捺印 2/6
日曜日、朝のバス停に向かう長い坂道。
風が爽やかさを纏い始め、日差しも穏やかに降り注ぐ。
部活も辞めちゃって、耕司たちと会ったこと以外特別な事なんて何もなかった夏休みも終わって半月が経った。
暦の上では夏が終わって、空の中で入道雲が鰯雲に変わりはじめ、相変わらず暑かったりときおり過ごしやすかったりで、ふと道端に目をやると夏にはなかった名も知らない秋の花が小さな蕾をつけ始めていた。
その中で俺は受験生予備軍と呼ばれ、模試の合格判定欄にはFが並んだ。
一日一日は驚くほど長く単調なのに、季節はその倍以上の速さで巡って行く。
「しかしこんな成績見たことないわ。何で英語と現代文はそこそこなのに他は全部赤点レベルなのよ」
「興味がなかったから、つい寝ちゃったんだ」
「それなら国立の大学なんて受けなければいいのに。しかも全部東大じゃない。伊勢、将来の事とか何も考えてないでしょう」
「失礼な、ちゃんと考えてるよ。高校を卒業したら何年か海外を旅して、帰ってきたら沙耶香のヒモになろうと思ってる」
そう言うと、沙耶香は人差し指で俺のわき腹をさした。
「冗談だって」
あのねえ、彼女はそう言いさしてデニムの左ポケットから煙草を取り出して火をつける。
「私だってなにも勉強がしたい訳じゃないわよ。それでも最低限は周りの人たちに合わせないと生きていけないのよ、悲しい事に。それが社会なの」
会話の内容は明らかに投げやりな高校生のそれなのに、堂々と煙草を燻らせる彼女に注意するような勇気ある若者はこの予備校の屋上には誰もいない。短い昼休みに必死にニコチンを摂取して辛気臭い顔を並べている。
熱くじっとりと湿った空気が纏わりついて、屋上に吹く風もどこか投げやりだった。
「俺は、お前よりもはるかに社会に適応してると思うけど」
「伊勢のその適応能力が、会った時からずっと気に入らなかった」
「今は気に入ってる?」
「それよ、それ」
「でもさ、真面目な話し、将来やりたい事なんてあるの」
「私は、そうね」
俺は俯き加減で頬に手を添える彼女をこっそり眺める。普段は大きいけどすっきりとした目を細め、時々前髪をかき上げる沙耶香はアパレル業界希望、みたいな整ったルックスをしているのに勉強もまあまあできる。まあ、頭空っぽのアホだらけの高校のまあまあだから、実際大した事はないんだが。
「美容師、かな」しばらく待っていたら、少し恥ずかしそうな顔でそう告白してくる。
「あー、あるある」
「腹立つわね」
「じゃあなんで模試なんて受けに来てるんだよ」
「それは、両立、かな」
「うわ、きったねー、保険かけてんのかよ」
「伊勢には話すだけムダだったわね」
「腹立つわね」
「マネすんな。そっちはやりたい事、ないんでしょうね、やっぱり…」
「しんみり言うな」
「じゃああるの」
「おムコさん」
「死ね」
ないものはないんだって。
「せっかくやってた部活も辞めちゃったみたいだし。スポーツ推薦だって立派な進路のひとつよ。特にうちの高校はスポーツ強いんだから」
「バレーねえ」
「うん」
「なんか燃え尽きちゃったって言うか、好きなんだけど続けられない事ってあるだろ」
「分からないでもないけど」
「まあいいじゃん」
「まあいっか」
ふっと微笑む沙耶香の笑顔を合図に俺たちは腰を上げる。
「沙耶香、今日も来るか」
「やめとく」
「つれないよねー」
「そこがいいんだろ」
そこがいいのでした。
同じ角度なのに朝焼けにはない虚しさが建物の輪郭に切り取られた空いっぱいに広がっている。九月の空は感傷に浸る間もないうちに朱色の光の帯を広げ、やがて濃紺の幕を下ろしていった。
頭の下にやっていた手が痺れているのに気がついてやっと居間のソファから身を起こすと台所に行って蛇口をひねった。
何故か無性に水の音が聞きたかった。
生ぬるくて消毒の匂いがする水道水が静かにシンクを伝う。暗い場所で見る水は固まっているようで、蛇口から落ち、ステンレスの上を流れ、広がって、吸い込まれる一連の動きを省略したかのように一つの形を保っていた。外から入り込んだ弱い光がきらきらと表面で揺れる。
しすーーーふーーぅーーー
微妙に水圧が変わるせいか、なかなか音は安定せずに俺が望む音色にならない。正確にはどんな音を望んでいるのか自分でもよく分かっていなかった。結局諦めて水を止め、配水管を下る独特の下品な音が消えるのを律儀に待ってからインスタントのコーヒーを入れて部屋に入る。
昔から、いつの頃からかは忘れたけれど、たまに水の音が聞きたくなる。
死ぬほど辛い時じゃなくてちょっと寂しい気持ちでいると耳の中でその音が聞こえる。
だけどこの音がそうだって明確な答えはなくてひどく曖昧に、これは水の音なんだと感じて、そのたびに探した。
「あーあっ、なんかかったるいなぁ」
思わず一人ゴチてベッドに倒れこんで、もう数えるのも馬鹿らしくなった煙草に火をつける。
何がしたいんだろうな、俺は。
開け放たれた窓から少し涼しくなってきた風が舞い込み、膨れ上がったカーテンの加減で、灯りも点けていない室内の明暗が微妙に変わる。
その中で一際白く、目に浮かぶバレーボール。
拾い上げて手の中で転がしながら感触を確かめる。
背が低かったから始めたバレーボール。
背が高くなって初めて任されたウィングレフトのポジション。
誰よりも高い打点で決められたスパイク。
まだ思い出にできない歓声や落胆のざわめき。
県大会予選の最後、憎らしいくらい穏やかに俺の目の前にボールが弾んで止まって。
気がつくとまた泣いていた。
頬杖をついて窓の外を眺めるフリをしながら堪えていた涙が目じりを越えると、止まらなかった。堪えようとしてもガキくさい嗚咽が漏れてそのたびに奥歯を噛み締める。
沙耶香とは別に、もう一人カノジョがいる。名前は麻美。バレー部でマネージャーをしている。
別に麻美がって訳じゃないけど、星の数ほどいる人間に全員名前があって、それぞれに人生があるとか、正直疲れる。気持ち悪い、って言ってもいいかもしれない。
街を歩けば同じファッション雑誌を見て一押しのメイクをした女の子たちが同じような口調で話しをしていて、俺は彼女らを一目見るだけでどういうタイプの人間なのかすぐにわかった。
名前を聞いて数分するともう忘れてしまうし数日立つと顔も覚えていない。綺麗な二重だったとか指先が荒れていただとか、ぼんやりとした特徴だけで相手を区別していくうちに、ある日ふっと記憶から抜け落ちている。
俺の顔が好きなバカな女たち。
そういう子との中身のないやり取りをしていると時々自分が堕落しているなと感じ、でもその気だるさみたいなものがある特定の女の子を引き寄せている事をもう理解していた。
最初にセックスした相手は中学のときの部活の先輩だった。足がむやみに長細くていつも性欲でギラギラとしている人だった。
「センパイ、俺で一人エッチした事あるでしょ」
驚いた顔に押し殺した悦びが浮かぶ、その鼻の穴だけが印象的だった。行為自体は気落ちするくらい幼稚で、リードする優越感に浸っていた先輩は滑稽だった。
俺はそうならないように日々技を磨き、一定以上のレベルには達したと自負している。
恋愛ってそういうものだろって直接言えないから、初恋はレモンの味がするんだよ、なんて言うんだろうね。
いつもなら、部屋に呼ぶだけでただでさえ高いテンションをいつもの三倍にする麻美を適当なセックスであやしてなだめすかすつもりだった。今日も実際エッチはしちゃったけど、妙に感傷的になって部活の事なんかを思い出したりしていたから、たまには恋人らしい事でもしてやろうと思って、二人で遅い夕食を取っていたりする。
「ゆう、今日優しい」
「それは違うんだけどな。まあいいや、飯食ったら帰りなよ、送ってくから」
「えーっ」
麻美はすっかり安心しきった表情で唇を尖らせる。
「ほら、お前の親うるさいだろ。うちは父さんと二人っきりだからどうとでもなるけど」
「やだよ、今夜は帰りたくない」
「それはめーなの」
「もう、すぐ茶化すんだから」
そう言って麻美は席を立つと流しに行って食器を片付け始めた。
お手本通りに少し待って、後ろから抱きしめる。
「くすぐったいよ」
「気持ちいい、じゃなくて?」
「バカ」
抱きしめている本人が言うのもなんだけど、こんな「ポーズ」で人って分かり合っているんだな、とかちょっと悟ってみたり。
麻美といると、少しばかりお兄さん気分の自分がいる。根っからの妹体質なんだよな、なんて思いながら彼女をソファに座らせて居間のデッキにCDをセットする。すぐにイントロが流れて女性歌手の甘ったるい歌声が耳に届いた。
「あっ、聞いててくれたんだ、この曲」
「当たり前だろ、試合前もこれ聞いてリラックスしてた」
「そっかぁ。嬉しいけど試合は、残念だったね」
「別に。勝負の世界だからな、負ける事もあるさ」
「部活に来なくなっちゃったのはそれが理由?」
「違うよ。考えてみたら小学校からバレーしかしてなかったからな。いい加減飽きたって言うか、良い区切りだと思ったんだよ」
本当はそうじゃないけれど、いちいち麻美にその事を説明する気にもなれなかった。
「麻美はさ、将来やりたい事ってあるか」
今朝の沙耶香との会話を思い出してそう問いかけてみる。
「うーん、ない」
「即答だな」
「しいて言うなら、好きな人とずっと一緒にいられる事かな」
「女はそれがあるからずるいよな」
「女の特権、だね」
「男がそう思っちゃ変かな」
そう言うと、麻美は何か期待した顔で俺の顔を覗き込む。
「わ・た・し・の・こ・と?」
「ごめん、おじさん、耳悪くて」
「ひどーい」
やりたい事、今までずっとやってきたバレーがなくなって、俺に残っているのはルックスだけで。
「将来とか考えるとウツ入るよね」
「へぇー、ゆうでもそんなこと考えるんだ」
「おかしいかな」
「ううん、でもちょっと意外かも」
「普通に過ごしてる自分、想像できなくてさ」
「ゆうはモデルとかになればいいよ」
「そんな甘いものじゃないだろ」
「だって普通が嫌なんでしょ、いつも言ってたもんね」
「てか、普通って怖くない?」
「でたでた」
へへへっ、と無防備な顔で笑って麻美が頬にキスをしてくる。
「ゆうは普通じゃないよ、トクベツ」
「そいつはどうも」
麻美を駅まで送って家に戻る道すがら、俺は考えていた。
例えば、将来たいしてやりたくもない仕事について、奥さんや子どもなんかができて、冗長な時間だけが過ぎ、ありがちな家族のイベントをいくつかこなして、いつか死ぬ。
そんな人生、耐えられる訳なかった。
それが普通で、「生きる」と言う事なら俺は生きていたくなかった。
ありふれた、何気ない日常に満足できるような自分じゃなかった。
麻美や他の女たちでは俺の胸の穴を埋めてくれない。慰めや一時の楽しさはあっても、欠けたピースを紡いでくれるような安らぎや心地良さはない。身を焦がすような熱情や我を忘れるほどの興奮って、あいつらに感じた事がない。
恋ってそういう物だと思ってた。
だから俺は、下らないとどこかで思いながらセックスするんだと思う。
心の中のもやもやを晴らしたいから、セックスは嘘をつかないから、簡単に女を物にできるのが優越感だから。
下らないと思う。
自己嫌悪をかき消すように一瞬の快楽に溺れ、そんな自分がまた嫌になる。
それでも。
子どもじゃいられない年齢なんだろう、高校二年生ってやつは。
身体だけでも誰かと深く繋がっていたいと思う気持ちを誰が否定できるだろう。
刹那の一瞬を刻み付けるようなあの時間だけが俺に生きていて良いと囁いてくれる。
秋の中でまどろむように日々を過ごしていくうちに、俺の生活は部活から無縁なものへと変わっていき、学校帰りによく遊ぶ友だちができ、煙草の本数が増えて、退屈を持て余していた。
「なあ、AVとかでさ、学校でエッチするってやつよくあるじゃん。あれってどうやって二人っきりになるんだろうね」
「知らないよ、そんなこと」
彼女は片手に煙草をはさんだまま、携帯から顔も上げずに返事を返す。相変わらず沙耶香はつれないな。昔はもっと、見つめるだけで期待に揺れる目で俺のことを見つめ返してきたのに。まあ体を重ねた相手がいまさらそんな事でときめかれてもこっちも困るが。結局慣れなんだろうな。
「いや、ほらさ、せっかく学生やってるのに学校でしなかったら悔いが残りそうで。沙耶香も将来後悔するぞ」
「なんでよ。大体、今だって二人っきりじゃない。なんでそんな発想になるのよ」
「だって男子トイレの個室で二人っきりってのもな。体育倉庫とかでだな…」
「伊勢もバカな男の一人だったって訳ね」
便座に座って、膝の上に沙耶香を乗せたまま低い天井を見上げる。高校生ってこんな物か。こうやって隠れて煙草吸って、密着してても何も起こらなくて、なんて言うか、想像してたのと違う。
他の女もつまらないし、ゲームもマンガもつまらない。
「あーあっ。またあれやるかな、ブスをドキドキさせるやつ」
「性格悪い」
「何でだよ。俺も笑えるしあいつらも喜ぶし」
実際、ちょっとイラつくあの感覚は結構クセになる。俺ってサドなのかな? それともある意味マゾなのか?
下らない事を考えていると、沙耶香がつまらなそうに呟いた。
「音楽室」
「え?」
「音楽室だったら、してもいいかな。一階にあるからすぐに逃げられるし、匂いが好きだし、何よりピアノがある」
「ピアノ、ね。母さんが昔、沙耶香は下手だけど、弾くのが好きな気持ちが伝わってきて嬉しいって言ってたな」
「そうじゃなくて」
「なんなの」
一度立ち上がってくるりとこちらを向き、馬乗りに膝に座ってきた彼女が俺の瞳を捕える。
「ピアノ弾いている時の裕也は、格好いいよ」
「急にどうしちゃったわけ?」
「キスしたくなっちゃったわけ」
唇を押しつけ合いながら、そう言えば今、「裕也」って呼んだなってぼんやり思った。
『今日は帰らないもん』
割とよくある父さんからの帰宅拒否宣言をメールで受けて、部活帰りの麻美に連絡を入れて自宅に呼んだ。
泊まっていってもいいと聞いた麻美はあからさまにハイテンションだった。それが夕食を食べ、少しビールを飲み、どうでもいいバラエティー番組を見ている頃から雲行きが怪しくなってきた。
「顔を見るのもいや」
俺は適当に叩いていた鍵盤の前から立ち上がって、麻美がいるテレビの前のソファに並んで座る。
「なんで」
「ゆうはジコチュー過ぎ、あぁーもうっ!」
麻美が耳たぶをひっぱって、俺はサインに敏感に反応する。
怒ったように座り直した麻美が、いつものトロ目になる。押し倒してキスすれば治る機嫌。
体を起こして見るとアホな小犬が「服従」のポーズをしてるみたいで思わず笑ってしまった。
それからエッチをして、眠るのも惜しい気がしてベッドでたわいもない話しをしながら夜が明けるのを待った。
まだ空が鈍い灰色をしたセックス明けの早朝、横でまどろむ麻美の乳首を揉みながら朝一の煙草に愛情を注ぐ。
星が見たかった。懐かしいあのメンツで、沙耶香や耕司たち六人で夜通し語り合った、あの日と変わらない星を。
けれど空は重たい色で、立ち上がる煙草の煙と溶けていった。
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