捺印 4/6
「わぎゃーーん!」
「うるせーよ」
「ゆう、会いたかった、会いたかった」
「二回言うな」
「いいじゃん、グッモーニンっ!」
「はいはい、さ、行くぞ」
麻美が自転車を取りに行っている間に同じ車両にいたクラスメイトに別れを告げて、一服したかった。軽くしてもらったダークブラウンに気付きもしないで麻美は楽しげに今日を呼吸する。
「朝だねー、ゆう。寒いよぉ」
「確かに寒いよな。今朝のワンポイントは」
「冬色コーデ」
「そのこころは」
「暖かな首まわり」
「よしよし、ちゃんとつけてるな」
何だかんだで自慢げに襟元のネックレスをかざした麻美が腕に抱きついてきてしょうがなく彼女の自転車を支える。風に吹かれた彼女の髪から懐かしい匂いがして俺も彼女に体を寄せる。
「あったかいな、お前」
「カイロ持参だもん」
「ありえねーな、昔の人は足袋と草鞋で過ごしてたんだぞ」
「ありえね~」
「だな、現代っ子、現代っ子」
「二回ゆ~な」
「会いたかったよ」
「もう、素直に言い過ぎ」
ほんとに馬鹿なやつ、素直にそう思って少し体を離すと麻美は従順なペットのように俺の半歩半くらいをついて歩く。
「麻美」
「もっと呼んで」
「麻美、あさみ」
「チューしよ」
「いや、普通にダメだろ」
「ちえ」
「これで我慢しろ」
唇をもみあげの付け根あたりにふっと押しつけると麻美はもう堪らなくなる。知っていても、やってしまう。一緒にいて、苦しくなる一歩手前とちょっと、ぎりぎりの境界線をはみだした途端、俺は半ば無意識に自制して心の中で彼女を突き放す。
「だけどさぁ」
「ん?」
「わかんない」
「なんだよ、それ」
「わかんないのっ」
最愛の人、にはもちろん届かないじれったい愛情で、可愛いやつ、を一歩でないところが俺の悪いとこ。もっともっとって思っていると前のめりに倒れてしまう事を学んでいたから。
毎日繰り返される学校はいつの間にか退屈で、クラスの男連中で俺に釣り合う奴なんてほとんどいなかったから、最近は麻美と沙耶香に会うためだけに学校に通っているようなものだった。
チャイムの鐘の音はウザったいし、クラスメイトはもっと面倒くさい。テレビの芸人のマネで笑いをとっているやつらは殺したいくらいだ。教師もただ「教師」って職業のつまらない大人で、このどうしようもない箱庭に毎日通う意味が見つからなかった。調子に乗ってすぐに中退したやつらは後先考えない馬鹿だと思うし、初めて恋人が出来ただけで自分なりに輝いているやつらもまた馬鹿で。
世の中には、まともなやつがいないのかな。
自分が格好いいと言われてスカしてる鼻持ちならないやつだって思われてる事は知っている。思われてもなんとも思わない、だってこいつらつまらないから。
最近、クラスメイトの後頭部を見るたびにそんな事ばかり考えているから、無性に昔が懐かしくなる。
俺。沙耶香。耕司。アンちゃん。ゼンジ。そして西門。
六人でいれば何もいらなかった。
時が経ち、高校に入り、傍にいるのは沙耶香だけになってしまったけど、あれが俺の本当で、あの場所で俺は俺になれて、その残滓を探すように、沙耶香との時間を慈しんだ。
「野菜から茹でるんだよね」
制服の上にエプロン姿って、ちょっとマニアックな格好をした沙耶香が振り返って俺を見る。
「適当でいいよ。コンソメにオリーブオイルが隠し味」
「やってみる」
居間でテレビを見ながら麻美にメールを返す。今日は会えそうにないって事、愛犬、さんぺーの写メを明日見せて欲しいって事、今日も明日も麻美しかいないって事。などなど。
八時ちょっと前に父さんが帰ってきて、菊の花束をテーブルの上に置いた。
「菊はいいのに」
「カタチって大事だろう」
もう慣れた感じで控えめにしていた沙耶香に説明する。
「母さんの命日なんだよ、明日」
「あっ、そっか。そうだった。すみません。こんな時にお邪魔してしまって」
「いいさ、彼女も賑やかな方が喜ぶ」
「今日のポトフは沙耶香作なんだ。今からオムライス作るから」
「着替えてくる、さーやちゃん。ゆっくりしていって」
「どうもです」
炒めたぶつ切りの鶏とケチャップライスを解凍したミックスベジタブルと一緒に絡ませて半熟のオムレツを上に乗せ三人分の小さな山を三つ作る。沙耶香は出来上がっていたサラダにドレッシングをかけると食卓に運ぶ。
「オムレツ、カットやってみて」
「楽勝」
沙耶香がつぅーと引いた包丁の後からこぼれ出していく黄金色の卵黄。
「ポトフの出来はどう」
「ん。まあまあ。胡椒もう少し抑え目でもいい」
「しまったな」
「父さんは濃い味の方が喜ぶよ」
「気、遣わせちゃうかも」
「そんなタマじゃないよ」
「それもそうか」
昔から使っているマットの上にお客さま用のおしぼりを出して父さんを待つ。
後ろ手に何か隠し持った父さんに苦笑しながら沙耶香を見ると、彼女は小走りに父さんの前に立った。
「お帰りなさい、おじさん」
「ただいまさーや」
「おやじちょーしのるな」
「おじさんはね、さびしいのさーやちゃん」
「はいはい、手は洗いましたか」
「じゃーん」
父さんが目の前に出したものはワインだった。
「裕也、グラス」
「はいよ、ったく」
「四つだぞ」
「わかってるよ」
父さんがワインオープナーを使って慣れた手さばきでコルクを抜くと小気味良い音が明るく部屋に満ちた。
「一杯ずつだぞ、内緒だぞ、高校生諸君」
「あははっ、心していただきます」
「香りからだぞ、さーや」
「おやじちょーしのるな」
「ふんだ」
「きもーい、言ってやれ沙耶香」
「キモ~い」
父さん、おおよろこび。
グラスを合わせて飯を食う。
父さんはやたらと沙耶香の家庭の話しを聞きたがった。沙耶香はのらりくらりと躱しながら俺に助けを求めて腿の外側を引っ掻いてくる。
母さんが亡くなった三年前、俺たちはひとりの中学二年生だった。
今にして思えば葬式でどうしていいか分からないクラスメイトたちの中、あるちょっと浮いていた友だちと沙耶香だけが泣いてくれた。
耕司のおばさんから慰めの電話をもらって、少しだけ泣いた。後から耕司たちがわざわざ会いに来てくれて、大丈夫、と答えた。そんな訳ないのに。
精一杯の強がりに耕司は「頑張れよ」と答えてくれた。
翌日、俺は学校を休んで当時の恋人と母を悼んだ。
「母さん、三年経ったよ」
心で呟いて、もう涙は出なかった。
「昔話なんて久しぶりにしたよ」
沙耶香は頬を火照らせたまま外気を吸い込む。俺たちは手もつながないままかつての通学路をなぞって、川沿いの桜並木を縫って歩いた。
こんな夜だった。夏祭りの帰り、同じこの場所で、初めて沙耶香にキスをしたのは。
浴衣姿をした彼女はどんな顔をしていたっけ。あの頃はまだ黒髪で、今より若干やぼったくって、それから…。思い出そうとして、上手くいかなかった。
話したのは、きっと、他愛もないこと。
過ごしたのは、きっと、かけがえのない時間。
信号が赤になって俺たちは立ち止まる。橋の袂で二人きり、アーチのように広がる枯れた桜の下で俺たちは唇を重ねて、追憶の寒風に吹かれる。
「あのさ」
並んで歩いていると煙草の吸殻を右手に挟んだまま俺の顔を見た彼女はふっ、と息を吸い込んで照れたように笑う。
「もう一度キスしてみない」
「構いませんけど」
嫌がらせに首筋にキスをして、沙耶香の匂いを嗅ぐ。
彼女の眼の奥にある感情を読み取りたくておでことほっぺにゆっくりと唇をあてた。そして突然、二人とも火が付いたみたいに乱暴に唇をあわせ合って、むさぼり合った。顔をはなすと彼女の視線が揺れて、潤んだ瞳から涙が零れ落ちていった。俺はその涙の訳になんとなく気付いていたから、沙耶香の頭を一撫でしてその頬を包み込む。
「もうちょい感情を上手く扱えないと参っちまうぞ」
「ねえ。どっちが大切って聞かれたらマサシなんだよ、マサシじゃなきゃいけないんだよ。でもね、一番自分らしくいられるのは、悔しいけど裕也といる時なんだ。嫌なところも、若くて恥ずかしい過去も、全部知ってる裕也なんだよ。可笑しいよね、ただの遊びなのに。たまたま高校が同じだったから惰性で付き合ってるだけなのに、本当はもう二人だけで会わない方がいいのに、一番になる気なんて、さらさらないのに…」
「二番目だから、俺たちは上手くやれてる。一番を願ったら俺たちはきっとこのままじゃいられない。傷つけて独占して、お互いを壊したくなる」
「壊れてもいいから、もっと傍にいたい。一番同士だった私たちをもっとずっと、見ていたかった」
「なにマジな顔してんだよ」
「キスじゃいや、セックスじゃいや、この不思議な関係をもっと、もっと深く刻みつける物が欲しい」
「そんな物ないよ。人は絶望しながら生きてるんだよ」
「裕也が言うと笑えないな」
そこで彼女は一息ついてこめかみを指で押さえた。落としどころのない感情は何処かで食い止めなきゃいけない、そうしないと人間って絶望に晒され続けていつか蝕まれていくから。
母さんが死んだときの俺や父さんがそうだった。俺も父さんも悲しむために女を使った。人の温もりってのは案外馬鹿にできない。
俺は沙耶香を抱きしめる。腰を押しつけ、指を絡めて、彼女のベリーショートが鼻先をくすぐるのに任せて。それからしばらく俺たちは温もりを分かち合った。
幼い想いで傷つけあって裏切って、その中でなんとか落ち着けた今の関係。それを壊したくないから、このぬるま湯の中で揺蕩っていたというのに。
湧き上がりそうな何かを感じた。性欲でも衝動でもない、本能で求める何かが胸の中でやけに現実的な痛みとなって心に爪を立てる。
「タイムマシーンがあったら、裕也はどうしたい?」
声に微かな誘惑の色音を感じた。沙耶香の濡れたように輝く瞳の奥で、離れ方を知らない磁石のように俺は引き寄せられて、何も知らないまま笑いあったあの頃がまた手を振る。
「そうだな、ナウマンゾウと戦いたい」
このまま絡まり合ってしまいたくなるのを必死にこらえてなんとかジョークでお茶を濁した。湧き上がりそうな何かは湧き上がってしまっていて、苦しくて、切なくて、堪らなかった。ただ、触れていたかった。
「あはは、私は、そうだな…」
抱き合ったまましばらくの沈黙が続いて、彼女が口を開く。
「変わらないと思う。過去に行っても未来に行っても、きっと裕也は私の永遠の恋人で、誰といても、誰と抱き合ってても、きっとこの腕の中に還ってくんだと思う」
「それが寂しいって気持ち、俺もあるよ。でも俺と沙耶香じゃ惹き合うチカラが強すぎるんだよ、きっと」
「なんだか言葉で誤魔化された気がするな」
俺は微笑んで返事を返す。おでことおでこをくっつけて。唇が唇を吸い取って。絡めた指先がそれ以上を求めて背中を撫で回す。
重なった影が細く伸びていく。
誰にも罰を与えられないから、俺たちはまた、どうしようもない想いを相手にすら隠して、悪ふざけのように唇を重ねた。
二月にはあまり沙耶香と会う機会もなかった。たまに学校に来ないところを見ると俺も一緒にサボりたくなって、たまに違う煙草を吸いたくなるみたいに違う女の子の背中を追って街を歩き回った。
そして三月も中盤のとある休日、薄曇りの午後。
風呂から出てベランダに出るともう夕暮れだった。
「さき入ったよ」
「そうか。いつの間にか春らしくなってきたな」
「なにしてた」
「今日は空を見てた」
「今日は?」
「酒飲みながらいちんち、空を見てた」
「あ、そう」
「もう後少しで最高の一日だった」
「母さんがいないから?」
「彼女がいないから」
俺は何も言わずに、並んで煙草に火をつけた。
三月の空はアンニュイな顔色で、風のなかで揺れる空のゴンドラの先端のように容易くその表情を変え、奇襲のようにたまに雨が降った。そんな雨の余韻の残る街並みを見下ろしながら、ふっと思った。父さんが母さんを失ったように、沙耶香がいなくなったらどうしようって。
現実味のなさ過ぎる空想みたいに、そんなの想像出来なかった。あいつとは小学校の頃からずっと一緒で、体の関係をもってからも昔みたいなノリで話せる唯一の女友だちで、多分この先もずっと変わらずに傍にいるのが当たり前な相手で、でもつながる糸はか細くて。
父さんが部屋に戻ったのと同時に、俺は数少なくなった親友と呼べる相手に国際電話をかける。
「っていうお悩み相談なんだけど」
「宮越と今のカノジョってことか? 贅沢な悩みだな」
「そういう事でもないんだけどな、まあいいや」
「お前は三つも抱え込むから手に負えないんだよ」
「三つ?」
「カノジョと遊びと、自分。遊びに偏り過ぎだな、話し聞いてると」
「遊びでもないんだけどな、沙耶香の事は」
「だからなおタチが悪い、もっと自分を重視しろ」
「俺ってなに」
「俺に聞くな」
「わかんねーよ、未来の俺に聞いてくれよドラえもん」
「誰がドラえもんだ。進路、どうするんだ」
「耕司は」
「そう遠くないうちに決める。そしてお前は驚くだろうと予言してみる」
「なんだよそれ。まあお前はそうだろうな、アンちゃんは」
「知らんよ、兄離れの時がきたんじゃないかな」
「ちょっと遅くない?」
「だいぶ遅い」
「やばい、心配になってきた」
「替わるか?」
「止めとく。中毒になったら困るし」
「あいつはお前にはひっかからんよ」
「ですよねー」
「笑ってろ。今の裕也が好きだぞ」
「さいですか」
「で、具体的な目標、見つけろよな」
「遊びはほどほどに」
「それはモラルの範疇だ」
「ピアノ王子になる」
「もういいっての」
「冗談だって」
「お前、ほっとくと本気で受験まで遊んでそうだからな」
「鋭いよね~」
「宮越によろしく。もう切るぞ」
「またメールで」
「またメールで」
学校帰りに沙耶香が家の前にいて、「どうしたの?」なんて声をかけて何気ない会話をした。
いつも通りに話しをして、それはまるで特別な事なんて何もないままキスをして別れるいつもの夕暮れだった。
「また明日」
「そう言ってまたサボるんじゃないだろうな」
「あはは、じゃあね。バイバイ」
「ん。次は飯食って泊まってけ」
「うん」
なんて。そんなかんじ。
なんて幸せなやりとりをしていたんだろう。思えば、それは彼女が決めていた、こうしたいっていう、別れのシチュエーションだったんだろう。
懐かしい橋の袂で抱き合ったあの日、沙耶香の涙の意味を、俺はまるで分かっていなかった。
「タイムマシーンがあったら、裕也はどうしたい?」
もう一度君がそう聞いたなら俺はこう答えるだろう。
弱さを若さのせいにしてぬるま湯で揺蕩っていた自分を殺してしまいたいって…。
そうやって、本当は胸の奥にいつも燻っていた、死にたくなるくらいの後悔と不安を封じ込めていた。
一番になりたい。一番になりたい。一番になりたい。
心の声が、そう泣き叫んでいた。
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