第7話  ⑦

 お酒の瓶が並んでいる棚に取り付けてある、鈴のようなベルが鳴る。

 バーテンが声を張り上げた。

「皆様ご用意が出来ましたので、どうぞお進み下さい」

 その声を合図に、カウンターと反対側にある深紅のエレベータの扉が静かに開く。

 順一は絨毯を敷き詰めたような壁の一部が、エレベータの扉だったことに始めて気がついた。

 エレベータの中から案内係が出てきて、深々とお辞儀をした。

 エレベータが上り始める。

 エレベータの扉がゆっくりと開く。

 案内人について、エレベータを降りて右側に歩く。

 そこは、まさに宮殿のレストランだった。

 シャンデリアのあかりが、ダイアモンドの光のよう燦めく部屋の前に立ったとき、自分の入る場所はここではないと、順一は確信した。

 その部屋をのぞき見いってしまったことが、後で、とんでもない問題になってしまうことのようにも思えた。

その部屋に入るべく来た人々の一番後ろにいて、すぐに後ろを向いて、ランチサービスの部屋を目だけを左右に動かして探した。

 「お客さまどうぞお入り下さい」

 順一は、自分に掛けられている声だとは思わないで、目だけをキョロキョロさせている。

 やがて案内係が順一の前に回り込んできた。

「お客さまどうぞお入り下さい」

 再度笑みを浮かべて言った。

「えっ。どちらの部屋ですか。どちらの部屋に行けばよいのでしょうか」

 としか聞きようがない。

 案内係は、右手で順一の背後を指し示した。

「申し訳ございません。この階には、この一室しかございません。そしてこの部屋は、当店の最高の部屋になっております」

 自分の身なりを見れば、この部屋に入れない人間だと一目瞭然で、わかるはずだ。

「ランチサービスの部屋はこの階じゃなさそうですね。私は一階の待合室で言われるままに来てしまったものだから、失礼しました。何階に行けばいいのですか」

 案内係は笑いながら言った。

「いいえ、この部屋でございます。席の準備はできていますので、どうぞお入り下さい」

 順一はゆっくりと後ろを振り返ると、そこには一緒にエレベータで上がってきた人たちは誰もいなかった。すでに自分の席に着いたのだろう。

 シャンデリアの明かりが、周囲の壁のベージュの色に吸い込まれて、落ち着いた雰囲気を作り上げている。

 どのテーブルにも、空き席がないように順一には思われた。

 しかし、どのテーブルもまだ料理は運ばれていない。軽いお酒をかたむけながら、だれもが談笑しているようだ。

 順一は、廊下から部屋への敷居はとってもまたげないと思った。

 自分がこの部屋に入れば、きっと誰もが奇異なものを見る目つきをし、自分を睨みつけるに違いない。

 ここにいる誰もが、今ここに居るこの時間を心から楽しんでいるように見える。それを自分が、間違いなくぶち壊してしまう。それはいたたまれないことだ。

 小柄な案内係が、順一の前に立つと、順一の目をしっかり見て、

「さあどうぞお入り下さい。間もなくお料理をお持ちすることになります」と急き立てた。

 このままでは、この男はいつまで絶っても、部屋には入らないと思ったからだ。

 順一はここでしっかり言っておかないと、この後大変なことになると思った。

「玄関で支配人が、サービスランチの席は別だと言われてました。 これは何かの間違いでしょう。先ほどの待合室でも言ったことですが、私はサービスランチを注文してこのレストランに入ったのですよ。誰がどう見たってそんな値段で入れる部屋ではないでしょう。もし私が、この部屋に入っていったら、ここにいる方々に迷惑を掛けることになりますよ。私もそれを感じながらここに居ることは、針のムシロに座らされることになる。それは勘弁してほしい。あなたは気がつきませんか。私のそんなにそばに立って。きっととっても汗くさいでしょう。自分で自分の汗の臭い感じるくらいですから、きっと他の人は、特にそういうことを気にする人は、とっても嫌になるでしょう。私も、こういう生活に入った頃には、自分の汗の臭いがとても気になったものだが、そんなこと気にしているような生活じゃないから、もうすっかり気にならなくなりました。ここにいる方々はそのような世界で生きている人たちではない。生きているものにはそれぞれ自分にあったねぐらというものがある。したがって私はこの部屋には入れません」

小柄な案内係は順一にさらに一歩近づく。

 案内係のおでこと順一の顎がくっつきそうになる。

 順一は一歩後ずさりをする。

 案内係は上目遣いで順一の目を見る。

「お客さまにこんなことを申し上げるの大変失礼なことだとは存じますが、しかしあえていわせて頂きます」

 案内係は背伸びをして、自分の顔をさらに順一に近づけようとする。

「はっきりいってお客様が何をおっしゃりたいのか、よくわかりません。他のお客さまに迷惑を掛けるとお気遣いのようですが、当店は皆様が席にお着きになったところで、お料理を出すことになっています。お客さまが席に着きませんと、それこそ他のお客さまに迷惑を掛けることになります」

 順一はそこまで言われたらしかたないと思った。

 ランチだから長くても一時間ほどだろう。その間を耐えればいいのだ。

 どうせ席は一番壁側の奥に違いない。

 以前のサラリーマン時代の順一だったら、こんな超一流のレストランに入れたのであれば、気持ちは晴れがましく高揚しただろう。

 しかし今は違う。

 案内係が前にたって部屋に入っていく。順一も後ろに続いて中に入っていく。

 店の人からも、食事をしに来た人からも一斉に視線を浴びることを覚悟した。

 しかし誰も見ない。先程カクテルを飲んだ待合室と一緒だ。

 案内係が振り向くと、順一の心を見透かしたように、「あなたが思っているほど、誰もそのようには思っていないものです。それにあなたを変に見る人もいません」と言った。

順一は、恥ずかしさを覚えた。

 部屋の隅のテーブルもすべて人がいる。 

 順一はまさかと思った。

 そのまさかの席に案内係は順一を連れて行った。そこは展望のよい窓際の、中央に位置する場所だった。

 他の客席からも注目される場所だ。どうしてこのテーブルが最後まで空いていたのかがわからない。三人ずつ向きあって座る六人掛けのテーブルの真ん中の席を、案内係が引いた。どのテーブルも何人かで席に着いていた。一人で来るようなレストランではない。

 案内係の引いた椅子に座る。

 案内係は部屋を出て行った。

 別の係がやってきて、食前酒のメニューを開いて、順一の前に置く。

「私はランチサービスですから」

 どこかに、とんでもない勘違いが有るはずだ。間違いがわかったときの為に、待合室のときと同じように言った。

 若い係の人はニコッと笑うと

「わかりました。それではシェリー酒をお持ち致しましょう」

と言って引き下がった。

 係はここで話をしていてもらちがあかないと思って、シェリー酒に決めたのだろう。すぐにシェリー酒が運ばれた。

順一はグラスを傾けながら、窓の外の昼下がりの風景を眺めていた。

 ちょうど眺めていた方角に、以前勤めていた会社が入っているビルがあるはずだ。

 しかしどのようなわけか、そのビルのある辺りだけが霞んでいて見えない。午前中の仕事の疲れと、今のゆったりとした時間の流れのなかで、アルコールが回ってきたせいか頭がボーッとなってきた。

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