夜にひとひら 3/5
七月に入り、梅雨は明け、盛夏。
そろそろ大学に入って初めての試験があるってなんとなく慌ただしい頃に、私はアリシアとケンカをして心はドツボだった。
彼女に日本人のボーイフレンドができて、お昼を一緒に食べる回数が減って、三回に一回は約束をドタキャンされて、ついに私は怒った。悪気はなかったのだろう。あの子だからそれは信じている。でも恋を理由に、バイトも休みをとった土日の半分がムダにされて、毎回笑って許せるほど私の心は広くなかった。
今までアリシアとべったりだった毎日を思わず悔やみそうになる。どうせこうなるのならもっと違う友だちも作っておけば良かった。
前に電話をかけた先輩の淳子さんが一人でランチする私を見かねて自分の友だちの輪に誘ってくれた。けれど学年も違う、積み上げたもののない私たちは上っ面で、毎回その輪に入っていくのもだんだんしんどくなっていた。
そうして、忙しかっただけの七月はばたばたと過ぎ、夏休みが始まる。
この一カ月、散々お世話になった淳子さんの頼みをついに断れなくなって、男子バスケの先輩たちが来るコンパに、四月以来、三カ月ぶりに参加した。
お蕎麦屋さんでパーティー。なんか斬新だ。今どきの大学生は色々考えているんだなあ、なんて他人事みたいに思う。試験勉強に潰された半月の鬱憤を晴らすようにみんな盛り上がっていて、私は私でもやもやした気持ちから久しぶりに解放された気がしてビールと日本酒の合間に舞茸天をつつく。
「けっこう飲めるね。杏ちゃん、新歓祭の時はやっぱネコ被ってたでしょ」
「バレてました?」
「だって顔色変わらないんだもん」
「淳子さんもいける口ですよね」
「まあね。飲める女って、なんか感覚で分かっちゃうよね。あ、同じ匂いする、みたいな」
「ですね、飲めないフリが自分とおんなじ、みたいな」
「あはは。そう言えば一人、良い感じの男の子いるんだけど、紹介とか、迷惑? 彼氏いる?」
「いないです。男の子って、淳子さんの後輩?」
「二回生だけど浪人してるから年齢は私と一緒。可愛いやつなんだ。女の子と話すと真っ赤になっちゃう純情くん。杏は嫌い? そういう子?」
あ、呼び捨て、なんか嬉しい。
「大丈夫。なんか恋したらなにか変わるのかなって最近思ってるから」
「ならいいね。連れてくるからちょっと待ってて」
顔を見て、思い出していた。フリースローがへたっぴで、でもレイアップが綺麗だった男の子の顔。名前は確か、城守くん。
酔いと緊張でぎこちない眼鏡の笑顔。高くない背。男の子には見えない繊細な身体。
話すと疲れるタイプの人じゃなさそうだから、たわいもない会話を小一時間ほどして、そのあいだ、場を盛り上げる冗談も言えない彼とお見合いみたいに交互に一問一答。
だから携帯の番号交換をするとその日の夜に私からメールでデートに誘った。
こんなものなのかな、こんなものなんだろう。わくわくはしないけど、嫌ではない人生初デート。
その携帯を眺めていたら、なんとなく許せるような気になっていた。
アリシアは携帯を持っていないから、急なキャンセルはある程度しょうがないのかなって。公衆電話なんて見つけるのも大変だし、ましてやボーイフレンドの前で公衆電話にこもる姿ってやっぱり感じの良いものじゃない。
アリシアに謝りたいな。
けれど会う時は口約束だった私たちは、大学が休みになれば会いたくても会えない。彼女は私のマンションも携帯の番号も知っているけど、果たして自分からその気になってくれるだろうか。
「それは、杏、もう恋と一緒だよ」
「なんでそうなるの」
聞き返した私の顔が間抜けだったのか、沙耶香は怒ったような口調でだし巻き卵の欠片を箸ですくった。
「いい、例の童貞くんよりアリシアに会いたいんでしょう」
「童貞くんって」
「細かい言い回しはいいの。それで向こうが悪いのに自分から謝りたいんでしょう」
「まあ、言うなれば…」
「それってもう男とか女とか処女だとか経験済みだとか関係ないよ。内気な杏に友だちや彼氏ができるのは歓迎だけどレズ仲間ができるのはどうなのってなるよ」
あ、口の端、卵ついてる。
視線で私が聞いていないのを悟ったのか沙耶香は余計に怒ったようにおしぼりで口を拭った。
「ねえ、杏見てると私ほんと不安でいっぱいだよ。お願いだからヤバい薬に手を出したり美人局みたいなことしないでよね」
「しないって」
「あとモデルやアイドルにならないって誘いもダメだからね。詐欺の手口でそういうの多いらしいし、ビデオとかとられて人生めちゃくちゃになっちゃうよ」
「ビデオって映画?」
「ちがーう! AV。アダルトビデオ! ああ、ほんとその世間知らずどうにかしてよ。私の人生の経験値、杏に分けてあげたいよ」
「あはは、RPGみたい」
「あーもうっ、もういい、もう帰る」
「待って、もう一軒いこっ」
「いや、ふざけんな! 寂しいサラリーマンか!」
ツッコミキレてるな、と思っていたら沙耶香はほんとに帰ってしまった。律儀に五千円札をテーブルに置いて。
でも、沙耶香が笑えるようになって良かったな。心の底からそう思う。
裕也はあんな人だから彼女はこれからも苦労するのだろうけど、これも一つの幸せのカタチなんだなって。
傍にいなくても、他の誰かに抱かれていても、ブレない気持ち。
それって実はすごくすごい事なんじゃないだろうか?
その気持ちはきっと、もう恋を超えているんだと思う。
私が青春時代に見ていたあの子たちもきっと今と変わらずに、心の底で、相手を想い合っていた。
それと比較したらダメなんだ。城守くんとは、恋から始めないとダメなんだ。
そう思っても、私を惹きつける、恋を超えた感情に憧れ、重ねていく楽しさと面倒くささが混じり合い、何となくノリきれていない微妙な気持ちがお酒に流されて、明日のお昼には映画を見ている、初心な私たちがどんな会話をするのか、酔った頭で考えてみた。
彼氏が来ていることをアピールしたいのか、ただ単に外で会話したいのか、明け方からベランダで騒がしいお隣りさんの話し声で目が覚めてしまった。
頭痛い。昨日は帰ってからもちびちびと飲み続けていて、さすがに初デートに寝不足の二日酔いもないだろうと思っていたのだけれどその通りになりそうな気配。
ああ、せめてあと二時間。そうしないと城守くんの前でゲボさえ吐いてしまいそうなコンディションだ。この時間から薄ら暑い夏の外気がハトの声と共に窓から窓へと吹き抜けて、自分の口から漂うお酒臭さが少し和らぐ。
ちょっと待てよ。今寝たら、はたして私は起きて化粧して予定通り時間に間に合うんだろうか? 自信はまるでない、が、それでいいのか私?
用ができたと言って延期するのは簡単だ。けれど飲んだ勢いで、アリシアへの当てこすりみたいに私から誘ったデートなのに、さらに自分の不摂生で延期。
それではあまりにも城守くんに悪い。
これは何とかせねば。
とりあえず水分をとってシャワーを浴びてストレッチ、たったそれだけの事にかなりの時間を費やしはしたが、お、なんかいい感じ。コーヒーでお腹はがばがばだったが倒れそうなほどの睡魔は落ち着いてきている。もうちょっとだ。もうワンパンチあれば寝不足がかえっていい作用で私の気持ちを盛り上げてくれる。私には分かる、伊達に酒数踏んでない。
これは、あれだ。朝から贅沢にパン屋のパニーニ。
ベーコンとほうれん草が入ったバター臭い端がカリカリのパニーニ。
そう思うと居ても立ってもいられなくなって私は軽い足取りでパン屋へと向かった。
シャワーの後だったから外用の服ではあったけど、携帯も鍵も忘れておまけにすっぴんだった事をマンションのオートロックは教えてくれた。当たり前だけど閉まっている。
でも不思議な事にいつもだったら取り乱すような事態に陥っても私はすごく冷静で、パニーニ食べながら待ってたら誰か下りてくるだろうと思っていた。
外は今日もいいお天気。ロビーの日陰は日差しを避けて風も若干冷やしてくれる。気持ちいいな、待ち合わせは十一時だから槍が降ってもどうにでもなる。
すごいぞ、杏! その余裕はなんだ!
まるで生まれて初めてのデートを数時間後に控えた女の心持ちじゃない。長年修行をしなくったってお酒を飲んで寝不足になれば悟りって開けるらしい。
予想通りに誰かが下りてきて、私は何食わぬ顔ですれ違い、髪を巻き口紅を塗って、待ち合わせの三十分前に家を出た。
休日の豊洲は思ったよりも人が多くて、ちゃんと会えるかな、なんて心配する間もないうちに肩を叩かれて振り向くと城守くんの笑顔があった。
Tシャツの上にブルーのストライプ柄のシャツを着て下はチノパン。爽やかな大学生の見本みたいな彼の肩には片方の肩で背負うタイプのリュックのベルトがかかっていて、髪も前に見た時よりも丁寧にムースしてる。
私釣り合ってるかな?
一瞬気弱な自分が顔を出しそうになったがそこは今日の私。
「早いね、城守くん。私も早く来たつもりだったのに。でも会えてよかった」なんて言葉がするりと口から滑り出す。
「杏ちゃん目立つからすぐ分かったよ」
「お世辞?」
「いや、本当に。女の子らしい格好でいつも笑顔で」
「そうかな? 自分では結構男の子っぽい服も選んでるつもりなんだけど」
「でもそういう時でもどこか可愛いなって思ってるんだけどな。なんか俺、褒めてばっかりだね」
「ううん。面と向かって褒められる事なんてほとんどなかったから」
何となく飲み会の時より打ち解けた気がして自然に笑顔がこぼれる。じゃあどの映画観ようかってなって、私は超有名な海外児童図書の実写版を強く推してみたが、みんな考える事は一緒。うん時間待ちで、じゃあ次点はどうするって話しになる。
「良かったらさ、俺は一回観たんだけどもう一回観たいやつがあって。あ、でも杏ちゃんは観た事あるのかな」
聞くと、ちょっと前にすごい勢いで宣伝していた日本の恋愛ものの映画だって分かって私はちょっと躊躇する。
恋愛映画、好きじゃないんだよな。でも嫌いとは言えないし。女の子って普通はそういうの好きだと思って彼も勧めてくれているんだよな。
「うん。それにしようかな。でも二回目で楽しめるの」
「問題ないよ。二回目の楽しみ方ってあると思うし。じゃあ行こう、ネタバレ言わないように気を付けなくっちゃな」
城守くんが笑って先に立って歩く。並んで歩かないんだなって思っていたら彼が照れたように後ろ歩きになって私の横に戻ってきた。
「デートに来て、俺だけぐいぐい歩いてたら可笑しいよね。ごめん、俺ほんと女の子慣れてなくって」
「慣れたエスコートだったら私が緊張しちゃうよ」
手をつないであげたくなって、そんな自分の心の動きに赤面する。おいおい、あっという間に雰囲気に流されてるな。
チケットを買って、何となくポップコーンは遠慮して、ドリンクを両手に持った彼が「前来た時はすごい人だったのに」なんて呟くのを聞く。がらがらとは言わないけれど決して盛況とは言えない雰囲気。ブームって本当に一瞬なんだな。
席に着いて話しているとやがて明かりが落ちて長い予告編が流れ出し、やっと映画会社のロゴが写って本編が始まる。
予備知識なんてほとんどなくて、悲しい系の恋愛ものだってことしか知らなかった。だけど笑い合う高校生の男の子と女の子の姿は、確かに青春の切なさを表していた。
惹かれあい、恋をして、女の子が病気でこの世を去る。いかにも男が考えそうなシチュエーション。けれどカメラワークが素敵で明るいところはコミカルに、だんだんと悲しみに包まれるストーリーが余計に青春の眩さを映し出す。
いつの間にか私はスクリーンの中の傍観者で、あの日々でしか有り得ない切なさを生きるヒロインの黒髪が強烈に彼女を思い起こさせて、私が日本を離れていたあの年月の、断片的な思い出話でしか知らない、真緒の最後の数年間を隣りで見ているかのような錯覚を覚えて、物語と過去と私たちがそこに生きていて、今でも、死んでしまった事が何かの冗談みたいに思える真緒の生命を想って、悲しくて、切なくて、彼女の事を確かめたくて、胸の中であの日々が歌うから、ささやくように、涙があふれた。
うるっときて微笑む、なんてそんな可愛い事できる訳もなかった。恥ずかしいくらい号泣してしまって、狼狽える城守くんに、それでも話したかった。
「好きな人が亡くなって、時間が余計に愛しさを募らせて、だけどそれもいつか、どれだけ願ってもきっと忘れちゃって、良い思い出とかになっちゃって、そしていつか別の恋をする。それはでも当たり前の事なんだって、そう思ったの」
「うん」
「あのね、私にもし好き同士の人がいたら、それでもし私が先に死んじゃったら、精一杯悲しんでもらって、思い出の私にまた恋をしてもらって、最後にはやっぱり忘れてほしい。でも、なんでかな。それが一番なのに、分かっているのに、それでも、忘れてほしく、ないんだよね、きっと。分かったような言葉も、時間も、全部吹き飛ばすような気持ちがこの世界にはあるって思いたいのは、私が恋を知らないからなのかな」
「俺は、きっと忘れたりしないよ」
「その言葉、すごく軽く聞こえる」
「………」
「ごめんね。いじわるだね、私。今日はもう帰る。ありがとう。楽しかった。恋愛映画で初めて本気で泣いちゃった。城守くんに会って、私でも恋愛の『れ』の字くらいは分かるようになったかもって、さ。でも今日はもう…」
「言わなくていいよ」
「うん。また、ね」
すごい自分勝手だと自分で分かっている。
彼が去り、泣き腫らしてずきずきする頭で、リンクしていたヒロインと真緒と私を少しずつ引き離していく。
そうして、今も痛いくらいに真緒を想っているであろうゼンジを胸に描いた。
いつか来る未来に、忘れて、違う誰かを好きになっても、全然いいんだよ。だって今も擦り切れそうなほど、真緒を繰り返している彼の切なさは本物なのだから。
空港で泣いてくれた、思えば私が見た最後の真緒は、やっぱり綺麗だったから。
ゼンジ、いつか乗り越えよう?
死んでしまった人のためでもない、生きている人のためでもない、真実の弔いがあるのなら、それはなんて素晴らしいだろう。
だけど私たちは生きているから、生者のエゴイズムで、いつか生きるために彼女を封じ込めてしまう。
それでもいいんだよって、あの子に言って欲しい。残酷な願いだな、それは。
そして、乗り越えて欲しいのと同じくらい、ゼンジにはいつまでも真緒を想っていて欲しい。矛盾だから願う、真実の弔い。
悲しい時は泣けばいいって人は言う。でもその悲しみの後で、どんな気持ちでいればいいのかまでは誰も教えてくれない。彼の人生の中で、恐らく最悪に近い別れを経験したとき、ゼンジは泣かなかったって裕也は言っていた。
どれだけの喪失感なんだろう?
どれだけ心が痛かったんだろう?
どれだけ悔しいんだろう?
残酷な問いかけをしたかった。
そして、それを分かち合いたかった。
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