来、この男の言うことに、逆らうのはやめた。適当に相づちを打てば、昼休みが終わり、自分の作業場に戻れる。

先週の金曜日だった。電線工場の昼休みに、多目的室で朝自分で作った、塩むすびを食べていた。そこに、例によって男がニヤニヤしながらやってきて、順一の前に座った。

「昨日、おまえが前に勤めて会社から、お呼びがあって行ってきたぜ」

 男は幸福で胸が張り裂けそうになりながら、飛び切りの料理を愛おしんで食べるように話し始めた。

「またおまえと同じような犠牲者が一人来る。うちでいくら給料が出せるかという話だった。あんたより多めに出してくれということだった。それで少し多めに言ったら、もう少し何とかしろといわれたからよ、それに色を付けた」

 男は灰皿を手元に引き寄せる。

「でもそいつはまた戻るかもしれないんだよ。絶対にもどれないあんたとは違うんだ。俺も少しは気を遣わなくちゃならない。ましな仕事を考えなければならないよ。とりあえずはおまえを監督させるか」

 そこまで一気に話すと、いかにも楽しそうに、大声で笑った。

その笑い声で順一と同じ場所で働いている、五十がらみの男と女が二人ずつ順一の回りを囲むようにして近づき、耳をそばだてる。

 総務課の課長は聞き手が増えたので、一層うれしそうに、声を大きくして話を続ける。

「なにしろあの会社はあんたを首にしてから業績がよくなった。あっという間に一流企業だ。そしてうちの一番大事なお客さんだからな。しかしあんたのような疫病神を引き受けているのだから、うちの会社を目に掛けてくれているんだろう。うちにしてみれば、いい商売をさせてくれる」

総務課の課長は、おもむろに胸のポケットからタバコを出すと、口にくわえ火をつけた。

 わざとらしく声をひそめて、話を続ける。

 周りで聞いているものは身を乗り出して、一語でも聞き漏らさないようにしなければと真剣な顔になる。

「帰り、エレベータを待っていると、掃除のおばさんが俺に気がついて、近づいて来たんだ。去年はうちの事務所の掃除もしてたおばさんだ。そのときは、俺と気があって、何かと親切にしてやってたんだ」

 女の一人が、「その掃除のおばさんだったら知ってる、いい人だった」と言った。

 総務課の課長は話を続けた。

「その時の恩義があるんだろう。どうしても俺に話しておきたいことがあるって言うんだ。もう自分の気持ちの中だけで、抑えてはおけないみたいだった」

 総務課の課長はそこで焦る心を抑えるように、ゆっくりっとタバコを吸いそれを吐き出すと、掃除のおばさんの話し方を模したようなしゃべり方で話し始める。

「あんたのところで働いてる男だよ。あんたが嫌ってる奴だよ。バカで落ちぶれてるくせに、威張り腐った顔してるやつだよ。あんた、この話を聞いたら大喜びするよ。あの男には別れたかみさんと娘がいるらしいんだけどね」

 順一はドキッとした。そのことは考えないようにしていた。しかし、こんなところで話が出るとは思ってもみなかった。

 嫌な話に決まっているのだが、ここから立ち去るわけにもいかない。立ち去れば、ただでは済まされない。よけいに働きづらい場所になるだろう。

 総務課の課長は、タバコを灰皿に押しつけると、自分の話し方に戻った。

「あんたのかみさん、今どうしているか知ってるか」

 順一は、塩むすびを一つ食べ残して、ゆっくりと紙に包み直した。

「あんたのかみさん、あんたの首を切ったお偉方とくっついたらしいぜ。あんたも偉そうにしているが、何から何まで取られちまったな。お偉いさんも独身だったそうだし、あんたも離婚しているから、別に何も問題は無いということなんだが」

男はここからが本題だというように、両手を自分の膝に置き、体を前に乗り出した。

「ところが社内のうわさでは、あんたを首にする前から、あんたのかみさんとお偉いさんは関係があったのじゃないかということだ。あんたも幸せが一転して奈落だな。身から出た錆ってもんだろう」

 男はわざとらしく深刻な顔を作ると「なんてこった」と言って、立ち上がった。

 順一を囲んでいた連中も、こそこそと話しながら、作業場にもどっていった。

順一は考えないという訓練がすでにできている。目の前にある、切断された電線の束の電気溶接だけに集中した。

 終業のサイレンが鳴る。

 一人二人と片付けをして、職場を去っていく。順一は誰もいなくなるまで、電気溶接を続けた。

 誰もいなくなったところを見計らって、いそいで職場を去った。 帰りの地下鉄はいつものように混んでいたが、もし席が空いていたとしても座ることはしなかっただろう。

 娘はこれで、学校で肩身の狭い思いはしなくてすむのだろうと思うと、頭の芯が静まりかえるような、笑いがこみ上げてきた。


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