フィルタの底 4/4
突然美月から来たやけに愛想のないカードには、結婚を告げる他人行儀なゴシック体と汚い丸文字のメッセージが添えられていた。
へロー、春斗。おひさしぶりー、そんな訳で結婚しちゃいます。もしかして嫉妬してる? 相手は五十超えたオジさまよ。たまには不倫でもしてあげるからいつでもいらっしゃい、なんてね。もうそんな歳じゃないか。春斗とは色々あったけどもうおしまい。おばさんはおばさんらしく、縁側であんたの幸せを願っているからね。
楽しかったよ いつも どんなときだって
美月
花びらが散るように記憶が溢れ、けれどそれはひどく曖昧だった。
四年という歳月を思っていた以上にリアルに告げるその手紙の向こうに四年後の彼女を上手く想像することは出来なかった。
僕の背中にくっついて静かに息を止める美月。
手を繋いで楽しそうに笑い声を上げる美月。
空に向かって時々僕の知らない歌をうたっていた美月。
明けていく朝焼けを愛しそうに眺めていた美月。
苦しそうな美月、泣いていた美月、怒っていた美月。
ミヅキという、その人。
窓の外には春の木漏れ日が満ち溢れている。
ベランダに出ると懐かしいような街の喧騒と潮の香り。午後のエアポケットを縫って歩く子供が母親に手を引かれ、見下ろす僕に気づいて日傘の下からにっこりと手を振ってくる。南の空の太陽は艶やかに桜の枝を照らし、あと数日もすれば見事な淡紅色を咲かすだろう。
煙草を咥えてガラス窓に寄りかかるとひんやりとした心地良さに思わず溜息がこぼれた。
美月はもういない。
何度も確かめた言葉をまた呟いて、枯れて薄茶色に変色したサボテンの刺に触れてみる。そうやってサボテンの針を撫でながら、もう一度美月が書いた和紙折の葉書を読み直した。
プリンを買っておいてだとか、どうでもいいような用事を広告の裏に流し書きにしていたままの彼女の下手くそな文字は、最後にただ「美月」とだけ書かれていた。
結婚の報告なんだから、ちゃんと苗字まで書きたかったろうに。
小さな心配りにまた過去が込み上げてしまう。
美月のいない毎日を確かめるために、僕は神戸という街を選んだ。
「タバコは止められなかったけれど、これでもずいぶんとマシになった方なんだ」
三十四だった美月に二十一のような口ぶりで話しかけてみる。彼女は、この四年の間に荒廃していった僕に薄々は感づいていたんじゃないだろうか。それでも美月は僕を見捨てた。
「強くなったよな、本当に」
嫌味でも自嘲でもなく素直にそう思えた。
酒と煙草に依存して、それでも自分の感情を止められなかった僕を救ったのは、冬のアスファルトに枯葉が踊り足元をかすめる、その夜の美月の声だった。
「もしもし」
何コールか鳴らすと受話器の向こうからくぐもった声が聞えた。擦れて高く上ずったこの声を聞いたのは今年の夏以来だった。
「久しぶり。起こしたかな」
「当たり前じゃんか、何時だと思ってるの」
「相変わらずだな。今彼氏と一緒?」
「ううん、ひとりだけど」
「すぐに会いたい」
そう言うと少しの間沈黙が流れた。
「なに、また女にフラれたの」
「そんなとこだよ。今四条河原町で飲んでるから出ておいで」
「あのさ、」
「なに?」
「私ね、今の彼のこと、本気で好きなんだ」
「関係ないよ、今までもそう言ってただろ」
恋人ができるたびにそう言って、結局どちらとも無く短い間だけお互いの元へ戻っていく、ここ数年はその繰り返しだった。
「あんたとはもう会えないよ」
「会えるよ。そいつとだってすぐに別れる。どうせ下らない男だろ」
「そうかもね。だけどさ、もう諦めたりするの、やなんだ」
「会えば忘れられる。会えば元に戻る。ミヅキ、僕たちはやり直せるよ」
「やめてよ、もう。もう揺さぶらないでっ!」
泣き出しそうなミヅキの声が、少しだけあの頃の響きを帯びた事に狡猾な僕は気づく。
「ミヅキ」
「好きだよ。好きだけど。春斗といるといつも同じ場所にしかいられない。怠惰が心地良くなっちゃうの。春斗だってきっとそうだよ。だから、もう会わない方がいいんだよ」
震える彼女の声に、僕は馬鹿だ、思わず泣き出しそうになった。彼女の塩素臭い髪が、細くて柔らかな腕が、健気な笑顔が、苦しいほど思い出された。
「会いたいんだ」
「無理だって、やめようよ、もう辛いのはやだよ」
僕は煙草の煙を深く吐き出した。
「なあ、何でだ、僕の傍にいたいって言ったのはお前だろ。今だけでいいから。ウソでも何でもいいから戻って来いよ」
強く言うつもりが最後には懇願するような口調になってしまっていた。
どうしても会いたかった。会って肌を合わせれば僕たちはまたこの世界で僅かに呼吸できる。
その夜抱えていた失望や侘びしさが僕に輝かしかった昔を思い出させていた。
「できないよ。私はもう、誰かの代わりなんてしたくない。ちゃんと自分の力で立っていたい」
「違う、僕は…」
「じゃあ好きだって言ってよっ! 大好きだって、美月だけだって、心の底から安心させてよっ!」
思わず口走った言葉に、彼女が後悔しているのを感じた。
僕は彼女に本当の思いを打ち明けてからも彼女を好きだと認めることが出来なくて、真っ直ぐにミヅキを見られなかった。認めてしまえば、真緒への気持ちが嘘になると思って。
僕だけは、他のやつらとは違うんだと思っていた。
浅はかで自分勝手だった僕の傍で、ミヅキはずっと、そんな素振りも見せずに耐え続けていた。
僕はあの頃どうしようもなく寂しい時に彼女の温もりで暖められていたし、別れた後もとぼけた声で気まぐれに電話してくる彼女に迷惑そうなフリをしながら会話するのが好きだった。
好きだったんだと知ったからこそ、言えなかった。
「女の子みたいな事言うなよな、なんか急に白けた」
「春斗」
「なに?」
「なんか安心したぞ」
「あのさ、意味わかんないから」
「いや、やっぱり私のこと好きだったんだなーと思ってさ」
「まあ、受け取り方は自由だけど」
「へへ、らしくなってきたじゃない」
口づけずにはいられなかったあの夜のミヅキ。
絶対に。失わせたくない。
「ごめんな」
「いいってば。女の子扱いしてくれて嬉しかった」
「もうやめよう」
そうだね、そう言ってから押し黙った彼女の頭の中でどんな言葉が流れているのか、何となく分かった。口にしてはいけない想いが、通じ合っている。
「それじゃあ、もう切る」
「幸せになれよっ、とか言ってくれないの」
冗談っぽく混ぜっ返すいつものやり取りで。
「言わないよ、知ってるだろ」
それ以上の言葉が出てこなくとも。
「あははっ、じゃあね」
「本当に、幸せになれよ。ミヅキはこれから幸せになれるから」
「もー、言うなよな」
「ゴメン、さよなら」
大人の言葉で封じ込めた。
あんなに何度も、何度も、何度も。簡単に言えた言葉だったのに。
「本当に、幸せになれよ」
僕はその声に乗せてはいけない感情を微かに乗せて、あの夜静かに電話を切った。
座り込んでいたコンクリートの床が冷たくなってきて、いつの間にか燃え尽きていた煙草をもみ消すとサボテンの鉢を部屋に戻した。小さなリビングの机にその鉢と手紙を置いたところで、いつかの「everywhere」がふと脳裏に甦った。僕がまだ美月と暮らしていたときに、尖った感情を必死に押し殺そうとして毎日のように聞いていた、あのメロディ。
失っていた感情を取り戻してくれるような、青春のエバーグリーン。
何となく気恥ずかしいような気分に捉われながら、あの頃から使う機会もなかったそのCDをアルバムケースの奥から取り出した。一度寝室のオーディオコンポにセットしてから、思い直してポータブルプレイヤーを持ってリビングに戻り床に寝転んだ。
スイッチを押すと、何度聞いても鳥肌が立っていた、深海のように心の襞をくすぐる穏やかな旋律が耳元で溢れ出す。
あの頃は感じられなかった。インストゥルメンタルの数拍の間に、これほどの感情が込められていただなんて。
僕は目を閉じてボーカルの静かな声とその声に調和した音の流れに身を預ける。
雲に隠れていた太陽が再び現れて、強く暖かな西日が差し込むのを瞼の裏に感じた。
そして僕は、初めて美月を抱いた、あのブタペストの空に見た、セピアを塗り替えるローズピンクの朝焼けを、心に描き続けた。
なあ真緒。僕はあの頃、恋をしていた。
苦しいほど、美月を愛していた。
フィルタの底で、怯えたように身を隠し続けていたものは、愛している、そんな当たり前すぎる言葉だった。
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