夜にひとひら 4/5
ただ、九月の雨。
和訳は苦手。だって英語圏の人はきっと、同じ感情を抱いていないから。
大学生の夏休みってこんなに長いんだな。レポートはどうにか区切りがついて終わりゆく八月の第四週。休みに入ってすぐに一旦地元に帰って、またすぐに東京へ戻ってきて、夏の間の特別講習も終わって車の教習場にでも行っておけば良かったとちょっぴり思う。
「もちろんあなたを忘れないし 忘れようとしても忘れられないことは あなたにも分かっているはず」
乙女だなぁ。
「暖かい九月の雨みたいに 一年後またここにいるよ ごめんね 心配しないで 行ってきます 九月の日々は ため息も、悲しみの明日もない 二人を包む 暖かい九月の雨が降る」
顔は好み。性格も悪くない。でも燃えきらない城守くんとの時間。
CDの歌詞カードじゃ、色も消えて形ばかり残る。
イヤホンは不調。携帯の電波は良好。
それでも鳴らない、アリシアからの着信音。
城守くんは友だちと海外に、沙耶香は今週は実家に帰っている、淳子さんに連絡するのはちょっと気が引ける。
相変わらず、私の交友関係は狭い。
エアコン代がもったいないから午前中は図書館。バイトもちょっと飽きがきていて休みなのにシフトは抑え気味だ。
上京してからマメに本を借り続けていたおかげで読みたかった本はあらかた読んでしまった。だから雑誌コーナーにある、たいして興味もない婦人誌や新聞を広げて斜め読みするのがここの所の習慣になっていたりした。そして、いい加減図書館で暇を潰すのも限界だな、と思って何気なく覗いた視聴覚コーナーにそのCDはあった。
「the brilliant green」の「SEPTEMBER RAIN」
留学していた頃は邦楽がたまに聞きたくて、でも帰ってきた今ではダイレクトに日本語の歌詞が響くのもちょっと疲れて、そんな時、懐かしいブリグリの世界観が今の私にはとても心地よかった。
無趣味な私だけど、関心がない訳じゃない。テレビもゲームもするしファッションだって嫌いじゃない。でもハマれない。けれどその中で音楽だけはちょっと違う。お酒に酔ってパソコンの前で足と指を組みながらぼーっとする時間。ハマってないけど、浸っているのかな。アルコールで過敏になった感受性が鼓膜の振動をキャッチする。ノッて歌いだしたりはしないけど曇りの日の二時間が一瞬に変わる。
退屈な昼下がりの太陽。
夜中三時の目が覚めてしまった夜明け前。
この歌は、何故か午前も午後も三時が似合う。
九月二週、空は雨、予報では一日中小雨らしい。
二週間、なにもしてないな。もしかしたら人生で一番怠惰な時間を過ごしていたかもしれない十日間。けれどそれも今日まで。明日は久々に帰ってきた城守くんとデートだ。
もう秋雨になるのかな。秋っていうより終わらない夏って気分だけれど。空気はまだ湿っていて夜更かしと遅起きで届かない日光、午前も午後もパジャマの生活。
明日が来る前に、少し外の生活に慣れておこう。濡れても痛くない撥水のジャケットといつものジーパンに奮発したレインブーツ。秋には早いけど雨なら言い訳できる格好に着替えて下駄箱の鏡の前に立つ。
そう言えば、これくらいの時期だったかな。真緒と学校帰りに二人で話していた内容を思い出す。
あれは雨降りの学校帰り、今思えばまだぎこちない出会った頃の私たち。
「それでね、善司に、私が魚だったら善司は水だねって言ったらなんて言ったと思う」
「なに」
「なんでお前が生物で俺が無機物なんだよって。ほんとバカ。この前もこっちとしては結構踏み込んで冗談っぽく気持ち伝えたのになんか相変わらずで。気持ち折れそうだよ」
あの頃はちょうど裕也とゼンジがクラスの人気者争いでプチ対立していて、前の学年から一緒だったよしみで裕也派だった私たちと、ゼンジ派だった真緒とはまだあまり仲が良くなかった。折れそうって言いながら、そう仲良くもない私に嬉しそうに喋っていた、まだ小学生だった彼女。
「西門さんはゼンジくんのどこがいいの」
「んー、なんだろ。言葉にするの難しいな」
「うん」
「んとね、私が善司を好きなのは当たり前で、理由、考える意味がないっていうか。そうだな、きっとそれは杏ちゃんが耕司くんのこと好きなのと同じ感じだと思うな」
「私たち兄妹だから」
「うん。だから私たちもそんな感じなの。私も善司もね、お互いの事、ほんとは何も考えてないよ。空気とおんなじ」
「ほんとの水と魚?」
「そゆこと。だけど当たり前は当たり前なりに工夫しないとほんとに当たり前になっちゃうからこっちも苦労してるんだよね。実際、ほんとは空気でもいいんだ、私たち。でも近頃なんだか違う関係もいいなって気分なんだよね」
「それはなんで」
「杏ちゃんも耕司くんがとられちゃったらやでしょ? 周りがいるから独占したい、それだけだよ」
「ちょっとわかるかな」
「ところで、アン王女は恋してますか」
「してません」
「杏ちゃんも、杏もいつか気付くよ。当たり前は楽で怖いよ。約束も何もない、ただの毎日が怖くなる」
「ふーん」
「なんてね、さり気なく呼び捨てしてみました」
「じゃあ、マオ王女は恋してますか」
「うん、それでも私は善司が好き。こんなに不安なのに、幸せなんだ」
「真緒が羨ましいな」
西門さんと杏ちゃんだった私たちが真緒と杏になった夕暮れ。
夕立に駆けだして軒下で何時間も喋った放課後。
親しみと恋心が瞳を輝かせていた真緒のあの息が止まるような横顔。
降りしきる雨の中で生まれて初めて他人にドキドキして、その鼓動の理由も分からないまま並んで立ち尽くしていた。
あれも、あの日も、ただ九月の雨だった。
出かけるといってもスーパーとコンビニ以外で、近場で私が行くところといったら酒屋くらいだ。こんなんでいいのかな、私。強い洋酒は最近自主規制しているので見るのは日本酒。日本酒が弱いお酒って言うのも我ながらどうかと思うけど。
店員さんとはもう顔なじみになっていて、日本酒でいいのがあるのかを聞く。メジャーどころは一通りおさえていたからそれ以外でと言うと濁り酒を勧められた。
今晩はこれでいくか。サイズも手ごろだから飲み干してしまっても明日には影響ない。城守くんとの最初のデートの日は奇跡的に危機を回避できたがそう毎回上手くいくはずもないから今日はちょっと酔うくらいにしよう。まあそもそもじゃあデートの前の日に飲むなって話しではあるけど。
つまみの乾物はいつものようにそら豆を揚げたやつ。いかり豆って言うらしい。東京に出てくるまで知らなかったけどこれがかなり美味しい。カロリーが気になるけどそれはそれ。こんなに美味しいつまみを発見できたことに感謝したいくらい。
その後家に帰ってぬる燗で一杯飲み、時間を置いて冷やで二杯。ほのかに酔ったくらいで断腸の思いで酒瓶を見えないところにしまう。
よし、今日も一日幸せだった。酒イコール幸せの方程式を心の中で呟いて私は眠りについた。
電子音が鳴っていて、うるさいなあと半覚醒の頭で思っているとピタッとやんだ。またしばらくすると同じ音が三十秒くらいの間隔で聞こえてくる。ああ、そうか。携帯の伝言メモの設定がそれくらいだったな。なるほど、そうかそうか。
そこで、後から思えば奇跡的に、それってつまり電話がかかってきているって事に気が付いて私は跳ね起きた。
「も、もしもし」
言いながら時計を確かめる。夜中の一時過ぎ。こんな時間に連絡をよこす知り合いなんて私には思いつかなかった。
「アン、ですか。私です」
「アリシアっ!」
心臓が飛び出るかと思った。眠気が一気に醒めて、でも起き抜けの理解力のなさと突然のパニックで状況に追いつけない。
「ごめんなさい。でも、アンしかいないです」
セリフだけ聞いたら愛の告白に聞こえなくもない言葉を、私は久々のアリシア言語に置き換えてなんとか状況を理解しようとする。
「アリシア、落ち着いて。まず、何があったの? それで、今はどこにいるの」
「スキヤバシのカラオケです。ユウキさんが私のカバン盗んで。お金なくて。今はお店の電話借りて電話してます」
「うん、うん、分かった。とにかく待ってて。すぐに行く。大丈夫だからね。心配しなくていいからね」
「ごめんね、アン。私、わたし…」
「待ってて。信じて待っててね。いい、すぐ行くから」
「うん」
電話を切って、すぐにでも飛び出したいのを懸命に抑えて朝の服に着替える。盗んでって、どういう事だ? とにかく、まず顔を見なくちゃ。電話の声じゃ安心できないだろうし。こんな時、都会の夜は便利だ。すぐにタクシーを捕まえて行先を告げる。
足と腕を組んで、それでも落ち着かなくて運転手さんに気づかれないように組んだ手で胸を揉んだ。どうすればいい? 気持ちはどんな乗物より急いでいるのに私にできることは何もない。黄信号で止まるたび、曲がろうとして歩行者に道を譲るたび、運転手さんを恨んでしまいそうな気持ちが疼く。落ち着かなきゃ。今の気持ちのままあの子の前に行っちゃいけない。後部座席にただ座るだけの私にできることは落ち着くことだけだ。
待っていて、アリシア。助けてみせる。今度こそは…。
長い交差点を座って待つのが嫌で、その手前でタクシーを降り、けれど今更焦っても仕方ないので速足くらいで雨の踊る歩道を進む。傘、持ってきてなかったな。あれだけ焦っていたんだし仕方ないか。雨粒は大きくてぬるかったけれどびしょ濡れになる前に私は店について、凍えそうなエアコンが湿った体を冷やす。店員さんに部屋番号を聞いているあいだ、身体の震えが止まらなかった。武者震いってやつなのだろうか。武者震いって頭は戦いたがって、でも繋がった身体は怯えているから起こるんだとずっと思っていた。だけど今の私は頭は冷静で、身体は今にも飛び出しそうになっている。
201の扉を開けると、中に放心したように立っていたアリシアがギョッとした顔で私を見つけ、複雑な顔で笑みを漏らした。
「来たよ。もう大丈夫だから。とりあえず座りなよ」
「はい」
素直に腰を下ろすアリシアを、こんな時だというのも忘れて、まじまじと見つめてしまう。こんな顔だった。こんな体つきだった。こんな雰囲気だった。
アリシアは、こんな人だった。
まだ不安がさめないアリシアはしきりに自分の手の甲をさすっていて、私はその上に片手を乗せて微笑みかける。
「アリシア。大丈夫だよ、心配なことは全部、私がなんとかするよ。落ち着いて、思いついたことから順に、私に話してみて」
不思議だった。彼女の瞳、表情、仕草でアリシアがどんな事を考えているのか手に取るように分かった。訴えるような目は私に謝りたくて、指に髪を巻く仕草は躊躇っていて、落ち着こうとして喉が震えるような深呼吸を繰り返している。
やがて、モニターに映るアーティストの話し声よりも小さな、初めの一言を発した。
「わがままでごめんなさい」
「ううん」
「アンはもう私のこと嫌いなのに、わがまま言ってごめんなさい」
「嫌いじゃないよ。行き違いがあっただけ。好きだから、アリシアのこと心配だったからこうして来たんだよ」
「うん」
「カバン、持ってかれたって、何があったの」
そう尋ねると彼女の表情がまた曇った。
「アンはいつも聞いてくれなかったけど、お付き合い、してないです」
「えっ」
「今日もバイトの帰りでした。断れなくてカラオケしたけど、ユウキさんはバイトの先輩で、大学が同じで、でも、それだけなんです」
「うん」
何だかよく分かっていないまま生返事をしている私。
「悪い人じゃないんです。でも、カレシみたいにするのやめてくださいって何度も言いました。でも聞いてくれなくて」
「付き合ってないの」
「そうです。今日もちゃんと言ったのに、ユウキさん怒って。カバン返して欲しかったらホテルまでこいって」
「ちょっと待って。それって、それってヤバくないの」
「あんなに怒ったユウキさん、初めて見ました。それで怖くて。アンとけんかしてて、ユウキさんにまで嫌われたら私どうしていいか…」
「アリシア」
私は頭にきていた。ざわざわとその男への怒りが込み上げてきて俯く彼女の視線を戻して私の目を見るようにする。
「そんな男はね、男じゃない。アリシアはそいつのお人形さんじゃない。もっと早く、私がちゃんとあなたの話しを聞いてたら絶対にこんな事させなかったのに」
アリシアの口から男の話しを聞くのが嫌で、頼れる人のいないアリシアを避けるように話しを聞かなくて、だんだんと諦めた目になっていく彼女を知っていたのに、私は一番の理解者でいたかった。
自分勝手なのは、私も同じだっ!
だけど、それでもアリシアを守りたい。これが償いの第一歩なら、私はいくらでも戦ってやる。
「カバン、取り返すよ」
「でも」
「だって大事な物全部その中でしょ」
「はい」
あれ、それってつまり、どういう事だ?
「確認だけど、財布もないんだよね」
「はい」
「じゃあユウキくんはどうやってカラオケのお金払って、タクシーでラブホまで来させるつもりだったんだろう」
「さあ」
「ユウキくんは、アホなの」
「ふふふっ、アホですね」
笑ったアリシアの顔は本当に素敵で、私は心で謝って、いきなり目の前に現れた戦いに心の中で小さく気合を入れて、この笑顔を守ろうって強い気持ちで彼女の手を引いて立ち上がった。
ラブホ、ラブホと簡単に口にするしよく聞きはするけれど、ラブホってつまりラブホテルで、恋人たちがラブするためのホテルなんだって、妖しげな雰囲気で並び立つ建物が初めて来る私たちに無言の威圧感を与える。
ロビーに入って、システムもなにも分からない私たちに、無人だとどこかで聞いていたはずの受付からおばさんが出てきて、いきなり問い詰められる。ここはいっそこのおばさんを味方につけようと洗いざらい事情を説明したがおばさんは興味なさそうに「通っていいよ」と言って奥に引っ込んでしまった。
エレベーターに二人きり。ゆっくりと表示を変えるパネルが鼓動を早める。アリシアは今どんな気持ちなんだろう。ホテルの前に立ってから今まで、自分の緊張で手いっぱいでまともに彼女を見ていなかった。
「アリシア。弱気になっちゃダメだよ、悪いのは相手なんだから絶対に謝っちゃいけないからね」
「大丈夫。アンがいるから」
もうここまで来たらやるっきゃない。エレベーターの扉が開き、教えられた部屋の前に着くと私は一旦隠れてアリシアがドアベルを押すのを見守る。
「ユウキさん」
開いた扉からユウキくんが顔を出す。あれ、案外普通なんだな。もっとオタクっぽくてヤバいやつなのかと思っていた。イケメンではないけれど暗そうにも見えないし、こんな事態にならなければ普通にすれ違う大学生と何も変わらない。
「アリシア、ごめんな。待ってるあいだ、これでも結構反省してた。とりあえず中で話そう」
「いいですけど、もう一人います。アン」
私が顔を出すとユウキくんは驚いた顔をして、それから不機嫌そうに下を向いて「しょうがないか」と呟いた。
通された部屋の中は薄暗いだけで広めのビジネスホテルとそう変わらない。最初が肝心だと思って照明を明るくするように言うとユウキくんはあっさり言う事を聞いて部屋は本当に普通のホテルと変わらなくなった。
「まず、カバン返して。話しも言い訳もそれからだよ」
「分かってる」
あっさりと事態が推移している。ひざまずけ、とユウキくんに言ったら本当にそうしかねないくらい彼は穏やかで何だか意気込んできたこっちが拍子抜けしてしまう。
こんな状況で、私が悟ったのは、愛も恋も、人間の感情の一部なんだ、っていう当たり前の感想だけだった。愛も恋も知らない私だけれどその気持ちはすとんと胸に収まる。
ユウキくんは自分のしたことを分かっている。分かっていることを、アリシアも知っている。私が口を出す隙間なんてどこにもなかった。
それでも、このまま二人にする訳にもいかないから考えていた事を口にする。
「あのね、ユウキくん。もちろん反省しなきゃいけないけれど、正直言うと少し同情もしてる。昔だったら情熱で片付いた言葉が、今はなんでもストーカー予備軍になっちゃって男の子は大人しくならざるを得ないよね。だからやり方を間違えはしたけれど、その気持ちは否定しない。私がいてやりにくいだろうけど、最後のチャンスだと思う。今の気持ちを、アリシアに伝えたらどうかな」
あっけにとられたような顔をしていたユウキくんだったが、そう言うと見ていても分かるくらいに表情を変えて、覚悟を決めた男の面持ちで、アリシアの前に向き直った。
「アリシア。悪かった。最低な事した。だけど好きだ。誰より、何より、アリシアが好きだ。ここにある気持ち、すげー熱くて、切なくて、アリシアといると、いつも楽しいんだ」
アリシアは多分、言葉の全部をきちんと呑み込めていない。日本語がネイティブのユウキくんとアリシアではきっと、同じ感情を抱いていないから。
本当は二人にしてあげたかった。邪魔者なのは分かっていた。だけど言葉を超えた想いが二人の間に、確かに橋をかけていた。
「ありがとう。ユウキさん。ユウキさんの気持ち分かりました。でも付き合えないです。私は恋してないです、好きな友だちです。ユウキさんの考えている事、いつも知ってました。優しいユウキさん、好きでした。ありがとう。本当に、ありがとう」
それを聞いたユウキくんはすっきりとした、爽やかな表情で、ただ瞳を潤ませていた。
「分かってたよ。知ってた。特別じゃないって。だけどさ、叶わなかったけど、この気持ち、俺の中でマジで本物なんだ。だから、こっちこそありがとう。これからバイトで会っても、俺いつも通りにしてるけど、ちゃんと切り替えてるから。アリシアを困らせたりしないから。だから、だから…」
ユウキくんは負けなかった。自分の気持ちや都合よりもアリシアの事を大切にしていた。
部屋を出ていく時に、「宿泊でとっちゃったから、もったいないから二人で泊まっていきなよ、タクシー代もったいないし」と笑って去るユウキくんの事を、理由もなく追いかけたくなった。追いついてもきっと何も言えない。だけど人の数だけ愛や恋があって、親しくもない他人の恋なんて鬱陶しいだけだったけど、そこには確かに真心が想い人に揺れていて、その眩い想いはきっと、世界を変える力を持っている。
誰もがトイレに行くように、誰もが性欲を持っていて、それと同じかそれ以上に誰かを愛する機能が人間には備わっている。
残された部屋で、終わった安堵と照れくささが私たちを微妙な半笑いにさせて、アリシアと二人、からっぽの部屋の中で手のひらを打ち付け合って笑った。
シャワーの音が聞こえる。
さっきっからずっと。その音にたまに不協和音が混じるからそこに人がいてお湯を浴びているんだって分かる。ざあーーー、ではない、ぱしゃ、や、かつん、が聞こえるから。
アリシアは裸で、私はそれを知っていて少し照れている。出てきた彼女に、私はなんて声をかけたらいいのだろう。
お休み、大変だったね
疲れたでしょ、もう寝ちゃいな
何を言っても下心があるように聞こえてしまうと思うのは自意識過剰なんだろうか。
この、私が腰かけているベッドは眠るための物じゃなくセックスするための物なんだ。そう思うと今更ながらここはラブホなんだと再確認してしまう。
シャワーの音が終わった。
終わらないで欲しかった。でも急に途切れた水音は容赦なく静寂を運んでくる。
胸が痛かった。呼吸も苦しくて慌てて大きく息を吸い込む。
「お待たせ」
濡れた髪もそのままに、バスローブを身に着けたアリシアが不思議に明るい表情でこちらに歩いて来る。
「どうしたの」
「ううん。大変だったけど、アンと会うの久しぶりです。なんか眠くない」
「ああ、頭覚めちゃったんだね。分かるよ」
「アンもシャワー使って。服、濡れてます」
「うん」
交代でバスルームに向かい、頭から熱いお湯を浴びていると溜息が漏れる。シャワーが体の内側にある疲れを押し出して閉じた目の奥がかすんだ。
そうなんだよな。ばたばたと慌ただしい今日だったけど、アリシアに会うのは本当に久しぶりなんだ。一カ月、もう二カ月くらいか。思えば馬鹿な理由から時間を無駄にしてしまったな。夏休み、もっと色々できたのに、あの子と二人で思い出を作れたのに。
お風呂から上がって部屋に戻るとアリシアが懐かしい電子辞書を片手に何か読んでいた。
見るとそれは部屋のオプションについてで、ご飯が頼めたりカラオケができたりと、まあそう言う種類の説明書きだった。
「お腹空いてるの」
「ちょっと。でも見て、すっごく高いです」
「確かにね。あ、でもカラオケは無料なんだ」
「カラオケはもういいです。飽きました」
「だよね」
しばらくベッドの上に座って話し合っていたが、そのうち寝転がって話すようになり、結局二人で布団に入り枕を抱きながらころころと寝返りをうつ。
「疲れてるのに寝れないですね」
「そうだね。明日はバイト?」
「休みます。朝になったら電話します」
「アリシア」
「ん?」
「好きだよ」
「私もアンの事、大好きです」
「眠ろっか」
「はい」
こちらを向いたまま瞼を閉ざした彼女の顔をもう一度見つめて私も目を閉じる。
安らぎの中でリフレインされるのはやっぱりあの曲。
「September rain I’ll be there with you Yes , I’m sorry , don’t worry good-bye September days No sighs no sad tomorrow Home in September rain」
暖かさが心地よくて目が覚める。
瞳をあけるとぼんやりとした輪郭がアリシアになって、ぽうっとした視界の中、アリシアがこっちを見つめていることに気づく。
「おはよ」
「まだ三十分も経ってないですよ」
「そうなの」
眠り過ぎて昼過ぎなのかと思うくらいに目が冴えていた。こんな状況だったからどこかでアリシアの事を意識していたんだろう。とにかく私は元気をフルチャージしていて、これ以上眠れそうになかった。
時計はまだ三時半。どうしよう、話しに付き合せたら迷惑かな。
「アン?」
「どした」
「眠れないです」
「そっか」
「あと、お腹空きました」
そう言えば、眠る前も空腹の話しを聞いたんだっけ。
「行こっか」
ファミレスでもいいか、とにかく今はアリシアと歩きたかった。
明けきらない街をどこまでも歩く。
街は深い闇のなかでも明るくて、まだ光る店や街灯の灯りと、微かに、徐々に白んでいく東の空は時計がなくても時間は進んでいるんだよって告げる。
夜が終わろうとしている。隣りを歩くアリシアの顔が汗ばんでいる。しっとりと白く、手のひらに吸い付きそうな肌が眩しい。夜にひとひら舞う花びらのように熱を持ったその肌。ここにある生きた温もり。
空腹のアリシアに、牛丼でもないなって思いながら歩いているとチェーン店のラーメン屋を発見して、向かい合わせの席に座ると自分もお腹が空いていることに気がついた。
もやしラーメンとチャーシューメン。湯気を立てるどんぶりが二つ目の前に出されて何となく照れ笑いしながら頷き合って箸を割った。
麺をすすると絡んだ味噌のスープが空腹を刺激する。ピリッと舌を撫で胃に入っていくたびに新たな食欲が沸き出てくる。
「おいしいね」
「くそうまい」
「もういいよ、それは」
幸せはこんな些細な時間の中にあって、アリシアと向かい合っていることが無性にうれしくて、何だかどうしようもなく城守くんに会いたかった。
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