捺印 5/6


「それで、あいつ今どこにいるんだ」

「知らね。樹海で首でも吊ってなきゃいいけど」

「笑えないぞ、それ」

 二人して部屋で紫煙を吐き出しながらウォッカをコーヒー牛乳で割った度数の高い甘めのカクテルもどきを飲み干す。

「ほんとにタッチの差だったな。杏がすごく落ち込んでた。あいつの前では今みたいな冗談言うなよ」

「はいはい」

「宮越、なにか悩んでたのかな」

「あの日のあいつに聞いてくれよドラえもん」

「誰がドラえもんだ。お前、ほんとに心配してるのか」

 耕司が呆れたように鼻を鳴らした。

「電話は拒否。メールも死ぬほど送ったけど返ってこないし。でも向こうの親には連絡取ってるみたいだから生きてはいるんだろ。裕也さんはもう考えるのをやめましたよ」

 そう言うと耕司は少しの間黙った。昔から察しの良いこいつの事だから、俺の中にある感情を何となく理解してくれたのかもしれない。

「ゼンジには話したのか、この事」

「いんや、してない」

 まだ何か言いたそうな耕司を尻目にしばらくつまみを食べる事に専念していたら、タイミングを見計らっていたかのように耕司が口を開く。

「ゼンジとは会ってないのか」こいつにしては珍しく、ちょっと慎重な声音だった。

「いや、あれ以来全然。あいつもメールしても返ってこない事多くてさ、なんか疎遠になっちゃって」

「初めて知ったな」

「あの後じゃなおさらね、学校も違うし」

「懐かしいよな、サルの群れみたいにいつも六人で遊びまわってたもんな、昔は」

 耕司が目をつぶって俺のベッドに横になった。そのベッドの脇に俺ももたれかかって酔いでくらむ頭を預ける。髪を撫でる優しい五月の風。

 俺、沙耶香、耕司、アンちゃん、ゼンジ、そして西門。繰り返す、繰り返す、ただ眩しい、少年時代のひまわり色した勲章のような時間。

 お互い眠ったようにただ思い出を手繰り寄せて、本当に眠りそうになった頃、耕司が口を開いた。

「このゴールデンウィーク中にゼンジと会わないか、西門のとこにも顔出して」

「あのさ、お前が海外行ってる間に色々あったんだよ」

「それは知ってる」

「全然知ってねーよ。お前ら抜きで会ったんだよ、四人で。ちょうど去年の春ごろかな。それでさ、そこで色々あって。会いたくない訳じゃないけど、今はまだちょっとね。だから会うんならお前らだけで会ってくれ。多分その方がいい、今は」

「何があったんだ」

「それ本人に聞いてみろ、嫌がられてステキだぞ」

 思い出したくもない記憶を追い払うようにまたグラスに口を付ける。今はただこの酔いに任せて全てを忘れたかった。

 そんな俺の様子を見ていた耕司が遠い目をして呟いた。

「よく分からんが悲しいよな、こういう風に俺たちがバラバラになっていくのは」

「仕方ないって俺は思ってる。時間は止まれないからね」

「そうかもな。分かった。杏にもそう言っておくよ」

「そのアンちゃんはまだゲーム中?」

「高校に馴染めないみたいでな。ストレス溜まってるんだろ」

「三年生で転校だもんな。しかも帰国子女。彼女には辛い設定だね」

 耕司が俺のベッドから仰向けになったまま居間に声をかける。

「杏、まだやってるのか。早く来いよ」

「無理よ。ザコ敵が凶悪すぎて瀕死状態なの」

 ちょっと見てきてくれ、と言われて仕方なくテレビのある居間に顔を出すと、アンちゃんが一人、テレビの前で悶絶していた。

「なにこれ、ほんとにゲームなの、これ」

「あまりのクソゲーっぷりに驚いているアンちゃんに朗報です。お兄さまが寂しそうでございますよ」

「今は無理よ。このダンジョンをクリアしないと止めるに止めれなくて」

「ちゃんとセーブ小まめにとってる? そのゲームいつ死ぬか全然分からなくて有名なんだけど。ちなみに俺はもう諦めた」

「小一時間前にしたきりなの。ねえ、これ借りていってもいい」

「いいけど、受験生だよね、あなた」

 チーズ入りカルパスを持って部屋に戻ると赤くなるのを通り越して青白い顔色になってきた耕司が顔を上げた。

「どうだった」

「確実にゲームオーバー寸前だけどよく耐えてる」

「そうじゃなくてこっちに来ないのか」

「知らんよ、なんか夢中みたいだし」

 カルパスを齧って「コンビニのツマミでも結構イケるな」なんて感想を聞きながら残り少なくなったウォッカを押しつけ合う。

「うわ、濃いぞこれ。入れすぎだろ」

「まま、そんな時はコーヒー牛乳でも」

「この飲み方最悪だな」

「そう? 最近のお気に入りなのに」

 二人してようやく一瓶消化しそうなところで無駄に悔しそうな顔をしたアンちゃんがやっと部屋に入ってきた。

「耕司、全滅しちゃった」

「どうでもいいな、それ」

 そっけなく答える耕司の腹の上に座ってアンちゃんがグラスからウォッカを一気に飲み干した。

「まだまだ飲めるわよね、裕也は」

「え、なに、俺が付き合うの」

 言う間もなく新しいボトルのキャップをためらいなく開けたアンちゃんがにっこりと微笑む。

「嫌なことは飲んで忘れましょ。ほら裕也、ぐいっといって」

「俺、明日はお塾で模試があるんだけど」

「はい、かんぱーい」

「マジでか」


 この春は、後で思い返した時、きっと忘れられない時間になるんだろう。

 沙耶香がなんの前触れもなく、まるで夢みたいに冗談みたいにいなくなって、俺が三年に上がるのと同時に耕司たちが帰国し、内心抜け殻みたいになっていた俺は耕司たちとの酒盛りでなんとか平静を保っていたから、あいつらも何かしら理由をつけて俺を誘ってくれた。

 ガキの頃に出会ってから初めて経験する沙耶香のいない毎日。

 会わない、じゃない。会えない。

 それは想像よりもずっと重くて、おかげさまで調子に乗る気力も失せた俺は麻美と付き合い続けるのも面倒くさくなって、こつこつと受験勉強に励むようになっていた。


 その日も、耕司の家で酒を飲みながら勉強会をしていて、帰るころにはもう日付が変わりそうな時間帯だった。

 耕司の家から俺の家までは歩いても二十分ほど。でもその代わり長い坂道が続いている。その坂道をひたすらに上っていくと中腹にファミリーレストランがあって、他に目印らしい建物もないし二人で会うときは割とここを利用していた。

 その前に、麻美がいた。プリーツスカートにリボン付きのブラウスっていうシンプルな服装で店の前の階段に腰を下ろしている。

「伊勢くん」

 俺に気付いても座ったままの彼女が嫌味もなく俺を名字のくん付けで呼んで、中に入らない、と誘ってくる。

「それよりお前、酒飲んでないか。それにそろそろ終電だし」

「時間なんてどうでもいいじゃない。会って話しがしたかったの」

 よく見ると彼女は頬も瞼も鼻も真っ赤っ赤で、よろけながら俺を引っ張って店の中に連れて行こうとする。

 可哀想だな、他人みたいにそう思って彼女の後に続いて店に入る。傷ついて前後不覚になった麻美なんて想像もしなかった。怒っている彼女は知ってる、泣いた彼女も甘えたいつもの表情も。

 でもこんな彼女、俺は別れるまで知らなかった。

 オーダーを通すとボックス席で向かい合う格好になった。俺は煙草に火をつけて彼女が話すまでの時間をただ待っていた。店には大学生くらいの男女のグループがひとかたまりいるだけで従業員もヒマを持て余している、そんな時間帯だった。

「わたしと別れてもさ、伊勢くんは何も変わらないね」

 麻美は俺の分まで水を飲んで酒気を追い払っているらしい。同意を求めている訳じゃなく、淡々とデザートメニューのカードを指で弄びながら語り出す。

「校舎ですれ違っても当たり前みたいに声かけてきて。『部活頑張れよ』とか『クラスにはもう慣れた?』とか。そんな話しをするたびに、わたしは伊勢くんの過去になってるんだって知った。努力して呼び方変えても友だちに聞かれても、それがすごく寂しかった。傍にいた時間があんなにあるから思い出が尖ってもっと辛かった。ねえ、わたしって何だった、伊勢くんにとってわたしは、意味のある存在だったのかな」

 何て答えればいいんだろう、計算も何もなく、ただ彼女を満たす言葉を自分が持っているのか考えた。

「考えながらだから言葉適当になるけど聞いて。麻美は麻美だった。大切で可愛くて、たまに鬱陶しかったけど大切だった。今までこんなに長く続いた恋人いなかったし一緒にいると楽しかった。明るくてマメで鈍感で、見た目今どきのハデ系っぽいのに純真なところも、二人の時はやたら甘える癖も、良いとこも悪いとこも、全部好きだった」

「でも全部過去形なんだね」

「………」

「いいよ。責める権利なんてないし」

「あのさ、言い訳だけど、ただカノジョが欲しいだけなら適当に手に入れられる。でも麻美じゃなきゃダメだったと思う。俺の横であっけらかんと笑うお前がいたから俺は調子乗ったガキのままでいられたし、お前がそういうやつだから俺は安心して浮気でもナンパでも気楽にやれた」

「それってなんか都合のいい女って言われてるみたい」

「自覚はあるんだな」

「ははっ、ひどいな、その言い方」

「沙耶香との事知らないままだったら、俺と付き合い続けてたと思う?」

「分からない。でも、今も諦められないから、今こうしてるんだと思う」

「甲斐谷とは付き合ってるのか」

 部活の後輩の、気のある素振りが本人以外には一発でバレていた、正直歯牙にもかけなかった二枚目半の名前。

「ううん」

「そう」

「でも今日寝た」

 少しショックだった。きっとこのショックを何倍にも濃くした物が麻美の胸に澱んでいるんだろう。傷ついて初めて、傷ってこんなに痛いんだって思った。今彼女を抱いたらきっとその傷を癒してやれる。同情だろうが何だろうが青春の貴重な二年間を一緒に過ごして体を重ねてきた相手がぼろぼろになっている今の状態を放って置けなかった。

「お前さえよければ、家来るか」

「抱きたいの?」

「お前さえよければって言ったよな」

「わたしも抱かれたいよ。抱き合って愛し合ってた頃に戻りたい。でももう無理なんだってっ! 知らん顔で伊勢くんが他の誰かのとこから帰ってくるのなんてもう待てない。男ってどうして浮気するの? 飽きるから? 違うよね、伊勢くんは自分がどれだけモテるか浮気して確認したいだけじゃない! エッチな事したいだけじゃない! 何でそんな事できるの? カイくんとしててもわたし何も感じなかった。だってエッチしてても胸の中が乾いてるんだもん。意味が分からない、ゆうやに、とって、恋人は、わたしは、ただ一番、セックスの回数が多い、ただの女だったんじゃないの…」

 麻美は恥も外聞もなくぽろぽろと涙を流していた。どうしようか困っているウェイトレスさんに手を挙げて注文のコーヒーを受け取るとそのまま麻美の横に座る。手を握って、麻美を胸の中に押し込めると思いがけないくらい強くしがみつかれて俺はいつになく素直な気持ちになれた。人が弱っている時に優しくなれる、そんな当たり前の感情が自分にもまだあったんだな、なんて考える。

「俺、たくさん浮気してたんだ」

「知ってたけど、構って欲しかったから。傍にいたかったから、ずっと頑張ってた。ゆうやにはわたしの手に負えない部分があって、でもそれでいいと思ってた。それでもわたしにしか出来ない事があるって、分かってたから」

「あのさ、二股かけてた引け目っていうか、ナンパも含めてだけど、そう言うのがまるでなくて困ってる。頭では俺が悪いって分かってるんだけど、誰が見ても俺が悪いって事は分かってるんだけど、胸に響く確かな罪悪感ってのがまるでなくてさ。気楽なその場限りの関係は楽で楽しかった、薄っぺらなやり取りにうんざりしながら。でも今考えると怖いよな。自分の知らないところでもしかしたら自分の子どもが出来てたのかもしれないって考えると。誰にも言ってないんだけど、沙耶香、子どもができたんだ。俺の子かも、誰の子かもわかんない。それが怖かったから誰も知らない土地で一人で生きていくんだって、一度だけ来たメールで言ってた」

「子ども、いるんだ」

「実感なんて全然ないけど、なんかそうらしい。親にも頼らずに美容師のバイトしてるって言ってたかな。夢も叶えて、子どもも養って、一人で生きて、俺には無理だな、そんな大変そうな人生」

「わたしにも無理だよ」

「とにかく、俺がしてた事ってさ、他人同士の関係がたった一回のセックスで人生を絡め取っていく、そういう、とても怖い事だったんだなって。いっそコウノトリが運んできてくれてたらどんだけ楽だった事かって思うよ」

 じっと話しを聞いていた麻美は俺のピンクのポロシャツに涙を押し当てたまま「わたしに子どもができてもゆうやはきっと責任とってくれないよね」と早口に言った。「そうだろうな」そう答えると彼女は一度壊れたみたいな笑みを浮かべて、それからまた泣き出した。

 俺は嘘をついた事がバレないようにそっとコーヒーをかき回す。

 嫌いだったら付き合ってなんかいない。愛してなかったらご機嫌なんかとらない。

 ただ抱いてきた女の子たちとはまるで違うって事を、俺は最後まで言わなかった。

 邪険にしたって燃えるような恋心がなくたって、じゃれ合うだけで幸せになれた、もう一つの俺の恋はその日終わった。


 ペニスのカリは、他のオスの精液を掻き出すためにあるんだって、昔雑誌のうんちくコーナーに書いてあったのを思い出す。

 沙耶香の不安も、麻美の未練も、全部俺が取り除いてやれたらいいのに。男は俺だけで、彼女たちは何の不満もなく幸せな日々を過ごせるハーレムのような世界があったらいいのに。

 少し経ってから耕司と二人っきりで会った時にその話しをしたら「そんなお前だから宮越は安心して、でも、だから頼れなかったんだな。ハーレムの世界の一人きりの住人って、どんな気持ちなんだろうな」と笑って答えて、俺たちは夜中に昔の小学校に侵入して乾杯をした。


 春が終わるまで勉強会って名前の飲み会は続いた。

 夏には思い出をたどるように三人で花火をした。

 秋になる頃、耕司たちは推薦で大学を決め、俺は俺で勉強ってスケープゴートに日常を差し出していた。

 そんな中、気が付くと沙耶香に会いたかった。笑い疲れて息を吐いた時、煙草を吸おうとベランダに出た時、日常のちょっとした時間の中で、たまにどうしようもなく彼女の顔が見たくなって、会ってこのもやもやとした感情をセックスでなんとかして欲しかった。


 季節は過ぎて、その日はもう高校生活最後の日だった。

『卒業式なんだ。ずっと待ってる。子どもと一緒に、会いに来てよ』

 メールまでは拒否しなかった沙耶香の、ただそれだけの心にすがって俺はメッセージを送っていた。

 この一年、週に一回、近況を報告していた返信のないメール。

『男の子かな、女の子かな。それだけでも知りたい』

『もう生まれてるんだよな。俺の分まで愛してあげて。沙耶香の子なら、俺も愛せるから』

『意地張らずに言えよ! どこに居るんだよ! 会いたい。会って抱きしめたい。顔が見たいんだ!』

 数え上げればきりがなかった。慰めて罵って愛を語って言い訳した文面を眺めて、意味もなく廊下を歩いては立ち止まってまた君の姿を探した。日が沈み人もまばらになった校舎の屋上に立ち、そこにいる筈のない君を探した。

 気が付けば雨が降り始めていた。

 煙草を吸って校庭を眺め、校舎に戻って一階の音楽室の机に腰かける。

 沙耶香がいないと俺はこんなにも一人なんだって思った。

 俺の子かも、マサシくんの子かもしれない子どもとどこかの空の下で暮らす沙耶香。

 どうして沙耶香なんだろう。俺はいつからこんなにも沙耶香を求めているんだろう。麻美といれば楽だった日常があったのに。

 答えは、もうずっと前から知っていた。だから俺たちはあの距離を壊せなかった。どうしても俺たちは愛し合おうとしなかった。

 それはすごく簡単な事なのに。

 手を伸ばせば届く距離に沙耶香がいるのが怖かった。好きになり過ぎて、どうしようもなくなって、結局昔みたいに傷つけるくらいなら傍にいない方がいい。だけどどうしようもない時にはあいつに傍にいて欲しい。


 思えば思うほど勝手な俺の見た幻だと思った。


 雨音の中にかすかな違和感を覚え、彼女の姿が見えた気がして窓の外に目をやると、春雨の降り注ぐ校庭の、校門の前の銀杏の木の下でまっすぐに下駄箱を見つめている傘も差さずに立ち尽くす女の子の姿があった。

 俺は窓を開けるとピアノの前に座って「私的パートナー」を弾いた。鍵盤の上を流れる自分の指が以前よりもはるかに滑らかにメロディを紡ぎ出していった。クリスマスにくれたジャケ買したCDの中の一曲。喜びに色を付けたような、晴れやかなあのリズム。

 それが彼女の耳にも届いた。

 ゆっくりとこちらに歩いてきた彼女が、部屋の中を覗き込むのを視界の隅で感じた。俺はそこで手を止めて立ち上がると、俺たちは窓越しに向かい合った。

「穂乃香って、名前なんだ」

「そう」

 濡れてくしゃくしゃになった彼女の手の中にその子がいた。

 小さくて頼りないその手が、差し出した俺の人差し指を掴む。

「あの頃、俺には何かが足りてなくて、でもそれで良かった。でもなんでだろう。今、その何かがすごく欲しい。お前の中の輝きが、すごく羨ましいんだ」

「私に輝きなんてないよ」

「いいんだよ。俺が勝手に見てるだけだから」

 沙耶香がここにいる。顔を見ただけで俺の心の中は言いようのない高揚で満たされていた。その震えが指先を伝わり、穂乃香は幼いその感受性で強く指を握ってくれる。こんな小さな子が俺の気持ちを感じ取って労わってくれる。

 人間ってもしかしたら俺が思っているよりもずっとすごいのかもしれない。

 俺は窓から飛び降りて沙耶香の前に立つ。これ以上濡れないように、凍えないように、穂乃香ごとその体を抱きしめる。

「来てくれてありがとう」

「二度と会わないつもりだった。一人で生きていこうって思ってた。メールを返したくなるのを、いつも泣きながら堪えてた。でも結局、いつも会いたかった。弱いな、私」

「それは弱さじゃないよ」

「穂乃香が産まれた時、守りたいって思ったんだ」

「俺はそのお前を守りたいよ。だからさ…」

「なに?」

「沙耶香、結婚してよ」

 止めきれずに走り出した感情に名前なんてない。

 それでも、どうしても、俺たちは怯えながらもその感情に愛していると名付けてしまった。

 傍にはいられなかったけどこんなにも愛している。

 どんなにお互いを求めても苦しいだけなのに。

 それでも、これは、愛なんだって、その日、気付いた。

 雨が降っていた。悲しみを悲しみと感じるためのその音の中には俺たち以外もう誰もいなくて、だからその時も俺は当たり前のように沙耶香に愛してると囁いた。


 その証として俺は煙草の火で、彼女の腿に捺印を押した。

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