フィルタの底 3/4


「なんと素晴らしい今日でしょう」

 ほっ、ほっ、と体を動かしながら準備体操をしていたミヅキは僕がリビングに入ると、やあといった具合に手を上げてそんなことを言った。

「おじさま、おじさま。私の赤いリボンが見つからないの、ああどうしましょう」

 僕がそういうとげらげらと笑い転げたミヅキが「たすけてー」と床にねっころがった。

 その隣りに僕も横になって仰向けになると、フローリングの快適な温度と、肌をあぶりたくてうずうずとした太陽の光と、どこかに行きたくてうずうずとしたミヅキの熱が主張しあって、結局熱の方がはるかに勝ってしまう。

 八月初めての木曜日、午前十時、天気は、晴れ。

 逆さまの空を盛り上がった雲が流れて僕たちは視線を重ねる。

 さあ、今日はどこへいこうか。


 梅雨の間も僕たちはこんな風に罪のない冗談を言い合って飽きることを知らなかった。

 ミヅキが打ち明けてくれたあの夜に、彼女は苦しみの笑顔から解放されて、僕たちは春の夜の囁きに身を委ねた。

 もうミヅキは僕に恋人を作れとは強要しなかった。それは諦めにも似た、彼女の覚悟だった。逃げ場を失ったことで僕たちは開き直って思い切り六月の湿気を吸い込むことができた。ぞくぞくするほど新鮮な緊張感の中で窓を伝う雨粒を楽しみ、風の声を聞き、酔っ払ってふざけあい、夜は不思議なほど無口になった。

 下着の上から気絶しそうなほどに慎ましく触れ合うだけのペッティングをし、僕は手のひらの熱で溶かすように彼女の性器に触れ、ミヅキは幼女のような躊躇いで僕の性器を受け入れようとする。

 それが毎回叶わないことに僕はそれほど傷つかなかった。彼女が目に涙を溜めて尻を浮かそうとするたびに、僕は大丈夫だよと囁きかけて深く穏やかに眠っていく彼女の体温を中和した。

 今年の梅雨は長く止まなかった。けれど僕は釣り合った幸福のシーソーを傾けて転げ落ちそうになる前に彼女を支えた。

 その梅雨が終わってしばらくすると大学の試験などで忙しくなってきて僕はミヅキに多くの時間を割くことができなかった。

 だから、たっぷりと余った夏休みの始まりが二人の口を滑らかにさせる。

 ミヅキいわく、この夏はもうただの夏じゃない、のだ。


 京都には行き飽きたというミヅキに、ならば神戸まで行ってみようかと楽観的に提案したのだが僕たちの読みは確実に甘かった。

 いつもより少し長いツーリング気分で出かけた僕たちは石山の手前あたりで挫折して、仕方なく山科からJRを使ったのだが車内は窒息しそうなほどの熱気で溢れ、神戸駅に着く頃には真夏の外気ですら心地良いほどだった。

 サウナ状態の車内で当てつけのようにヘルメットをかぶったままげんなりとしていたミヅキは、大通りに出ると手綱から放たれた狩猟犬のように元気に街を駆け回りだした。

「春斗、見てみて、すげーよあのねえちゃんのおっぱい」「うおーファンシーだ、ファンシーなものがある」「どうこの水着、セクシィーかしら」

 街を二周はしたんじゃないだろうか。それにしてもよく話し、笑う。結構な数あるデパートを何件も冷やかし、三宮商店街の小粒な店で食事をし、果てはメイド喫茶にまで足を運んで、そのたびにミヅキは色々な感想を妙なハイテンションのまま僕に話しかけていた。

 ははぁ、これが萌えでござるか。ミヅキがそう言いながらメイドさんのパンツを覗こうとして腰をかがめたところで、たまりかねて僕は言った。

「ミヅキ、ハウス」

「ワン」

 少しだけ大人しくなった。


 夕暮れの海風が汗ばんだ肌をくすぐる。陽が沈む前の紅い光が僕の横を歩くミヅキの瞼に濃淡の影をつけていた。薄手のTシャツから透ける下着は淡い水色で。

 僕の気高い少年。

 すっと余分な物のない面立ちは黙っていればこんなにも大人びて見えるのだ、と改めて思った。

「どうしたの」

 夕方のミヅキが不思議そうに首を傾ける。

「いや、ミヅキが何考えてるのかなと思って」

 そのとき初めて、ちいちゃんの気持ちが、そうやって尋ねてきた何人かの言葉の意味が少しだけ理解できたような気がしていた。

「珍しいね、春斗がそんな事いうの」

「らしくないかな」

「そんなことないよ。たまにはいいじゃない、そんな日があっても」

「不安なんだ。幸福であればあるほど」僕はいつになく素直だった。

「春斗くん、キスの魔法を教えてあげる」

 小さな唇が預けるように僕のこめかみをかすめて、すぐに離れた。

「どうだった」

「ミヅキさんを感じたよ」

「よろしい」

 幸福を、幸福のまま抱えていたいと思う僕は傲慢だろうか。好きと大好きと愛してるとでしか気持ちを言葉にできないのに。

 そんな事を考えてしまうほど、夕方のミヅキはいつにもまして素敵だった。

 これが本来のミヅキなのかもしれない。昼の幼さと夜の幼さとの隙間に鮮烈な輝きをたたえている、このミヅキこそが。

「なあミヅキ」

「なんだい坊や」

「いや、海が綺麗だ」

「ほんとにどうしたの、今日は」

「ちょっとだけ甘えたい気分なんだけど、素直にそう言えないんだ」

「おんぶとだっこ、どっちがいい」

「もう一度キスがほしい」

「あしたは雨かな」

 照れたようにミヅキは笑ってさっきよりも長いキスをしてくれた。そのまま僕の脇に触れて躊躇いがちに裾を握りしめる。

「ごめんね、春斗。考えてみたら最近ずっと、私はあんたに寄りかかってばかりだった」

「そんなこと気にするなよ。頼られると男は頑張れるんだから」

「うん。もう一度、キスしてもいい?」

 何度でも、望む数だけ夏の空にキスの雨を降らせよう。さすがにそこまでは口に出せなかったけれど、僕はミヅキを感じる。

 結局、肝心なことは何ひとつ伝えられやしない。


 人工の照明が自然光に勝り始める頃、神戸の街は格段にその様を変える。

 モザイク通りに面した、海の見えるレストランで夕食を終えて、食後のワイングラスを傾けると近年新造されたという客船が光放つのを二人で眺めた。確か飛鳥だかそんな感じの船で僕は全く興味を持てなかった。ライトアップされたそれと店内から漏れる光に挟まれてオープンテラスになっているこの場所は安直なムードで恋人たちを盛り上げようとしている。

「安いだけって感じだな」

「ワインのこと、夜景のこと?」

「両方」

 僕がそう言うと、ミヅキは「贅沢もの」と言ってさも美味しそうに汗をかいた白ワインを飲み干した。

 こんな風に、恋人のように、海辺に深く腰かけていると、ふと自分たちが他人にどんな風に見えるのか気になってしまう。

 ミヅキは三十四歳、僕は二十一歳、年の差は一回りと一歳。

 気にならないと言えば嘘になる。普段はたいして気にも留めないのに同じように過ごす他人を感じるだけでそんな風に思ってしまう自分が不甲斐なかった。到達したような気になっても僕はまだまだ幼いから、駄目な自分をともすれば黙認しそうになってしまう。

 テラスの床は全体的に茶系の色を基調とした作りだったが椅子や照明の傘は白く、遠くの遊園地から聞こえる電子音や薄く流れるBGMが奇妙な均衡でイルミネーションと調和していた。その風景をミヅキは眺め、グラスに口をつけ、また眺めるという事を飽きることなく繰り返して満足そうに微笑んでいる。

「お望みなら、お船の近くまで参りましょうか」

「お気取り屋さん」

 ミヅキが甘えた声を出す。

「船なんて好きだったの」

「正直ゆうと、あんまり見てなかった」

「なんだよそれ」

「ねえ。覚えてる? こんな感じだったね」

「何が」

「わかってるでしょ」

 分かっているよ、でもその話しはしたくないんだ。

 僕が答えずにワイングラスを回すとそれを肯定の合図だと思ったのかミヅキは話しを続ける。

「こんな風に街が、まるでこの海みたいにきらきらとしていた。遠い、すごく遠い昔に、まだ私が生まれるずっと前にも、私はあの場所であの街を見たことがあるんだと本気で思った。あの日ね、春斗が来るかどうか、本当はずっと不安だったんだ。子供にナメられたらプライドが傷つくぜ、とか頭の中で毒づいて、でも、待ちながらほんとに来てくれたらどうしようって、女の子みたいにそわそわとしていた」

「そうは見えなかったな、ミヅキさんはミヅキさんらしくつまらなさそうに振り返って、あれ、来たんだって顔をされて、僕は正直泣きそうだった」

「ウソだ。小さな春斗くんは一年前とは違う大人びた表情で優しく抱きしめてくれたわ」

「そうする事しかできなかったんだよ。春斗くんはミヅキさんの大人なアプローチがすごく心地良くて…。もうその話しはやめよう」

 僕は話しを区切るように伝票に手をかける。ミヅキはその手を抑えて僕の目を真っ直ぐに見つめてきた。

「どうして思い出の嫌な部分だけを見ようとするの、私たちの始まりの思い出話までしたくないってこと」

「どうだか」

 僕は口の端に苦笑を浮かべる。

「その笑い方」

「えっ」

「その笑い方、やめなよ」

「どうして」

「いやだよ、受け入れられないみたいで」

「そんなことない」

 僕はやや強引にグラスを煽ってミヅキの言葉を否定しようとする。

「ある。春斗はわかってない。あんたが不安を抱えてるように私だって不安なんだよ」

 僕は真剣な表情になったミヅキの手をとって、少しだけ口内に残っていたアルコールをその甲に乗せる。

「わかった。これからは気をつけるよ」

 そう囁くと掴んでいた手が素早く解かれてミヅキが僕の頬を、パンっと叩いた。避けられる速度のその手のひらを僕は甘んじて受けていた。その証拠に手に持っていたワインは一滴もこぼれていなかった。

「痛い?」

「痛いよ」

「よかった。脳みそはなくても痛覚くらいはあるんだ」

「どうやら、そうみたいだね」

「はっ、ふざけんなよてめえっ!」

 突然にミヅキのあげた怒声が唸るように店内に響いて、面白がったり迷惑そうな囁きが周囲から聞こえてきた。

 ほんの数秒前までの和やかな雰囲気は途切れて、僕は凪いだ海を、ミヅキは僕を見ている。

 長い沈黙が続いて、それがあんまりに長かったからフォークで刺されなくて良かった、とか場違いなことを考えて客船の白い肌をぼんやりと眺めた。

「どうしていつも何も言わないの」

 この前買った野菜ジュース、あれはなかなか美味かったな。

「私は春斗とケンカもできないのかな」

 そういえば洗濯物も溜まっていたっけ。

「答えなよ」

 ミヅキに任せるとアイロンがけが上手くいかないし。

「聞こえてる?」

 明日の午前中は久々に映画でも借りに行こうか。

「ねえ、謝るから」

 それにしても、夜景は嫌いだ。

「もしかしてもう何か言ったのかな、私が聞き取れなかっただけで。それとも私喋れなくなっちゃったの、そうなのかな、喋っている気がしてるだけで実は声に出てないのかな。私喋ってるよね、答えて、ねえ、春斗」

 悲しいくらい簡単に追い詰められていくミヅキを見ながら僕はただ悲しかった。その悲しみが目の前のミヅキを通り過ぎ、感覚が宙を駆けた。


 暖かい記憶と暖かな笑顔がモノトーンのキャンバスに映る。僕はただ幼くて自分勝手な慈愛を押しつけて苦しめる、誰かを想う感情が誰かを傷つけてしまう、気持ちは気持ちのまま完全に伝わることはないから、言葉にすればそれは陳腐で、抱きしめても届かなくて。

 それでも。

 息が苦しくなりそうで思考が肉体を圧迫していくのを感じた。それでも描き続けたくて自己満足があの日の笑顔を映し続ける。

 助けてほしい。僕と目の前の女性をこれ以上苦しめないでほしい。

 けれどまただ。

 乗り越えようとするたびに白い手が手招いて、僕が今を生きることを拒む。


 限界まで飛ばしていた藍色の眼を引き戻して立ち上がると、まだデザートが乗ったままのテーブルを思い切り押しのけた。彼女はスローモーションで割れる皿やグラスの音にびくりとして口をつぐんだ。

 関係ないしどうでもいい、他人の目なんて。

 放心したように椅子から僕を見上げるミヅキの身体を力いっぱい抱きしめた。同じようなシチュエーションで違う身体を支えることに違和感はなかった。

 自分の腕力も彼女の脆さも考えられず、一人の男としての極限に挑もうとするかのように。

 だらりと垂れ下がったままのミヅキの腕には、もう血が通っていないはずなのに。

 抱きしめたい、抱きしめていたい。

「好きだ、何も言えなくてごめん」

「ううん」

「愛してる、でも本当に何もできないんだ」

「そんなことない」

「大好きだよ、どうしようもなく」

「うん。知ってたよ」

 笑えるくらい陳腐な僕らをどうして誰も助けてはくれないんだろうな?

 あの時からずっと、あの頃からずっと、救いを求める僕たちの前にいるのはお互いだけで。

「僕も、知っていた」

 二人を包む柔らかな白い光は神聖な啓示のように降り注いでいる。

 この世界は残酷なほど美しく、相成れないと知っていても、なお美しく。

 こんなにも切なく繋がりあう二匹の獣に何もしてはくれない。

 ミヅキの小さな頭、僕の弱い心、海を渡る風。

 何もかもを飛び越えた証のように、僕の涙がミヅキの頬を伝った。


 子供の頃、マクドナルドのマスコットが怖かった。それだけじゃない。人の形をした人形が、とにかく恐怖だった。街の中でそういったデフォルメに遭遇すると僕は火がついたように泣き出し、若かった母の腕に抱かれても震え続けた。

 変な子ね、そう言って母は僕をあやし、時と共にその気持ちは薄らいでいった。

「わかる、気がする。そう言うのって突然で、まともな思考なんてなくなっちゃって、怖いん、だよね」

 下りの電車とすれ違って騒音と共に車内がぼんやりと照らされる。

 たまには春斗の話しが聞きたい、ミヅキにそう言われて最初に浮かんだのがその事だった。

「僕は今でも臆病だから、弱いから、今も忘れられない。昔の彼女とは違うところが目についたけれど、辛さはあったけど、ようやくあいつが腕の中にすっぽりと収まったとき、驚くほどに、僕は満ち足りていた。幸福で、不幸せで、愚か者だった。その愚かさがミヅキを傷つけてしまうかもしれないと分かっていても僕は悲しいくらい僕だから、いつも君を困らせて、傷つけて…」

 俯けた僕の頭を彼女が撫でる。

「春斗、それでもいいのよ」

 その手がズボンの上からペニスに一瞬だけ触れた。

「本当のこと言うとね、私もついこの前まであんたと同じようなことを考えてた。優しくて純粋でかっこつけ屋の男の子を傍に置いておきたいだけだったの。美月は綺麗だ、可愛いねって言わせたがって、あんたが愛してると囁くたびに、胸の中で笑ってたわ。でもね、それと同時に、傍にいて安らいで、楽しくて、苦しいくらいの優しさと抱擁に癒されてもいた。だからあんたの前で初めて吐いたとき、気が付いたの。愛してるって。この人の前でなら吐いても許されるかなって。なんかね、そう思っちゃったの。意味なんて判らなくてもこの心がそう言ったの。分かる? そう言ったのよ、もう何年も口を聞かなかったこの子が、春斗を愛しなさいって」

 何年も口も聞かなかったこの子が?

 自閉症気味だったそいつの言葉を君は鵜呑みにしたのか?

 わかってない、ミヅキは僕よりもずっと子供だ。僕だってそう感じるときもある、それが心からの声だと錯覚したことも数えられない程に。

 大人のフリをしていただけの僕にすら、ミヅキは追い抜かされていく。

 あの素晴らしく気高かったミヅキは、ただの女になってしまった。

「心が、心がだって? 僕の心は今でも真緒まおを叫んでるっ!」

 ただの言の葉なのに、視界が閃光のように瞬いて、耳鳴りがした。

 胸の中で呼ぶことさえ禁じていたはずのその名前を、再び呼んでしまった。

 忘れてなどいなかった。忘れられるはずもなかった。どれだけミヅキを愛するフリをしたって、僕という個体は今でも真緒を求めている。

 ミヅキは傷ついた表情を浮かべてうつろな目になった。その瞳に心が軋んで、けれど久々に彼女の名前を口にした高揚がミヅキを気にする間もないほどに胸の中で猛っていた。

 砕けそうになったミヅキがそれでも唇を噛みしめて語りかけてくる。

「私はいつまでも春斗に、過去に傷ついていて欲しくないの。今じゃなくていい、いつかきっと分かるよ。例え隣りに私がいない人生を歩む、その後になったとしても」

 分かったような事を言うな。預言者のような事を言うな。

「何も知らないくせに綺麗事ばかり言うなよな、君は自分の体を開く度胸もないくせに」

 その雰囲気に呑まれて、気が付くと勢いに任せてそう口走っていた。僕たちが何よりも目を逸らし合ってきた事実。残酷な気持ちになるのと同時に既に後悔していた。

 ミヅキは今、これまで見た事がないほどの怒りに体を戦慄かせている。僕のお気に入りだった右の瞼は痛々しいほどに細かな痙攣に震え、ミヅキはそれを急いで手のひらで押さえながら残った灰色の瞳で僕を睨み据える。

「なんでそんな事を言うの。自分が何を言っているか判ってる? 私は、その気になれば冷徹にだってなれるのよ」

「ごめん、忘れてくれ」

「ううん、覚えている、あんたの身勝手を、私は一生覚えている。次に同じこと言ったら殺すからね」

 それならばいっそ、今ここで死にたい。僕もミヅキも繰り返すから。別人のように凍りついた視線を受けながら投げやりにそう思った。

 気が狂いそうだった。どうして、何故、その繊細さで。

 街路灯が鎮魂歌のように残像の線を引いた。

 語りたがるのとも違って、聞きたがるのとも違って、彼女はアーマーリングのような硬質さで口を閉じて床を見つめる。

 やがて、やがて口を開いた。

「どうしても、私じゃダメなの?」

 その声が偽りのない真摯さを秘めて、僕を傷つける。彼女の稀にしか見せない悲しみや、日溜まりのような喜びの顔。その一つ一つの筋肉の動きの滑らかさ。小さな仕草や癖を僕は彼女以上に知っていた。

 けれどそこには、僕の知らないミヅキがいた。

「お互いを受け入れきらないと付き合っていけない今の関係に僕は耐えられない。僕も愛しているよ、君の事を。でもそれは彼女を失った悲しみに対する防御壁やストッパーのようなもので、純粋に好きな訳じゃない。お互いに助けが必要で生贄みたいに相手を求めて、寄りかかって、かかられて。可笑しいよな、そんなの…。だから、もうやめよう。僕たち二人は、愛し合えば合うほど、世界から孤立していく」

 彼女の目にはもう何も映っていなかった。

 泣かないで…

 浮遊感のような虚脱感のような、叫びだしたくなる空気の中でその声が聞こえた。僕もミヅキも泣いていなかった。今の声はどちらが発したのだろう。

 僕たちは長い間、見つめ合っていた。

「それでも、傍にいたいよ」

 そう呟いたミヅキの唇に触れた。

 彼女はそれに瞼を閉ざし、僕は満たされた気になる。

 光の加減で薄銀色に見えるミヅキの髪が目の端で揺れていた。

 その時になって初めて、ミヅキの薫りがいつもと違うことに気がついた。彼女がかつてよく好んで付けていた不機嫌な柑橘類の薫り。引き出しの奥で眠っていた小さなガラス瓶に閉ざされた透明なオーデコロン。彼女の大好きだったNo.4711の、あの優しい薫り。

 僕は最後の薫りを胸に吸い込んだ。


 必ず薄らいでいくであろうその記憶を、忘れまいとして。

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