捺印 6/6


 確実に受かりそうな短期大学で二年過ごして、地元の、幸運にもわりと大手の下着メーカーに就職して、男だからって理由だけで配属された企画部ではちょっと古めのアイデアのアレンジでそこそこのヒットを打ち出していくうちに仕事上の後輩も出来てきて、気が付いたら女社会で男が生きる程々の実力を身に付けつつあった。

 久しぶりのまとまった休暇だったから、前々から予定してあった旧友との約束を幾つかこなして、吐きたかった弱音を幾らかのジョークでこぼして、許可が必要なかった昔を羨んだりしていた。


 故郷の空はいつも通り一個の人間なんか気にする訳もなく晴れ渡っていて、沙耶香はなんの変哲もないデートを何よりも楽しんでいるようだった。

「デートって、響きが懐かしい」

「そんな年じゃないだろ」

 有象無象の人だかりに紛れて歩く。カップル、カップル、おじさんに、カップル、おねいさんに、またカップル。

「こら、今何見てた」

「いや、うちの商品着けてないかって」

「今日は花柄だよ」

「いつのやつだ」

「一昨年の冬にもらったやつ」

「あれか、こってこてのフリルだよな」

「当たり。アンビバレンスな花柄」

「俺の好みは、結構重宝されてる」

「今日のサプライズは」

「後で渡す」

「去年何くれたのか憶えてる?」

「水晶の鉱石」

「あたり」

「結構したんだぞ」

「トイレに飾ってある」

「それは何より」

「春物見るの手伝って」

「御心のままに」

「あはは」

「猫を二匹買った」

「両方ともメスでしょ」

「なんでわかるの」

「名前は」

「ルルとエカ」

「どんなコ?」

「ルルが泣き虫でエカが人懐っこい」

「ルルを見ちゃうんだ、裕也は」

「エカは食事の前後にしか懐かない。純真で我侭なんだよ」

「なんか裕也みたい。ルルは?」

「俺がいないと生きていけないんだよ、あのコは」

「裕也のペットになったらカノジョは大変だ」

「自分みたいで?」

「あたしはシングルマザーよ」

「絶賛、育児放棄中だけどな。おかげでお父さんは大変です」

「バアバから聞いたよ、マメに顔出してくれてるって」

「始めは処女の如く、後は脱兎の如し」

「なにそれ」

「孫子だよ。強引にまとめると娘の旺盛な生命力に驚いてるって意味」

「今でも国語は苦手だわ」


 やがて日が傾き、日が暮れる前に俺たちは池の公園に着いた。

 顔を斜め上に傾けて、電線に遮られた夕空を見上げて歩いていた沙耶香が視線を戻して思い出したように語りだす。

「東京に行ってね、分かった事がある。一人で暮らして、一人でご飯食べて、数えきれないくらいたくさんの人の性欲を満たして」

 彼女は小さな池の桟橋から水面に目をやった。仲間内で母さんの葬儀をやったあの時と同じ桟橋。

「私はね、それでも変わらないって思ってた。何が何でも穂乃香のためにお金を作ろうって、毎日、朝、写真を眺めて決意していた。でも気が付いたら変わっていた。私は私じゃなくなって、いつの間にか昔の夢なんかどうでもよくなって、裕也や穂乃香が傍にいない日常にも慣れて」

「慣れが人間の一番の味方で敵なんだよ」

「本当にそうだよね。でも…」

 言葉が途切れると沙耶香が顔を伏せる気配がした。でも俺はその背中から目を離さなかった。

「ううん、なんでもない。上手く言葉に出来ないの」

 そこまで言うと彼女は、少し一人にさせて、と言って立ち止まる俺を追い越して行く。

 公園には他に人の気配もなく、この一帯には俺と彼女しかいないようだった。俺たちは、二人に似つかわしい距離で、遠ざかっていく。

 やがてぼんやりと追いかけていた後ろ姿の向こうで一台の車が横切り、彼女は横断歩道の真ん中辺りまで差しかかっていたが振り返らなかった。

 彼女の短い髪がさらさらとなびいている。

 俺は走っていた。

 靴底がアスファルトを叩く音が静かな街に響く。確かな事は言えなかったけれどこのまま一人にしてはいけない事だけは分かっていた。

 後ろから呼び止めると沙耶香は今にも泣き出しそうな表情で俺を見た。

「泣いてもいいよ」

 彼女の目が微かに潤んだかと思うと次の瞬間には涙が溢れていた。片手で目頭を押さえて泣く沙耶香の、人に甘え慣れていないその姿が痛ましかった。

 俺は彼女の肘に手を添えた。暖かな感触が俺の体温と交じり合っていく。その指に僅かに力を込めて沙耶香を引き寄せると彼女は俺の胸に顔を埋めた。俺は沙耶香の頭を撫でてやりながらあの日の彼女を思い出していた。

 まるでそれを見透かしたように、沙耶香は泣き腫らした顔を上げた。

「誰のことを考えているの」

「もちろん、お前の事だよ」

「隠すくらいには真剣なんだ」

「まあね。どうしたもんかな」

「裕也は変わらないな」

「冗談だよ、昔のお前を思い出してた」

 五年前の卒業式のあの日、俺と生きる未来を考えてくれていた沙耶香。けれどそれは幸せな幻想で、生きるにはお金が必要で、彼女は一人、東京で暮らす決意をした。そして怠惰な日常をなんとなく続けて流されるまま進学した俺。空白だった二人の時間と二人を繋ぐ穂乃香と言うリアルな絆。

 月一の女の子の日や穂乃香の誕生日などの記念日、彼女はふらりとこの街に帰ってきては寂しさを書き換えるように喋って、抱き合って、泣き出しそうな顔でまた帰って行った。そんな日々が当たり前になる頃、同級生たちは大学を卒業して就職をしだし、それぞれの明日へと歩き出していった。

 俺たちだけが時間から取り残されたように、近づけない月と地球みたいに、同じところをぐるぐると回っていた。結婚もせず付き合っているとも呼べない微妙な距離で、ふらふら、ふらふらと。

 夕暮れを告げる近所の学校のチャイムがやけに規則正しく音階を刻み、無くした時を取り戻してくれるように胸に響いた。鐘の音が俺たちを昔の俺たちに戻し、俺たちはただの雌雄の生物に還っていく。


 快楽にも一定のラインがあると、その夜思った。頭からつま先まで、紐でくくられたように体を仰け反らす程の快感を、今までに味わった事はなかった。彼女のセックスの仕方が以前とはまるで違っていて、そんな事で離れていた時間を悼んだ。

 うつ伏せにベッドに横たわって、余裕のある、それでいてどこか悪戯っぽい笑みは。首筋から背中を覆って、細い腰へと続く肌理細やかに光を照り返す肌は。シーツに触れる陶器のような胸。一本一本がしなやかな髪。腕、腹、足。

 切れ長の眉も滑らかな肩も呆れるくらい恵まれた造りだった。

 こんな人間がこの世に生きている事が奇跡のように、息づいている。

「沙耶香、綺麗になった」

「さやかって呼ばれるのも久しぶりだな」

「辛かったか?」

「ううん」

「ごめん」

 沙耶香の口が俺の口をそっと塞ぐ。ただ唇を押しつけるだけのキスが息苦しくて身体を離すと、彼女は久々に普通のキスしちゃった、と少し涙声になって言った。

「思い出話と安らぎ、どっちが欲しい」

「どっちも大切だから裕也が決めて」

 お互いを抱え込むように抱き合って、俺は沙耶香の腿の火傷の痕に優しく指を当て、指先から何かが伝わるかのように、その微かに色の違う部分を愛撫していく。沙耶香はほんの少しだけ俺の目を見つめて「これ以上やっちゃうと仕事になっちゃうよ」と言って俺に背を向け、何か話して、と呟いた。

「そうだな」

 後ろから沙耶香の髪に顔を埋める。本当はもう一度セックスがしたい、そう言う代わりに彼女の後ろ髪の先に触れ、弄んでみる。

「昔の友だちの話しが聞きたいな」

 布団を口に当ててもごもごと囁いた沙耶香を引き寄せて、彼女の髪の匂いを吸い込んだ。汗と保湿クリームと俺の匂いのする彼女は窓の外の星空なんかよりも遥かに美しい。

 ベッドカバーに重ねられた薄い陰毛に手を差し入れると彼女はぴくりと瞼を震わせて芳しい息吹を俺の鼻腔に運んだ。少し身を硬くした彼女の手が上がりかけてすぐに下ろされた。

「そう言えばゼンジ、今長野で働いているってさ」

「長野?」

「ああ、聞いた話によるとフリーみたいだけどな」

「そっか」

 安心したような、寂しがっているような、僅かな妬みを込めた彼女の声をきっかけに、俺は体を起こす。

「そろそろ、私、この仕事辞められると思う」

「そう」

「うん」

「そうしたらやっと、穂乃香と一緒に暮らせるな」

「そうだね」

 ベッドサイドに置いてあったプレゼントのトカイワインのグラスを少し傾けて彼女に渡すと、沙耶香は俺の肩に頭をもたせかける。俺はそっと彼女を抱き寄せて窓の外に目をやった。なんだか、そうしなきゃいけない気がして。

 部屋の空調のせいで曇っている窓に水滴が流れ落ち、俺はそれが完全に落ち切るのをただ眺めていた。短い前髪を垂らし、片膝を立てて寄り添う沙耶香が「甘いね」と、独り言のように呟いた。

「もしよかったらさ」

 急に勢いをつけて発せられた言葉に少し驚きながら沙耶香を見ると、昔の、あのいたずら猫のような瞳でこう続けた。

「ううん。やっぱり言わないよ。伊勢裕也と宮越沙耶香は」

「永遠にお互いを愛することを」

『誓います』

 シーツとシーツの隙間で交し合った約束が当てにならない事を、俺も彼女も知っている。

 雨が降ればいいのに。

 あの水音を聞かせてほしい。

 もう少し後で。

 もう少しだけ後で。


 俺は空に雲を描いた。

 彼女は寂雨を降らせた。

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