第2話 ②

妻と娘に早期退職の話をする。二人はなにも言わず、シラッという顔になった。

 翌週の月曜日、退職願いを人事部の部長に提出した。必要な手続きを終えると、 会社への入館証を返してもらうので、今後社には入れなくなるから、忘れ物をしないようにと言われ、それ以上の言葉はなく、営業二課に帰らされた。

そこで荷物を整理し、葬式のような型どおりの挨拶を慇懃におこなった。あれだけ仕事について語り合い、飲みながら愚痴を言い、家族の相談をした仲間は、自分とは関係ないことを形に作るように床を見たり、順一のいる場所とは逆方向の窓の外を眺めたりしていた。

長年歩いた廊下を踏みしめるように出口に向かう。何の感慨もないように無理矢理自分を追いつめて会社を去った。二週間後、妻の預金通帳に退職金が下りた。妻と娘は預金通帳と共に家を出て、妻の実家に帰って行った。

そして順一のもとに、印を押すようにと、離婚届の書類が送られてきた。

 堅固だと思っていた要塞はあっという間に瓦礫になり、藁になった柱が生温い空気にゆらゆら揺れている夢を地下鉄の駅のベンチで見て、ベンチから滑り落ちそうになり、慌てて背もたれにしがみついた。

隣に座っていた初老のサラリーマンが気持ち悪そうに席を離れた。 

 順一の両親は、順一が結婚すると間もなく、母が急性心不全で亡くなり、それを追うように父が交通事故で亡くなった。どういうわけか、両親とも親戚づきあいを嫌っていた。順一は一人っ子だった。

この年になって初めて、天涯孤独の身になった。

 会社から送られてきた手紙によると、次の仕事の紹介までには、しばらく時間が掛かるということだった。失業保険は考えていなかったし、退職するときにそのような話題は一切でなかった。

手にある蓄えは熱せられたフライパンの水がみるみる退くように消えていった。

 あわててマンションを売り払う。売値は購入価格より安かった。売値ではローンは終わらない。足りない分を消費者金融に事情を説明して借り、住宅ローンを無理矢理終了させた。過去を捨てたかった。

 自分でもいたたまれない刹那の逃亡を、繰り返し傷口に射し込んでいるようだった。道がぐらぐら揺れ、あてもなく、意味もなく、すがるものもなく、ただ思いっきり叫びたかった。あっという間に何もかもが簡単に崩れていくのならばこれまでの何もかもを、白紙にしたかった。

保証人がなくても借りられる、六畳一間のアパートを見付けた。

『こうなったら、落ちるところまで落ちてみよう。這い上がろうと、じたばたするより、どん底で這い蹲って生きていく方が、案外自分には似合っているのかもしれない』

 その部屋のすり切れた畳に寝転がり、染みだらけの天井を見ながら覚悟を決めた。

 会社を辞めて三ヶ月後、勤めていた会社から、これから働くことになる会社についての手紙が届く。出勤初日、背広を着ていくと、着古された作業服をあてがわれた。

そこはJR恵比寿駅のそばにある電線工場で、順一のアパートからは地下鉄日比谷線で、乗り換えなしで行くことが出来た。

作業服に着替えると、頭髪を金色に染め上げた、二十代半ばの男の下で、働くことになった。

 ビニールのチップが入った紙袋を一階の倉庫から二階のホッパーのある作業場に持って行けと言われた。

 紙袋に『二十キロ詰め』とコールタールのようなインクで印がされ、十七袋あった。順一は腰を押さえて、

「腰が悪いので、この仕事は難しい」と呟く。

男は、目を薄め眉間にしわを寄せる。

「やってみなきゃわからねえだろう。ふざけたことを言ってんだったら、いらねえから、帰れ」

 順一は、頭ごなしに怒鳴られた。

それから一ヶ月間は、毎日違う雑用を男に命令されて、行った。給料は日給で月に換算しても、一人でやっと生活ができるくらいの金額だった。

 妻と娘はまともな選択をした。

 残業は特別に必要になったとき以外はなく、定時の五時半にサイレンと共に帰ることができた。

 順一の借りたアパートは印刷所の二階にあり、そこには同じような部屋が後二室あった。順一が借りたことで、しばらく空き室になっていた部屋が埋まる。これで空き室がなくなった。

トイレは共有で風呂はない。銭湯には、週二回行くことに決めた。風呂好きだったので、毎日行きたいところだが、それほどの余裕はない。

 風呂に行かない日は洗面場で身体を拭く。洗面所は順一の部屋の前にあった。

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