第6話 ➅
ヤスベイは一週間ぶりに帰ってきた。右隣の色のはげ落ちたベニヤの扉を開ける。
「一太。元気でおるか」と声を掛けるのが習慣になっている。
一太は、ヤスベイよりもさらに年寄りの爺さんと住んでいる。
一太の両親は生まれてまもなく離婚をして、母親に引き取られたが、その母親が年老いた父親に一太を預けると、そのまま行くえが、わからなくなってしまった。
一太は知能に障害を持っていて、十歳になるが、言葉で気持ちを表すことが上手にできない。
時々お漏らしをしてしまうことがある。ご飯を食べた後に、顔が赤くなってくると、いそいでトイレに連れて行かないと、大変なことになる。
一太と爺さんの部屋の前のどん詰まりが、トイレになっている。
爺さんは買い物や、福祉の金のことで役所にいくときなどは、
一太を家において出掛けていく。
帰って来ると昼をだいぶ過ぎてしまうこともある。
腹がへった一太は、ヤスベイの部屋に入り込む。ヤスベイが一太に菓子をやるからだ。ヤスベイがいないと、かってに部屋をあさり始める。
ヤスベイはそれに気づいてから部屋に、菓子やバナナなどの果物を置いておいた。
その後、一太は順一の部屋にも入り込むようになった。
ある時、順一が仕事から帰ってくると、ヤスベイが雑巾で畳を拭いている。窓は開けてあるが、部屋に異臭が漂っていた。ヤスベイは順一の顔を見ると、気まずい顔をした。
「わるいね。かんにんやで。菓子買っといたんじゃが、箱の開け方がわからんかったんじゃな。そんでもってこの部屋にきて炊飯器のふた開けて飯を食ったんや」
順一はその日も仕事で嫌なことがあった。それでイライラしているときだった。怒鳴りたい気持ちを必死で押さえた。
『ヤスベイに怒ってもしかたない。ヤスベイは自分とは関係のないことで順一に謝っている。もし順一がここでヤスベイに怒鳴ったらヤスベイはどうするだろう。居直ってくるだろうか。怒鳴り返してくるだろうか。それとも何も言わずに出て行くだろうか』
順一は怒鳴らなくてよかったと思った。
ヤスベイは、順一が疲れ焦燥しきった顔で突っ立ているのを見た。
「仕事大変なんじゃろうな。悪いのう。あんたさんが苦労した金でこうた米を勝手に食われたらたまらんわな。みんなワシが悪いんじゃ。一太のためと思って、菓子を買っておくのが、だれそれの部屋に入って、あるものを勝手に食ってもええ思うようになってしまったんだわな」
ヤスベイは汚れた雑巾をしっかり握ったまま順一に深々と頭をさげた。
前歯が欠け、日に焼けた深いしわだらけの顔は、作業現場で現場のおやじから怒鳴られている日雇い老人の顔だった。
「いや、いいんだ。ヤスベイエさんの責任じゃない。誰の責任でもない。別に何の問題もないんだ」
順一は自分に言い聞かすように話した。
ヤスベイは顔をクシャクシャにして笑った。
「そう言ってもらえれば助かるわな」
「ところで一太は」と話を変える。
「そうじゃ。そのことで頼みたいことがある。一太の汚れたパンツはワシが洗ってワシの部屋に干してある。それでこのことは爺さんには知らせてないんじゃ。爺さんが知ると、一太を叱りおるんじゃ。こいつは言葉でゆうてもわからんからと、箒でたたくんじゃ。だからあんたも爺さんにはこのことを言わないでもらいたいんじゃ。爺さんも大変じゃ。ワシラ以上に大変じゃ。隣近所に気をつかわなアカンからな」
順一はどうしてか、うれしい気持ちになる。
「ヤスベイさんわかったよ。それじゃ一つ、この部屋にも菓子を置いておくことにする。そうすればヤスベイさんも家に帰れないときも安心でしょう」
ヤスベイは一層顔をクシャクシャにして
「おおきに。おおきに」と何度も繰り返した。
ヤスベイはときどき居なくなる。長いときには十日以上も居なくなるときがある。
廊下でしばらく振りに、すれ違ったとき、
「ヤスベイさん久し振りですね」と声を掛けた。
「なんの、おとといから居たわな。東京を離れてキツイ仕事しておったんじゃ。そんでもっておとといからずっと寝ておったんじゃ。
ちょっと頼みたいことがあるじゃが。もし飯が残ってたら、茶碗一杯もらえんかの」
順一は、炊飯器を開けると「入り用なだけ持っていってください」と言った。
ヤスベイは茶碗に、少ししか飯を盛らない。
「三日も寝込んでいたのにそれだけしか食べないのじゃ身体を壊すでしょう」
スーパーで買った総菜の半分をその茶碗の上に載せた。
ヤスベイがずっと寝ていたというのは、昼間の話なのだろう。順一が居る、夕方から朝にかけては、居る様子がなかった。共同トイレと共同洗面所だし、安普請の部屋だから居れば気配でわかる。
ヤスベイがどんな仕事をしているかは知らない。
ただ二ヶ月ほど前に、順一が熱を出して困っていたことがある。 仕事を休むわけにも行かない。休めばその分給料が減らされてしまう。
だからといって医者に行けるほどの金もない。スーパのビニール袋に水をいれて頭を冷やして寝ようと思い、洗面所に行った。
ヤスベイが、どうしたのか聞いてきた。
「そりゃ大変だ。ちょっと部屋で休んでなきゃいかんわ」
と言って、慌てて自分の部屋に戻って行った。
頭に水の入ったビニール袋のせて寝ていると、ヤスベイがいろいろな薬を持って入ってきた。
「これが熱さましの薬。これが抗生物質。これが胃薬や。飯を食った後飲むんや。抗生物質と胃薬は夜だけや」
ヤスベイの持ってきた薬は、薬屋で買う薬とは違って、医者でもらうような薬だった。
後日、快復してヤスベイに礼をいい、薬について聞くと、途惑った様子を見せた。
「友達に薬にくわしい男がおるねん。そんで、そいつからわけてもろとるんや。わしらじゃ、病気になったからといって、薬も買えん、医者にもかかれんからの。でもな、重宝しとるで、わしらの仲間ではわしのことを、医者だと思っているものも、おるぐらいや。具合が悪くなるとわしのところに来よる。そしてわしから薬を持っていくわ」
ヤスベイから途惑った表情はなくなり、順一の関心したような顔を見ると、今度は自慢げな顔になる。
「薬やるわな。金を出せというわな。半分くらいの奴が金をだすわ。全額はださん。少しや。残りの半分は。今ないから後やというわな。こいつらは絶対に出さん。なかにはこんなのもおるで。金だせというやろ、そうすると、薬、投げ返してくるんや。そうしたら、こちらも、また投げ返さなあかん。うそや冗談やというてな」
ヤスベイは小さく首を左右に振る。
順一はヤスベイの目をじっと見て言った。
「ヤスベイさんは、友達から薬を買ってるんでしょう」
ヤスベイはまたちょっと途惑った顔をする。
「いや、友達の仕事の手伝いをしておるんや。そんで、その友達が薬について詳しいので、薬は手伝いすると、わけてくれるんや」
順一には何もわからなかった。でもヤスベイの仕事というのは、その友達の手伝いだという気がした。
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