第4話 ④
青山墓地から表参道に向かって青山通りを歩いていくと、左手に格式の高いレストランがある。ただし、このビルがレストランだとわかっている人は、限られた人である。
一階の入り口は十段ほど赤い絨毯のひかれた大理石の階段を上がったところにあり、宮廷のようなたたずまいをしている。
もちろんドレスコードのある店で、普段着で一見の客が入れるわけはない。
順一には関係のない世界ではあるし、順一はそのビルがどこかの国の大使館だと思っていたくらいである。
「もしもし」
誰かが声を掛けてくる。最初、自分にとは思わなかったが、さらに声を掛けてくるので、そちらの方を向いた。
そこには、背筋の伸びた豪邸の執事のような初老の男が、微笑みながら立っていた。
「これから昼の部が始まります。まだ間に合います。お席もございますので、お召し上がりになっていきませんか。失礼とは存じますが、お見受けしたところ、まだ御昼食はお取りになってはいらっしゃらないかとご推察いたしますが。お気に障りましたらお許し下さい」
破れ赤提灯の止まり木だって、自分みたいなものに座られるのは嫌だろう。
誰かが自分を昼食に誘うわけはない。
ここで返事をしようものなら赤っ恥を掻くことになる。
きっと、後ろに声を掛けられた人がいるに違いない。
そろりと後ろを振り向く。
誰もいない。
初老の執事は小さく声をだして笑う。
「もちろん、あなた様に申し上げているのです。他には誰もおりません」
なんで自分は、からかわれなければならないのだろう。
しかし、初老の執事の穏やかな顔は、見ず知らずの人間を、からかうとは思えない。
しかし本当の悪人というものは、外見は人がよくやさしく見えるものだろう。
「あなたの御邸宅に、私のようなものが入るわけには参りません」
場に似合った表現を心掛け、慇懃に断った。
初老の執事は微笑みを浮かべたまま
「ここはレストランでございます。私は案内係でございますのであなた様をお誘いしているのでございます。どうぞ、どうぞお入りくださいませ」
私はしばらく立ち止まったまま、この状況を考えた。
この男はこのレストランとは、何も関係がないのではないか。
レストランの前には小太りの門番が立っているではないか。その上に客引きのようなことをする男が、外にいるはずはない。
第一この店にそんなことは似合わない。
もしかするとこの男は、奴隷商人のような仕事をしているのではないか。
店とはなにも関係ない男があたかも店のもののように装って、自分のように、この世から不自然に消えてしまっても、全く問題にならない人間を見つけて、さらっては安くしかるべき場所に売り払ってしまう。
私がレストランに入るのを了解すると、きっと扉とは別の方に私を導いていく。
「今の時間はその扉からは入れません」
そしてこの先の脇道につれて行く。
そこに古くさい幌の掛かったトラックが止まっていて、あっという間に荷台に放り込まれてしまう。
虫のような生を歩んでいるが、せめて虫のように孤独な死を迎えたい。ここは、なんとしてでも逃げよう。
しかし下手に逃げると、脇道から屈強な男が二人ほど出てきて、あっという間に捕まってしまうことになるのだろう。
うまく男に気づかれずに、この場を去ることだ。
そこにピカピカに磨かれた、大型の黒塗りの乗用車が止まる。
門番が小走りに歩み寄ると、車のドアを開ける。
中から、女性が現れる。
ドガの【舞台の踊り子】のように、そこだけに光があたったかのように見えた。
助手席から鞄を抱えた秘書らしき男、そして最後にロマンスグレーの髪をきれいに整え、見るからに仕立ての良い背広を見事に着こなした紳士が現れる。
門番は深々と一礼する。
女性は後ろを振り向き、紳士に笑いながら話している。
私はしばらくの間、いや、それは一瞬だったかもしれないが、その光景に見とれていた。
私の前にいる執事ふうの男は、その出来事に気づかない。
まだ私を誘っているのだ。
この期をうまく利用して、逃げられるかもしれないと思った。
『そうだ男の横をすり抜けて、門番の方に走ればいい』
と思った瞬間に、とんでもないことが起こった。
女性がこちらに向かった歩き始めたのだ。紳士と秘書もその後に従った。
夢の世界と現実が、不思議な接点を持ち始めているように感じた。
そして執事ふうの男の真後ろに、女性が立つ。
順一は大人の女性だと思っていたその人が、まだあどけなさの残る、その目の輝きが周りの空気をも新鮮な光に変えてしまうような少女であることがわかった。
「支配人様」
バラの蕾がささやくように言う。
執事ふうの男はゆっくりと振り向く。そして、順一を誘っていた微笑みが、満面の笑顔に変わる。
「マリ様やっとお会いできましたね。この日が来ることを首を長くしてお待ちしておりました。しかしそれにしてもなんとお美しくなられたことでしょう。パリへ留学中はお爺様は本当にご心配されていましたよ」
お爺さまとは、この紳士のことなのだと順一は思った。
少女の横に紳士は歩み寄った。
「実はこれは昨日帰ってきたのだ。私も先週ロシアから帰ってきたばかりで、午後時間がとれたので、孫娘を呼び出したところだ」
「それは、それは、よく来て頂きました。何なりとお申し付け下さい」
一瞬令嬢の目が、順一を見たような気がした。
悪夢と夢が、支配人と呼ばれた男のところで、ひっくり返りはじめた。
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