レストランの約束

里岐 史紋

第1話 ①

 人事部の前の掲示板に人だかりが出来ている。

 順一はその背後から、『早期退職者の募集』と書かれた何の変哲もない掲示物を見た。最初の一行だけを読むと、自分とは関係のないことだからと、満員電車で踏みつけられた靴の先の汚れを気にしながらそこから離れた。営業二課の扉を開け、自分の机の上にカバンを置いて、引き出しから、指紋認証のキーを出し、コンピュータに差し込み、電源スイッチの場所を少し探してからボタンを押した。

 いつも通りの一日がはじまった。

 四人の営業二課の連中が、コーヒーメーカーが置いてあるテーブルの周りで立ち話をしていた。コンピュータが起動するまで、順一はそちらの話に聞き耳をたてた。三十五歳以降の募集で、若ければそれだけ退職金の割増が大きい。五十代になると退職金の割増がない代わりに、今と見合った待遇の職を紹介してくれる。まとまったお金を手に入れたいものには、いい話だ。しかし、順一はまとまったお金が必要ではなかったし、万年平社員の今の環境が気に入っていた。コンピュータが起動したので、今日のスケジュールを確認し、メールを読む。

 この会社に入って三十年が過ぎていた。振り返れば会社にとっても自分にとっても、平坦な時期より、危険な時期の方が多かったように思う。眠れない日が何か月も続いたこともあった。その時は生まれたばかりの娘の寝顔が自分を支えてくれていた。同期の平社員で残っているのは自分一人だけだ。新入社員の仲間で見つけたスナックで仕事が終わるとたむろしていた仲のよかった何人かは、今は完全に音信が途絶えて、連絡はとれなくなっていた。

しかし順調に出世を果たし、重役になっている者もいた。

また、それなりの地位を得て、関連企業の社長になった者もいた。順一にも、階段を踏みあがる機会が何回かあった。しかし、そのたびに不運な出来事が立ちはだかった。壁をぶち抜く力がなかったのだと思う。堪えて持ちこたえて、機転を利かす才がなかった。途中でもうやめようと思ったこともあった。しかし、家庭の経済がそれを引き留めた。

 一人娘が通っている学校は、気位の高い金持ちの子弟が集まる、大学付属の一貫校としての評判があった。

「父親が平社員なんてうちぐらい」

 娘と妻が声をあわせ愚痴を言う。

「PTAの会合はできるだけ目立たないようにしているわ。車の送り迎えがないのは私だけよ」

 妻は、娘の学校に行く度に決まり文句のように繰り返す。

 受注まで後一歩の仕事が二件あり、どちらも最近の自分の仕事としては大物で、この仕事がうまく行けば他の件も巻き込んで上昇のスパイラルが得られそうな気配もあった。ここまで持ってこられたのは私の経験がものを言ったからだ。年を考えれば最後のチャンスかもしれない。地から天を目指す時間はないが、二段飛びくらいはあってもいい。会社へは十分に貢献しているはずだ。時々飲みに誘う机を並べている若い社員達も飲んだ勢いで、こんなに働いている人をいつまでも平社員にしておくなんて会社変ですよと、言ってくれている。もちろん順一が居ないところでは別のことを言っているのだろうけれど。

『早期退職者の募集』があってからちょうど一週間が過ぎた日、人事部の部長から呼び出しがあった。

 この部長が十年前に入社してきたときは、順一が新入社員教育担当で三ヶ月間面倒をみていた。有名大学の大学院を卒業し、アメリカで博士号を取得して入社しただけあって、最初から出世が約束された存在だったのかもしれない。

「あなたのほうから来られると思っていましたよ」

 順一の顔を見るなり、話を切り出した。

 それが何の話だか順一にはわからなかった。

 部長は困った顔を見せつける。

「早期退職の話だよ」と、ぶっきらぼうに言った。

「あなたのための募集だと思ってもいい」

 順一は肩を叩かれるどころ、こん棒で思い切り背中を殴られた。

「いつまでもこの会社にいられるわけじゃないのだから、条件のいいときに決断をするのが、自分のためにも家族のためにも必要じゃないのかな。自分から言ってくれれば、私も親心になって考えたのだがね。今からでも遅くないからこれを書いてきなさい」依願退職願いの用紙を、順一に突きつける。

 順一は足掻くことも出来ず、三十年間のサラリーマン生活が、唐突に終わったのだと思った。

 

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