第3話 ③
この生活に入って二年の歳月が流れ、二回目の秋を迎えた。
一年目の終わりに、溶接の技能資格を取り、それから電線の溶接の仕事に携わった。汗くさい作業着を何日着続けても気にならなくなっていた。借金の返済に追いまくられて、生活は困窮を極めていた。幸い大きな病気をしないでいるので助かっていた。どうせ独り身なのだから大病をしたほうが楽なのかもしれないと考えたこともあった。しかし、大病をしても居られる場所はない。やはり身体を動かせる今のほうがいい。
土曜の午後、残業がない日は正午で切り上げた。
地下鉄日比谷線の広尾駅で途中下車をして、青山霊園まで歩く。
今日も、誰にも知られることのない、この自分だけの世界に入ろうとしていた。順一には死んで入る墓がない。母は生前、もしものことがあったら、海に散骨してもらいたいと言っていたので、順一には躊躇うところもあったが、そのようにした。
父は、小春日和の穏やかな相模湾の波の上に、ひらひらと降りそそいでいる、粉になった母の骨を見ながら、「俺もこれでいい」と言った。
順一は、勤めていた会社を定年退職したら、妻と話し、何処かに土地だけでも確保しておこうかと漠然と考えていた。
今はその必要がなくなった。
土曜日になると、一週間の出来事が堆積し、腐った疲労になる。
誰と話すわけでもないので、静かな墓地にいることが一番心が休まった。
青山通りに近い方の外人墓地に、白い立て札が幾つも立っている。
『墓地の整理をするので、故人の縁故者は一年以内に連絡するように』
どれも立派な墓石が立っていた。祖国を離れ、異国に多くの知人を得て、豊かな生活を送ったのだろうか。しかし、今、その人を知る人はいなくなった。順一はその墓石の横に座ると、ここだけが誰も来ない、誰からも疎まれない場所に思えた。見上げると秋空に白い雲が浮かんでいた。
『やがて自分にも死が訪れて、煙になり、ゆったりとした白い綿雲になれるのだろうか』
時間は1時を回っていた。順一は、空腹感を覚えた。何処か食堂に入ろうにも金がない。それに、この姿では、どこに入っても追い出されるだろう。
この二日、ひげも剃っていない。以前では考えられないことだ。そういうことに、神経質だった。ワイシャツも一回着ると、さらに腕を通すことができない。周りを気にする必要もない今は、平気になった。
青山通りに出て地下鉄の表参道駅に向かって歩く。広尾駅に戻れば、会社から支給された定期で帰れる。表参道まで歩くと、地下鉄の最低料金分を払わなければならない。順一の唯一の贅沢になった。この道は、娘が小学校の頃、何回も手を引いて歩いた道だ。
まだ過去を引きずっていた。
一年ほど前、事務の手違いで、地下鉄の定期券の支給がされなかった。 今回は自分で購入するようにと言われ、そのため消費者金融のローンの入金が出来なくなった。そのことを事前に連絡し了解してもらったのだが、消費者金融の男が目を吊り上げてアパートに押しかけて来た。
「今月はちょっと出費があったもので、来月からまた払いますから」
消費者金融の男は部屋をジロッと見回し、「まさか賭け事でもやり始めたんじゃないだろうな」と言った。
順一はそれ以上なにも言わないで奥歯を噛みしめて下を向く。
しばらくすると消費者金融の男がまたやってきて、これに印を押すようにと、書類を出した。月々の返済額が今の半分になっている。しかし返済期間が四倍に延びた。生きているうちに返済が終わる期間ではない。しかし月々の生活は楽になる。順一は礼をいって印を押した。謝金の返済は終生背負い続ける重荷になった。
その重荷を下ろす方法は『なにも考えないことだ』と言うことに、しばらくしてから気が付いた。
『なにも考えない方がいい』という言葉をよく呟くようになった。
右隣の部屋に住んでいる、ヤスベイが顔を出す。
「あんた、なにか悪いことしたんかいね」
ヤスベイは順一より十歳以上年上の痩せて小柄な爺さんだ。
「いや、ちょっと行き違いがあっただけだ。もう大丈夫だ」
順一は、取り繕うように言った。
ヤスベイは何日も家を空けることがある。何の仕事しているのか本人もいわないし、聞いたこともない。順一が入居して間もなく、洗面所で米を磨いでいると、
「あんた米を炊くんかいね」と声を掛けてきて、知り合いになった。
電気釜は順一の持っている唯一の電化製品だ。
「本日ね、ちょっと食べそこなったじゃけれど、一杯だけ食べさせてくれんかね」と言ってから、ヤスベイは部屋から、縁の欠けた茶碗を持ってきた。プラスチックの杓文字で炊きたてのご飯を山盛りに盛ってやる。
「そんなにいらん。その半分でええ。すまんねえ、おおきに」
丁寧に頭を下げて部屋に戻っていった。
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