第5話 ⑤
順一は、体の芯につめたいものを感じて、身震いをした。
門番が扉のところに立つと、重々しく扉を開け、令嬢と紳士と秘書を迎え入れた。
順一は逃げる必要がなくなってしまった。
そして思考は停止した。
支配人は順一の方に向き直る。
「大変失礼いたしました。あなた様の席を準備するように手配いたしましたので、どうぞお入り下さい」
順一は、率直にいえばいいのだと気が付いた。
「どうもわかりません。見てわかるとおり私はこのレストランに入るのには相応しくありません。お金はもちろんありませんし、服だって汗くさい作業着をきているのです」
言った後に、このようなことは支配人は僕を一目見るなり分かったはずだと思った。
しかし支配人は何かを勘違いしているのだ。
だから、僕の言ったことはやはり意味があったのかもしれない。これで支配人は僕を相手にしなくなるだろうと思った。
ところが支配人は、微笑みを浮かべながら言った。
「料金はあなた様が了解される額で、ご用意させて頂きます。心配ありません、ランチサービスをおこなっているのですから。服はたしかに夜の部ではそれなりの服装をお願いしているのですが、しかし今はランチですので、作業着で・・・・・・」
支配人はそこまで話すと、我慢が出来ない、と言うように声をだして笑った。
「失礼いたしました。そのお姿でかまいません」
そこにまた黒塗りの車が停まる。
ドアボーイが現れ、車のドアを開けた。
二人の男が車から出てくる。順一は一人の男に、目が釘付けになった。それは、順一に退職願いを押しつけた、人事部の男だった。
人事部の男は、門番としばらく話をしている。
しかし、どうも話はうまくいっていないようだ。
人事部の男は支配人を見つけると、歩み寄ってくる。
しかし順一のことには気がついていない。
僕はこの二年間で頬はこけて、髪も白くなった。さらに汚れた作業服を着て、無精ヒゲをはやした男の姿から、二年前の順一を見つけ出すのは、しばらく時間の掛かることだ。
「支配人、ちょうどいいところにお出でになった。このわけのわからない門番が、予約で席がふさがっていて、入れないなどと失礼なことを言う。そのようなことで断れる客ではない、ということを教えてやってくれ」
人事部の男は、二年前に首切りとリストラを強行して、業績の落ち掛かった部署を再生させた。
ちょうどそのころ、仕事の良好な波が押し寄せ、一気に企業の成績が伸びた。人事部の男の手腕が大きく買われ、この二年間で役員にまで駆け上った。
そして二ヶ月ほど前、業績の伸びを支援してくれた大企業の取引先の重役に誘われて、このレストランの晩餐会に出席した。
大企業の重役から支配人を紹介されると、二言三言会話をした。 その時、上流階級になるということは、このような場に出入り出来るようになることだと、つくづく感じたのだった。
帰りしなに大企業の重役から、この店は昼間であれば予約しないでも入れるが、夜は紹介がないと入れないことを聞かされていた。
支配人の顔が無表情になった。
「門番が失礼なことを申し上げたのでしたらお詫び申し上げます。しかし、この店の入店につきましては、門番がすべて掌握しておりまして、お客さまに失礼のないように応対しております。したがいまして、支配人をもっていたしましても店の状況を知るものではございません」
人事部の男は、高圧的とも思える支配人の態度にむっとした。「私は、前回、この店の重要な客である大企業の重役とともに来たのだ。それで今回、我が社の社長をお連れしてきた。賓客の接待で使うかもしれないからだ。いったい店に入れないとはどういうことだ。何なら大企業の重役と連絡をとってことの顛末をはなし、対応してもらうがそれでいいか」
支配人の無表情は変わらない。
「そのご心配には及びません。実はあの重役は今でこそ、この国の経済に影響を与えるような立場におりますが、以前は門番の下で働いていた男です。ゆえありまして今、外で働かしているのです。店のことで勝手なことを申したとのことですので、私の方で呼びつけまして話をいたします。いえいえ大丈夫でございます。店の忙しいときには今でも呼びつけまして、皿洗いなどをやらせております。ついでに片付けますので、余計なお心遣いは無用です」
人事部の男はどこまでこの支配人を、信じていいのか、わからなくなった。
もしこの話が本当だとしたら、自分は相当不味い立場になることは明らかだ。
もしこの男が法螺吹きだとしたら、先だっての晩餐会での各界の著名人との親しげな挨拶を、どのように理解したらよいのだろうか。
「支配人様、お言葉ではございますが、重役が皿洗いをしているなど、とても思えませんが、それはさておき我が社の社長をお連れして来たわけですので、このまま、おめおめと帰るわけにはいきません。先日のような各界の著名人が集まるような機会に、我が社の社長と私を招いて頂きたいと思います」
支配人の顔が、舞を舞っている能面のように感情を露わにした。
その顔を順一は恐いと思った。
「当店が晩餐会を開くことはありません。晩餐会を当店で開かれる方はおられますが、その運営や企画に当店は口出しをするわけにはまいりません」
人事部の男は不満そうな表情を露骨に出し、「それでは、どんな晩餐会が予約されているか教えてもらおう」と言いながら、支配人の後ろに立っている、薄汚い作業服の男を見た。
突然大声で叫んだ。
「なんだおまえは。何をしているんだ。おまえの来るような場所ではない」
人事部の男はさも汚いものを前にしたように、一歩下がってさらに言葉を繋いだ。
「もしおまえが、恨みで俺をつけ狙っているのであれば、それはおまえの自分勝手な妄想だ。俺は、お前に最善の道筋を作ってやったのだ。おまえの首を切った後、会社は急激に発展した。私の判断と素早い行動は実に要を得ていた。会社の癌を見定めて、それをすっぱりと切り落とした。その判断の正しかったことの証明が我が社の発展と今のおまえの姿だ。もしおまえが、あの部署に居座り続けていたならば、会社の発展はなかっただろうし、やがて誰もがおまえが居ることの間違いに気付いただろう。いいか、おまえは、居てはいけない所にいた。それを俺は教えてやったんだ。今のおまえの姿こそ、一番おまえに似合った姿だ。おまえに似合ったねぐらを見つけ出すために、俺はおまえに力を貸したんだ。感謝されることはあっても、恨まれる筋合いはない」
門番は車の扉を開けて、大きな咳払いを一つする。
しかし人事部の男は気がつかない。
「しかし、ここでおまえに会ったのは、一つの教訓かもしれない。 今のおまえの姿はどうだ。自分の妄想で描いていた価値を、すべて失ってしまった男の姿だ。俺のように、能力と実力に裏打ちされて仕事に邁進していればこそ、自分の存在と価値が光り輝いてくるというものだ。おまえに言っておこう。おまえは俺を恨んでいるかも知れないが、やはり人生にも勝ち負けはある。今の俺とおまえを比べてみれば、誰が見ても、どちらが勝ちを取り、どちらが負けたかは明白ではないか。それに異論を唱えるものなどあろうはずはない。おまえのように、自分にたいして驕り高ぶり、安易な道を選び、妥協を繰り返し、自分の立場に固執したものには、やはりそれに見合った天罰があってこそ、誰もが人生の不条理を見返し、勇気と熱情でこの世の生の勝利に向かって、肉を削り、血と汗を淀みなく流し続けられるというものだ。おまえはおまえの怠惰と人生の甘えで、やはりその実体が露呈してきてしまった。おまえが我が社に居座り続けていたなどとは考えられないことだ。それはお互いに不幸なことだった」
人事部の男は一気にまくしたてると、薄ら笑いを浮かべて、また同じ話を繰り返す。
「どうだ、そのかっこうで、おまえはやっと自分の場所を得たという感じではないか。それは、おまえも含めた誰もが納得できる、おまえの正直な姿だ。しかしここは、おまえには不似合いな場所だ。どうしておまえは自分に不似合いな場所に来ようとするのだ。まだ卑しい根性が、腐った心に巣くっているに違いない。その巣をぶち壊すためにもはやくここから立ち去れ」
門番が車のなかにいる社長に語りかけている。運転手が車から降りると、人事部の男に歩み寄り一礼し、小声で語りかける。
人事部の男は、やっと車に社長を待たしていることの重大さに気が付いた。
順一を苦々しく見る。
「いいか、俺は二度とおまえとは会いたくはない。絶対に俺が居るような場所へ来るな」
小走りに車の方に向かう。一旦止まり、支配人の方を向くと、何か言いたそうにしたが、支配人は順一の向こうがわに場所を移動していたことと、運転手が急かすのとで、何も言えないままで車に乗り込んだ。
順一に扉の方に行くようにと、支配人は手を指し示した。
順一は穏やかになった支配人を見つめる。
「ちょっと待ってください。あの男に門番の方が席がないと言われたではありませんか」
支配人は、もう一度微笑みを浮かべ
「大丈夫です。サービスランチの席は別に用意してあります」
と、言った。
支配人は、順一の肩を押した。それは思いのほか強い力だった。
常識で考えれば、自分が今、この姿でこの店に入れば、あっという間に摘み出されるだろう。
しかし自分から望んで入るわけではない。この店の支配人から強引に誘われて中に入るのだ。他の客や、従業員からなんと思われようが自分が悪いわけではないだろう。順一は門番が扉を開けて待っている方に向かって歩いた。
扉を入り、赤い絨毯の敷かれた廊下を少し歩き、右側の木調の扉を開けて、やはり赤の絨毯が敷かれている部屋に案内された。
ロココ調のその広い部屋は、円形のテーブルが四組と、バーテンの居るカウンター、それに立食パーティーができるような広いスペースがあった。
一つのテーブルには男性が二人と女性が三人が腰掛けて、仕事の話をしているようだった。もう一つのテーブルの方は男性が三人とその男性の上司と思われる女性が一人座り、こちらの方は楽しそうに、しかし静かに話をしていた。
カウンターの奥の壁の棚には、お酒の瓶が美しく並べられていた。
順一が居られる場所など、どこにもない。
先ほどの門番は、木調の扉を開け、中に順一を入れると、扉を閉め、自分は部屋には入って来なかった。
部屋に居る誰も、順一が居ることなど気づいていないかのように、自分たちの話の世界に入っていた。
カウンターの中の黒の蝶ネクタイをしたバーテンが順一の方を向いて、カウンターの椅子に座るように両手で場所を指し示した。
バーテンはカクテルのメニューを順一の前におき、
「食事の準備まで少々時間がございますのでどうぞお選び下さい」 と笑み浮かべながら言った。
「いやいらない。僕はランチサービスなんだ。百五十円の」
とんでもない場違いのことを言っているような恥ずかしい気持ちになる。でも実際そうなのだ。ここは絶対にはずしてはいけないところだ。
人事部の男が目の前に浮かぶ。
『おまえは場違いのところに居たんだ。それがどんなに周りに迷惑をかけていたのか、まだわかっていないようだな』
強い信念を持たなくてはいけないと思う。まだ確かにわかっていないのかもしれない。しかしここに来たのは自分の意志ではない。 いや自分の意志で来たのだろうか。なんだかよく分からなくなってきた。
「いいえ、サービスランチでも結構でございます。どうぞお選び下さい。しかし一つだけお願いがございます。このお店に来られる方は誰もお金のことを心配されません。また、心配しなければならないような方は、このお店には来られません。どうか、これからはお金の話は絶対にされませんようにお願い致します」
とはいっても、順一はそのような立場の人間ではない。だってこの店でサービスランチなんてものがあるはずがないではないか。
食パンのミミでさえ、一万円もとりそうな店だ。
バーテンは厳めしい顔になると、順一の心を見透かしたように言った。
「考えることは大切なことですが、考えないことも大切なことです。ようするに考えてもわからないことは、しっかりと見つめて、その有り様を受けとめるということです。さて、リンゴの味はお嫌いではありませんね。それでは先月ニューヨークで開かれました、世界のカクテルコンテストで優勝した私の作品を召し上がってください。お食事の前ですの、甘味は抑えて、食欲を増す程度のアルコールの度数にいたします」
順一の前にだされた、細長いカクテルグラスに入ったピンク色の飲み物は、グラスの持っている品格に充分に勝っている色合いと、不思議な風格を持っていた。
順一の背中の方から若い女性の声がした。
「それ、わたくしにも頂けないかしら」最初に自分に出されていないことに、不満があるような言い方で催促する。
続いて別のグループの女性からも、
「私にもね!」弾むような会話の流れを持ち込むように、笑いながら声が掛かる。
順一は後ろを振り向けないどころか、なにか後ろめたいものを感じながら、その淡いピンク色のカクテルを眺めていた。
「このカクテルは旬のもの、出来たてを召し上がって頂きます」
順一を促しながら、バーテンは新たにカクテルグラスを二つ、台の上にのせた。 順一はカクテルグラスを口に運んだ。
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