夜にひとひら 1/5


「アンは親切ですね」

 これ、この子の口癖。出会った時から言われ続けて、二カ月経った今では本当にアリシアがそう思ってるのかなんて気にしなくなったのだけど。

「アリシア、また丁寧語になってるわよ」

 そう言うとしまったって顔をして小さく舌を出す仕草は、到底日本人には似合わないのにスペイン人の彼女がやると様になっていて、彫の深い日本人に見えなくもない造形美の彼女の笑顔を見ているとおもわず自分も微笑みたくなる。

 大学の食堂で器用に箸でうどんをすするアリシアの長い黒髪を見ていたら胸にしまったはずの誰かを思い出しそうになって私は心に蓋をする。

「なに」

「ううん。うどん、美味しい?」

「くそうまい」

「誰に聞いたの、それ」

 まだ二カ月、されど二カ月。

 ひょっとしたら異国での生活を送っているアリシアよりも、私の方がホームシックにかかっているのかもしれない。


 アリシアといるのが楽なのは、きっと他の大学の女の子といるのよりも自分が素でいられるからなんだろう。化粧の話し、バイトの話し、そして何より男の子の話しをする彼女たちとはどうも感覚が合わない。親しくない人との表面上の会話なんてそんなものなのだろうけど。

 その点、アリシアとの会話は日常の何でもない世間話がほとんどだ。そして彼女との世間話は、私が昔留学をしていた事もあって、すごく共感してしまう。

 思った感情をそのまま言葉にできない辛さ。一人だけど、輝いている外国の生活。そして日本人ってここがおかしいよね、みたいなあるある話。

 集団でいることの多い日本人は、外国の人が言うほど気楽に集団生活を送っている訳ではないけれどそこまでの理解をアリシアに求めるのは酷だ。だから「そこがアンがみんなと違うところです」と言って懐いてくる彼女の小さな偏見を私はあえて解かずに、この本当は結構頑固なところのある丁寧語のパートナーと過ごす時間を、私は大切にしていた。


 季節は梅雨で、子どもの頃から巻いている髪の毛を整えながら朝のひと時を楽しむ。

 雨降りの窓。

 室内干しの下着たち。

 今日は地元の旧友と午後から買い物。デパートの小物売り場でバイトしてためた預金を下ろしてどんな服を買うか今から考える。女っぽさ男っぽさには興味ない。夏っぽいセミカジュアルで出来ればラインが出過ぎないやつ。ただすれ違うだけの男に胸を見られるのはやっぱり嫌だから。

 アリシアは今日、なにしてるかな? なんとなく、思う。休みの日に会ってもいつものシャツの上に一枚羽織るだけの彼女は。

 私が留学していた頃、同級生によく連れて行かれたのはホイリゲだった。いわゆるバル、飲み屋だ。お酒を飲むことが特別な事だって思っている子どもみたいな知人に連れられてワインを飲み、どうでもいい自慢話を聞かされて、ちょっと暑苦しい視線で見つめられる。

 でも、あの頃は耕司が守ってくれた。いつも私の盾になって、自分の事は二の次で、だからそういう飲みの席でも私は好きなお酒にだけ集中できた。けれど帰国して大学生になって、耕司が傍にいなくなると私の足は自然と飲み会の場から遠ざかって行った。

 男の視線をさけるために誰かに話しかける。減ったドリンクのお代りを聞かないと気の利かない子だって思われる。飲みの席は男と女の出会いの場で、私が知っている、仲間との酔っぱらった交流ってものがまるでなかった。


「それで、仲のいい子はその留学生だけなの」

「あとは沙耶香とお酒、なんてね。東京って本当に人ばっかりなんだもの。あーあ、地元が懐かしい」

 そう言うと沙耶香はダークブラウンのベリーショートを撫でて呆れたようにジョッキに口をつける。

「杏、私がいう事じゃないけど、その地元に帰れば耕司くんがいるみたいな甘え、もうちょっとどうにかしたら」

「沙耶香だって裕也がいるから、みたいな事思ってるんじゃないの」

「思ってたら、東京まで来てこんな仕事してないよ」

「ごめん」

「別に。なんでかなー、風俗で働いてるって言うとみんなそんな反応なのよね。なんか条件反射みたいに。だから杏はそんな事言わないでよ、ね?」

「うん、そだね。そうかも。なんか先入観だったかも。あ、それで、穂乃香ちゃんは元気?」

 穂乃香ちゃんっていうのは沙耶香の子どもの名前。今は彼女の実家に預けられているその子に会ったのはたった数回だったけど、すごく甘え上手な、愛らしい子どもだった。

「なんかね、一家総出で子守三昧らしいよ。お母さんはともかく弟も妹もメロメロだって言ってた。お父さんも仕事場に連れていったりしてるみたいで。うちの家系なのかな、愛が重いんだよね。あははっ」

 私もつられて微笑んでしまう。笑って、さり気なく一番聞きたかった事を尋ねる。

「そういえばゼンジは元気かな」

「ストップ。やめよ、その話しは。まだ痛いよ、その名前」

 沙耶香の目が切なそうに細められる。だけど、聞きたかった。

「気にならない、仲間としては」

「杏、あのねえ」

 彼女は頭を掻いて俯いた。抱えた腕の中からテーブルを見つめたまま沙耶香はジョッキのビールを一口含む。

「大切なんだ。ゼンちゃんとのこと。もちろん裕也とは違ったベクトルで。それは昔の記憶なんだけど、今も、大切なんだよね。もしも彼が今どうしようもなくなっていたら、私は躊躇わずに彼に抱かれてると思う。だけどさ、ゼンちゃんだよ。あの、太陽みたいな彼の事だから、きっとどこかで上手くやってる。慰めてあげたいのと同じくらい、彼の事信じてるから。連絡なくても会えなくても、大丈夫。だから杏も信じてあげて」

「私は沙耶香じゃないから気持ち分からないけど、それは過去なの? 苛めてる訳じゃないよ、でも本当に、過去にしていいの」

「過去だよ。酔っぱらった時にだけ思い出す過去。でも過去だから余計に苦しくて、過去だからどうしようもなくって。でもね、それはゼンちゃんだけじゃない。私たち六人はもう変えられなくて、どれだけ遠くに行っても、私たちは、永遠だよ」

 抱かれてもいい相手なのに過去。分かるよ、それは他でもないゼンジだから。これが話しに聞いただけの男ならそんなこと思わない。だけどきっと、仮にゼンジが私を求めたら、私もきっと彼に答えてあげるような気もする。

 近しさが男女の関係になる。人として好きだから抱かれてもいい。

 今まで軽蔑していた考え方に、身近な人を当てはめるとこんなにもすっぽりとはまってしまう。

 私の先入観ってなんなのかな? 結局遠ざけていたクラスメイトと私の間にはセックスの経験以外の差なんてないのかもしれない。そして彼女たちも、同じような疑問を抱きながらそれでも日々を過ごしているだけなのかも。

「どうした? 酔ってきた?」

 返事をしない私に沙耶香がそう問いかけてくる。

「あ、ううん。次なに飲もうかと思って」

「相変わらずだなあ」

「なんか沙耶香とこうしているといつもよりお酒が美味しくて。まだ飲むでしょ」

「うん。あ、なにこれ? なんて読むの?」

「シンルチュウ」

「杏の露のお酒か、ちょっとエッチね」

「口当たりいいから沙耶香にはちょっと早いお酒ね。少しわけてあげるから別のにしたらどうかしら」

「じゃあこのサワーにする」

 沙耶香がこっちにいて良かった。もしも彼女がいなかったら私は毎日やる事もなくて本当にお酒が趣味みたいな生活を送っていたかもしれない。

 少しずつだけど何かを取り戻しかけている気がした。生まれ育ったあの街を離れ、あの日のままの私たちを少し演じて、だけどいつまでもふざけ合いながら生きていけるって本気で信じていた。私たちも私たちの周りもどんどん変わっていくけど、それでも今こうして一緒にいられる幸せ。

「沙耶香」

「ん?」

「好きだよ」

「やっぱ酔ってるでしょ」

「本気だよ。ありがと」

「杏にはかなわないよ。そうゆーこと、普通は言えないからね」

「でも『友情』なんてちっさなくくりで語りたくないから」

 そう言うと沙耶香は困ったような笑みを浮かべてだし巻き卵の欠片を箸ですくった。私の友情とか愛ってやつも重いのかな? でも気持ちはストレートに伝えたいしな。難しくてややこしい、普通の距離感。

 だから沙耶香に甘えちゃうのかもしれない。あの六人の、かけがえのない輝いた光。

 一人なら一人だけど、六人なら無限に広がるキャパシティ。

 ずっと居たいよ、だけど遠くなってく。

 だから余計に愛しさが募って、目の前の最高の仲間を抱きしめたくなった。


 家に帰ってまず、浄水器でろ過した水をコップ一杯飲む。そうすると胃がクリアになって無性に歯を磨きたくなった。着ていた物を洗濯機に入れてパジャマに着替えると気持ちがオフになっていくのを感じる。

 飲みながらも話すことに重きを置いていたから酔いはそれほどでもない。初夏の室温は飲んだ体温を微妙に上げて汗をかくほどではないがぽうっと意識を内側に向ける。まるで最初から一人で飲んでいたかのようにじんわりと首筋が脈打つのを指で押さえて鼓動を確かめる。まるで看護学科の研修を先取りでやっているみたいだ。テレビもパソコンもつける気になれず、部屋の明かりを消してベッドサイドの照明だけつけて机の前で足を組む。部屋の中にはサッシにぶつかって弾ける雨の音が響いていた。

 耕司に電話しようかな?

 寝るにはまだ早い時間。それだけ確認すると携帯の履歴からダイヤルする。

「耕司?」

「どうした」

 なんだろう、この安心感。声が像を作り、目の前に耕司がいるような錯覚さえおこしてしまう。

「今日沙耶香に会ってさ。一応連絡。そっちはどう」

「今ちょうど飲んでる。手話サークルの飲み会でさ。可笑しいよな、福祉に従事するはずの若人が酒飲んで羽目を外してる。翌日にはボランティアで障害のある人の悩みを聞く人間が人に心配させるような飲み方をして店に迷惑をかけてる。仕事とプライベートって言えばそれまでだが、人間って本当に一面性では語れない生き物だよな」

「表の顔と裏の顔か。ゼンジが聞いたら嫌がりそうな話しね」

「ゼンジか。懐かしいな」

「ちょっと沙耶香との話しに出てね。なんだろう、たまに、どうしようもなくなるの。あの日常が、私たちの本物で、今がウソみたいな。これがノスタルジーだってわかってる、自己満足な憧れだって。でも、それでも、もう一度会いたいよ。ゼンジとあの子に」

「西門、な」

 電話の向こうで耕司がタバコに火をつけたのを感じる。吸い込んで吐き出す二拍をおいて彼が言葉を続ける。

「俺たちはきっと恵まれているんだろうな。双子の兄妹だから、同じ日に生まれてそれ以来片時も離れたことがなかったから。恋も仲違いもない。普通の仲間でも一般的な兄妹でもないけれど、お前が妹で良かったって思っているよ。ゼンジと西門も、裕也と宮越も、他人だったから傷ついて傷つけていた」

「そうだね。でも、あんな結びつき方見せられたら、ただの恋が、冗談に見える。私が恋愛できないのはあの四人のせいもあるのかもね」

 そういうと耕司は笑って喉の奥を鳴らした。変わらない笑い方。お酒に酔って大笑いする笑顔も好きだけど、私は暖かそうに目を細めるあの笑い方が好きだ。

「言われてみれば確かに。俺たちの中で普通の恋愛してるのは俺だけかもな」

「彼女さん、元気?」

「ああ、今は顔真っ赤にして愛想笑いしてるけどな。なんならちょっと替わるか」

「いいよ。そろそろ切る」

「そうか」

「ありがと。今度は耕司からかけて」

「わかった」

「約束したよ」

「ああ、お休み」

「お休み」


 朝ごはんは卵料理とパンで、お昼は学食、夜は炊いたご飯と出来合いのお惣菜。自炊を始めてたった二カ月で、料理は日常の一部なんだって痛烈に自覚した。

 実家暮らしの頃は、たまに食事を作るのが好きだった。両親も耕司も喜んで食べてくれていた。私はそんな事で自分は料理が上手なんだと錯覚していた。

 毎日、一日に三回、休みなくお腹が空く人間。もうほんとに、自分の空腹感なのに、勘弁してほしい。

 早めに大学に行って、コンビニでなにか買おう。

 下手にバイトなんかをしているとお金遣いも荒くなるみたい。一回で数百円なのに気が付くと月末に苦しくなっている。

 あー、それにしてもいい天気だな。こんな日は窓の外にお日様があるのを感じながら部屋で雑誌でも読んでいたい。けれど講義をサボる度胸もない私はスニーカーをつっかけていつもより早く家を出ることにした。


 コンビニ袋をぶら下げていつもの、校舎の影になっているベンチに向かうとアリシアはもう来ていて私は挨拶がてら彼女の髪を撫でて微笑みかける。並んで座ると彼女は空を指さして笑い返してきた。

「アン。雲が白いですね」

「うん。雨雲じゃない空、久しぶり」

「アマグモ?」

「雨の時の雲」

「なんでアメクモじゃないんですか」

「さあ、なんでだろう」

 スプーンでヨーグルトをすくって口に入れる。昔ながらの粉薬みたいな砂糖を入れるタイプのやつ。最近はアロエだとかフルーツ味が多いけど私はこれが一番好き。

「スペインの空は、もっと、あー」

「ゆっくりでいいよ」

「はい。これです。大きくて広くて高いです」

 アリシアが手を広げ、それを胸の前で包むようにぎゅっと閉じた。まるで故郷の空を抱きしめるように。

「そうね。日本の、特に東京の空は狭いよね」

「アンダルシアの空は、向こうの向こうのめっちゃ向こうに…」

「続いてる?」

「ちょっと待ってください」

 電子辞書のキーを打ってしばらく画面を見つめていた彼女が顔をあげる。

「どこまでも、だ。どこまでも続いています」

「そうだね」

「もっとカッコいい言い方ありますか」

「うーん」

 考えてみる。将来、スペインに旅行する人がアリシアのガイドを聞いた時にくすっと笑えるような言い回し。

「えらい広がってまんねん」

「まんねんとは、なんですか」

 私はスベッた自己嫌悪に居たたまれなくなりながら「方言」について説明する。彼女は頷きながら「これは使える」みたいな手応えを感じているようだった。

 ああ、もう、この素直なこの子のレスポンスがたまらない。きっと私が留学していた頃もこうやって小さなボケを仕込まれて、悪意じゃない笑いを提供していたんだろうな。

「そろそろ授業ですね」

「うん。またお昼に」

「またね」

 人懐っこく笑うアリシアを見ながらこの子は絶対に幸せにならなきゃな、なんて何となく思った。


 マンションの前にバスが停まっていて、そのバスは懐かしいオーストリアの郊外まで私を運んで行った。その空はどこまでも続いていて、連なった空はアンダルシアのひまわり畑に私を連れ去っていった。

 青いワンピースを着たアリシアが手を振り、私はひまわりの海に包まれて、見上げた空は丸い太陽と、懐かしい長い黒髪と、黄金の花弁を風になびかせて、好きだった歌を口ずさみ、その声は誰かを想って、遠く遠く、どこまでも夕焼けは朝焼けを追い求め、忘れられないから、呟いた言葉は、夢から覚めた私の唇からこぼれ落ちた。

「真緒…」

 レズだろうが同性愛だろうが、誰にどう言われたって構わない。

 私は真緒が大好きで、それが友情なのか言えない慕情なのかなんてどうでもいい。

 だけど、会いたい。

 西門真緒はいつだって私の憧れで、空の向こうで翼を広げる真緒は、きっと風を切って羽ばたいている。

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