夜にひとひら 2/5


 なんとなく始めていた次の授業の内職も終わって、講義の間ずっと組んでいた足のマッサージをする。意味ないのにな、こんな知識。思っていても言えない言葉を飲み込んでノートをしまう。疲れた吐息を教室の空気が吸い込んで一人悟った気分。

 お昼は今日もアリシアと。代わり映えしない毎日に咲く花だな、あの子は。

 そう言えば、彼女はたこ焼きを知っているだろうか? 関西圏でもないのに家にあるたこ焼き器。持ってきて以来一度も使ってないたこ焼き器。そもそも何で持って来たんだ?

 だけど、そろそろプライベートで自宅に誘ってもいいのかな? 喜ぶはずの彼女の笑顔が思い起こされて、なんだろう、わくわくしてる、私。


 講義の後、アリシアに明日の予定を聞くと、あっさりオーケーをもらってちょっと嬉しかったりした。二人でパーティーをしようと言うと彼女は思った通り喜んでくれて私はその足で材料を買いにスーパーに寄ることにした。本当は食材を買うところから一緒にした方が楽しいのだろうけど、留学中であまりお金のないあの子に気を遣わせるのも悪い気がして金曜の買い物ラッシュに飲まれる。

 しかし、困ったな。

 タコがない。なめてたな、スーパーならタコくらいあるだろうと思っていたがあいにく見当たらない。じゃあどこで買えばいいんだろう。小麦粉やらなんやらで重くなった買い物かごを抱えて私は途方に暮れていた。

 築地にでも行くか? でもタコ一匹のために築地か。行けば間違いなくあるだろうし、築地までは地下鉄で一本だけど電車賃なんかを考えるとそれもちょっと悔しい。魚屋かな、地元の魚屋でタコの足だけ売っているのを見た事がある気がする。しかし魚屋。あるのか、この町に? マンションの周り以外まだあまり開拓していない土地勘の狭さがこんな時恨めしい。

 散々迷った挙句、イカでもいいや、と思う事にした。大丈夫、マヨネーズをかければなんだって美味しくなる。


「魚屋ね、肉屋ならあるけど」

「ですよね、やっぱり」

 それでもやっぱり気になって最寄り駅が同じバスケットサークルの先輩に連絡を入れるとそんな返事が返ってきた。

「で、なんで魚屋なの」

「いや、たこ焼きしたくて」

「いいね。明日は予定あるからあれだけど、機会があったら今度は私も誘ってよ」

「その時は必ず」

「社交辞令っぽいなー。まあいいや。杏ちゃん、今度飲みに行こうよ。紹介してって言う『男バス』のやつも多くてさ。知ってる? 結構目立ってるわよ、あなた」

 目立ってる? 何かしたっけ?

「ほんとですか、それ」

「分かってないなー。外人といるだけでも目立つのに二人とも巨乳。そりゃ男どもも目の色変えちゃうって」

「なんかやだな、それ」

「脂肪の塊の大きい小さいで女のランキングなんて簡単に上下するんだからそこは胸張ってたらいいのよ」

「そんな物なんですかね」

「そ、そんなもんなの。じゃね、連絡くれて嬉しかったよ。バーイ」

「どもです」


 翌日、昼前に家に来たアリシアにまずたこ焼きとはタコを焼いたものではない事を説明し、たこ焼きではなくいか焼きになった経緯を言い訳して、首をひねる彼女に「とりあえずやってみようよ」と提案してキャベツを刻み小麦粉を練るところから始める。

 しかしこんな事になるならもう少し事前に教えておくべきだったな。パーティーとだけ聞いていたアリシアは少し上品なシャツと真っ白なスカートをはいていて、その服を汚す訳にもいかないからTシャツとジーンズを貸して着替えさせた。

 それでもまあ、一緒に食事を作るってだけで徐々にお互いのモチベーションは上がっていって、彼女が持ってきた白ワインを粉まみれの手で飲んで笑い合ううちにいか焼きのタネは出来上がり、主役のイカは一口大にカットされた。

「よし。じゃあ油をひいて、タネを流し込む。そうしたら一個ずつイカを入れていってくれる?」

「わかりました」

 しばらく焼いていたタネを箸の先でひっくり返すとアリシアの興奮ゲージはもうマックスだった。

「すごいです。ボール。可愛いです」

「やってみる?」

「やりたいです」

 箸を一本渡して「勢いが大切なの」なんて偉そうに言いながら最初はできるかどうか不安だったいか焼きをくるくるとひっくり返していく。だんだんとコツを掴んできたアリシアに焼くのを任せて、しょうゆ、ソース、マヨネーズ、七味に海苔、紅ショウガやかつお節なんかを小皿に分けていく。奮発したな、私。

 部屋の中が油といか焼きの香りでいっぱいになる頃、かくして「イカパ」は始まった。

「熱いから気を付けて。中はとろとろだから舌、やけどするよ」

「大丈夫です」

 その自信はどっからくるんだ? たぶん「とろとろ」とか「やけど」の意味をよく分かってなくて返事したんだろうな。私には今、未来が見える。だからコップに水を注いでアリシアの前に置いた。


「夏休みはスペインに帰るの」

「帰りません。日本語、いっぱい勉強して、バイトします」

「そう。じゃあ休みに入ってもまた会えるね」

「イカパ、またやりたい」

「今度はちゃんとタコでやろう。まああまり変わらないんだけどね」

 食べきれなかったいか焼きがお皿に山を作り、お土産に持って帰ってもらおうなんて考えながら缶ビールを飲んでくつろぐ。

 これなんだよな、お酒を飲むって。

 仲間と盛り上がるから、すすむ酒量。

 袖振り合う三カ月。

「日本のこと、もっと知りたい」

「私で良かったらなんでも聞いてくれていいわよ」

「アンは親切ですね」

「友だちだからね」

「アンが好きです」

「私も好きだよ、アリシアのこと」

 まぶたをほんのり桜色に染めたアリシアが笑って、私も微笑み返す。「なにか音楽でもかける?」と聞くと返事を待たずにノートパソコンを起動させる。刺しっぱなしのイヤホンを抜いて設定をランダム再生にすると冷蔵庫からもう一本ビールを取り出した。

「アリシア。遠慮しなくていいよ。まだ飲めるなら飲んでいいからね」

「ありがとう。でもビール、少し苦手」

「そうなの? スペインってビール飲まないんだ? 確かにワインとかシェリー酒って印象があるけれど」

「違います。私、えー、待って」

 今日も登場、電子辞書。

「炭酸、苦手」

「あ、そうなんだ。ごめんね、なんか飲ませちゃって」

「ううん。アン優しいから言えなかった。でも問題ないです。飲めるけど飲まないだから」

 お酒、あんまり強くないんだな。そんなところも、あの子に似ている。でも真緒は飲めないのにテンションが上がると飲んじゃって、へろへろになって…。

 良くない傾向だな。アリシアはアリシアなのに。日本で頼れる数少ない知り合いが、自分に誰かを投影しているって知ったら嫌だろうな。

 私も思いたい。沙耶香がゼンジを信じたように、会えなくても大丈夫って。でも私にはまだそう思うには荷が重かった。


 どこかの誰かが言ったように、恋とか愛って、やっぱり人を成長させるんだと思う。

 特別に感じられる男の子には出会えていないけれど。

 周りにいた五人に置いて行かれないように必死だった中学時代。

 見てよ、みんな。

 情けないけれど私まだ、同じ場所にいる。

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