フィルタの底 1/4


 毎週火曜日と金曜日のこの時間ほど退屈なものはない。

 目の前に並んでいる参考書の列を指でなぞると薄く埃が落ちてくる。その細やかな粒子が電気スタンドの明かりを受けて鈍く舞っているのを眺めていると、右横でだるそうにペンを回していた少年がぼりぼりと頭をかいてテキストを放り出した。

「ねえ、澤井さん。意味わかんねーよこれ」

 たいして考えた訳ではなく、ある程度の時間が過ぎるのを見計らっていたことを真っ白なノートは物語っている。僕が煙草を咥えながら教えてやると、何度か頷いた後に待ってましたとばかりに彼も煙草を咥えて「きゅーけい」と言った。この部屋の椅子に腰かけてから約三十分、お互いのニコチンが底を付く時間帯だった。

 大仰に煙を吐き出した少年は汚れきった灰皿を二人の中央に置いて何か話せと目で催促してくる。

 僕はこの半年ほどで彼の嗜好を理解していたから、ある若手歌手の裏話や僕の彼女とのアブノーマルなプレイについて淡々と語った。猥談については半分くらいでたらめだった。

 僕には女子高生の彼女なんていないのに彼の目は若い熱を帯びていく。アナルセックスにも喜んでいた、と話しを締めくくると今度は彼の番になる。

 これまで聞いた話しによると、彼には五人のモデル並みに綺麗な彼女がいて、毎月ブランド物を貢がせているらしい。今夜は前の設定になかった六人目の人妻との不倫が亭主にばれて返り討ちにしてやったと得意げに話している。髪だけは立派な金色に染めた彼のあばたを数える事が、最近もっぱらの暇つぶしだった。

 それからの一時間半はいつもの投げやりな雑談に終始して、八時五分前に階下に下りると「たまにはご夕食でもいかがですか」と言う母親に、規則があってどうのこうのと答える。薄暗い玄関灯に浮かぶ神経質な幽霊に見送られてやっと僕は解放された。バイクは春の夜風を巻き上げて僕を運んでいく。

 起伏の多い住宅街はすぐに視界から遠ざかった。


 ドアノブを回す前からミヅキが部屋にいることが分かっていた。廊下にまで焦げついた匂いが溢れ出している。

「あ、おはえり」

 テレビから振り返って缶ビールを持っていない方の手をひらひらとさせた後、そのポテトチップスで汚れた手をシャツで拭ってミヅキが悪戯っぽく笑う。その一動作でミヅキが上機嫌である事が僕に伝わる。

「飲み込んでから喋りなよ、今日は珍しく早かったね」

 靴を脱ぎながら疲れた声で聞くと、ミヅキはソファに乗り出してタコのように体をくねらせた。

「ああ、まあたまにはねー。そう毎日毎日仕事ばっかできるかっての。それよりカレー作ってあるよ、カレー」

「もう用意は済んだ?」

「今から。さ、早く盛り付けて」

 僕が何の愛想もない無地の白皿に炭化したカレーを注ぐと、ミヅキは冷蔵庫から二本の缶ビールを取り出す。一年近くの同棲生活のおかげでこの辺りの呼吸はなかなか様になっている。

 日常生活、という観点からすると僕とミヅキの関係は非常に良好だと言える。お互いに独自の価値観を持っていたし、それを尊重しあっていた。ミヅキは若干プライバシーを軽視する傾向があるものの僕はそれについて嫌だと思ったことはないし、むしろそんな明け透けな態度を好ましく思っていた。

 目の前で大口を開けてカレーを食べている女性を、僕は好きだ。


「あーあ、また巨人の圧勝か。開幕から飛ばしすぎだよね」

「僕が野球に興味ないの、知ってるだろ」僕はいつものように答える。

「つまんない男ね」

 既にカレーを食べ終えていたミヅキが呆れた声を出して柔らかな腕を絡ませてくる。僕は体温の高いミヅキの素肌に指を滑らせた。いつも塩素の匂いをさせているぐしゃぐしゃの前髪を撫でつけてやると、彼女は流しに皿を運びに行ってミネラルウォーターのボトルに口をつけてうまそうに喉を鳴らした。薄いブルーのコットンシャツが脈動的に揺れて幾滴かの雫がぱたぱたと落ちる。

「ねえ春斗、あんたいつまで家庭教師続けるつもりなの」

「いつまでって、どういうこと」

「いやさ、なーんか楽しそうじゃないんだよね。若いんだからさ、色々楽しみなっていうおばさんからの忠告」

「近頃はうちのおばさんも説教くさくて困るな」

「あはは。ほんと可愛いくないわ、あんたって」

 そう言いながら彼女はキッチンに腰かけて、トレーナーのパンツから伸びる細い足首を机に乗せて器用にバランスを取っている。

 これで今年三十四歳だなんて、とても見えないな。そう思いながらくるぶしを眺めていると、エッチ、と言ってまた僕の横にうずくまる。

「こんな年寄りの足なんて見てる暇があったらさっさと彼女でも作っちゃいな。あんたくらいの年の男は、おっぱいの大きい女の子といっぱいエッチするのが一番幸せなんだからね」

 妙に拗ねた口調でそう言って、僕の腿を枕にして見上げてくる。

「またか。言ってるだろ、面倒なんだよ、そういうの」僕は目を逸らす。

「まあそういいなさんな。うちの職場の子ちゃんと紹介してあげるから、いい子だよ」

 ミヅキの紹介したがる女の子は大抵胸が大きくてどこにでもいそうな感じのする子ばかりだった。彼女は僕の気持ちなんてお構いなしにそういう女の子ばかりを勧めてきた。僕の好みが子供っぽくて胸がなくてカレーの下手くそな人だと、知っているくせに。

「いいって。そっちこそ早くしないと結婚できなくなるよ」

「大丈夫よ。デキちゃったとか言えば」

 彼女にそんな事ができる訳がなかった。性格上絶対にそんな事はしないし、そもそも物理的に不可能だった。ミヅキはセックスのときアナルしか使わない。かなり前にその理由を聞いたら「初体験の時に騎乗位で脱臼したから」なんてしれっと答えていたけれど僕はそれ以上問い詰めたりはしなかった。

 僕たちにとってそれは当たり前の事だったし、それでいいと思っていた。

「そういう事にしとくよ」

 阪神のルーキーが巨人の六番打者に今夜三本目のホームランを打たれたところでテレビを消すとそのままソファに倒れこんだ。ミヅキの喉は赤く色づいていて、左の鎖骨に唇を当てると僅かな吐息を吐いた。フローリングの床に空の黒が写る。

「カーテン、閉めてなかったね」

「どっちの部屋でする」

「そっちがいい」

 囁くように小さな声が、僕のTシャツの胸を湿らせる。

 彼女が僕の部屋を選ぶのは寂しいときだった。さっきまでの上機嫌は酒の力を借りていただけなんだと、本当は気づいていた。決して真正面からお互いの顔を見る事のない行為の後で、今夜は僕が彼女を抱きしめる番になる。


 毎週土曜日のこの時間ほど大切なものはない。

 目覚ましの音は鳴らないし、僕の腕の中には塩素で傷んだ黒髪がある。近いうちに切ってやらなくちゃな、と考えたが今日は昼から補講があった。まだ健やかな寝息を立てているミヅキは僕が起き上がろうとすると言語不明瞭の悪態をついてまた夢の中へと帰っていった。

 起き抜けに煙草でも吸おうとシャツをかぶって狭いベランダに出てみると、五階のこの場所から微かに見える大学の校舎をすっぽりと覆い隠す桜雨が降っていた。その音のない雨粒が、ルームエアコンの換気扇の上に置かれた小さなサボテンの鉢を濡らしている。花の咲かない種類で、ペパーミントグリーンの柱に白く柔らかなトゲがついているやつと五つのマリモみたいな形をしたやつとが直径十センチ程度の浅いアルミの鉢に実っている。

 それはミヅキがバイト帰りに買ってきたもので、手入れの必要がない事を彼女は喜んでいた。

 彼女は手間のかかる事が何よりも嫌いで、そのくせどうでもいいような事にありったけの情熱を費やして、すぐに飽きるのだ。だからという訳じゃないけれど、掃除や洗濯が苦手ではない僕は、当たり前のように家事を押しつけるミヅキのパンツの柄を全部言える。

 そのサボテンの鉢を眺めながら僕は雨の中に煙を吐き出した。

 空一面ねずみ色に覆われ、煙草の先から細い雲が立つ。

「タバコ、まだやめられないの」

 声に振り返るとミヅキが眠たそうにして立っていた。僕のシャツと同じようにしわくちゃになったスウェットでふらふらと僕に寄りかかってくると控えめな胸の感触を腕に感じた。

「おかげさまで」

 そう言うとミヅキは「かわいくない」と言ってあっさりキッチンに戻る。

「カレー、まだ残ってるけど」

「朝からカレーはキツイな。コーヒーだけでいいよ」

「男の子なんだからしっかり食べなさい」

 口調はしっかりしてきたがそれとは裏腹に机の角にぶち当たりゴミ箱を蹴飛ばしているミヅキを座らせて僕がコーヒーを作る。このアパートのリビングスペースは朝の彼女には狭すぎるみたいだ。

 僕の余生のような生活の中で、ミヅキはマイペースにすべてを委ねてくれる。


 雨のバス停は僕の嫌いなものの一つだ。

 車が通るたびに飛沫を上げるアスファルトの濡れた表面はくすんだ葉を貼り付かせて人々の足音を消し去っていく。足音のない街は、いつもどことなく僕を不安にさせる。風景画の中で永遠に終わらない午後の木漏れ日のように、絶え間なくまとわりつく雨のささやかな加虐心が、僕を奇妙に苛立たせて、不安にさせた。

 ただ雨そのものは嫌いではない。やけに澄んだ水たまりに細やかな波紋が踊っているのを見たり、部屋の窓を伝う温かい雨粒を二人で眺めたりするのは悪くないと思っている。

 視線を地面から戻してみると、車道を挟んだ反対側にミヅキが同じようにして立っていた。おそらく道行く綺麗な色の傘でも捜しているのだろう、きょろきょろと忙しく首を動かしている。

 人に厭世的だと言われる事の多い僕にとってミヅキの子供じみた奔放さはいつだって眩しく映る。下らないと思いながら大学に通うのも、どうしようもなく薄っぺらな事に耐えられるのも、太陽の元を大股で歩いていくような彼女の姿に勇気づけられるからだった。

 やがて僕の紺色のポロシャツを細い体に張りつかせた彼女の前にバスが停まり、最後尾でこっちが恥ずかしくなるくらい手を振るミヅキを乗せて連れ去っていった。

 晴れていたら彼女をジムまで送る十五分の間、ミヅキは僕のバイクの後部座席につかまって楽しげに笑い声をあげただろう。僕は彼女の高い体温を背に感じながら今よりはずいぶんとマシな気分でいられるはずだった。

 前兆というならば、この見下ろしてくる灰白色の空がそれだったかもしれない。


 四月も三週目に入ると、春休みに遊び惚けていた学生たちもだんだんと生活のリズムを取り戻していって、ささやかな気力を持って毎日の繰り返しに順応していく。

 今年も例年のようにあっけなく散っていった正門前の桜並木はすでに青く潤った若葉を宿し、その生命力を見せつけて静かに立ち続けていた。

 僕が窓の外と黒板とを交互に眺めている横で、さっきから数人の男女がしゃべり続けていた。大教室の中とはいえ彼らの声はひどく耳障りで神経に響いた。

 僕はもうずいぶんと前から大半の大学生という人種に見切りをつけていた。持てる力の大半を騒音を作ることに費やし、盛りのついた駄犬のように、男は女の話しを、女は男の話しをしては狂ったように笑い声を上げる。

 そういうものを見るたびに僕は心の中で皮肉な笑いを漏らすのだった。

 全員が同じ顔で、同じ声で、同じ精神構造であらかじめ決められた会話を繰り返すだけの生きもの。作られた檻の中でルーチンワーカーを演じて、何も気づかないまま幸せに生きてほしいとすら思う。そんな彼らに怒りや悲しみを通り越して哀れみすら覚える僕は異常なのだろうか。

 かつての僕も、檻の中で取るに足らない事に囚われていた。

 骨張って適度に筋肉質な体が女の子にとってどういう存在であるかを知ってから、僕はその年頃の青い情欲に浮かされて、白けた愛のセリフを囁いては女の子の火照った肌の温もりをベッドに並べた。彼女たちは僕の柔和な顔に浮かぶ笑顔につられて興味なさげにうなずくと、執拗に時間をかけて愛撫する僕に腰を押しつけ、うるんだ目でもどかしさを主張していた。我ながら馬鹿らしくなる過去。

 より上等なクローンになろうとして、授ける事にだけ至福を感じていたあの頃の僕はなんと幼かっただろう。それとも、そう感じている今の僕でさえ幼稚なルーチンワーカーの一人なのだろうか。

 教室を巡る不可思議な熱気は僕を思考のループに落とし込んで、途切れそうなリズムで揺れる教授の後頭部が比重の重い液体を加速させていく。

 しかしどうしてこうも煩わしいのだろう。肥溜めのような声を、数を増やしたときにしか吐き出せないくせに。彼らが放つ生活音と僕たちのそれとが同一だとはどうしても思えない。

 それほどに彼らは動物的で、なにより人間らしかった。

 軽蔑の目を向けるとそれに気づいた一人がこちらに向かって勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 呆れるくらい下らない、腐臭を放つものたちで外の世界は澱み、沈殿している。


 その日、日が沈んでから帰って来たミヅキは僕がヘッドフォンで耳を塞いでいると黙ってカレーを温めだした。僕がレポートを書いている時にでもかまって欲しがるくせに、こういう日には不満そうな顔も見せずに気遣ってくれる。けれどそれを嬉しいと感じられる心の余裕はなかった。

 耳の奥で鳴るメロディが漏斗のように僕を落とし込む。

 ほとんど無意識に夕食を終え、ミヅキがいつ自室に入ったのかも判らないままジンベースのカクテルを舐めているうちに気がつくと空が明るくなり始めていた。

 時間はいつの間にか形を失って僕を壊し、辛うじてぶら下がっていた膜から流れ出した。

 擬人的で饒舌な腕と押しつぶされそうな激情の奔流に耐え切れず、椅子を蹴倒してリビングから飛び出し、そのままミヅキの部屋に入って布団の上からむしゃぶりつくように覆いかぶさって動物みたく額を擦りつけた。


 叫びたい、声を上げて狂人のように喉を枯らしたい

 破壊衝動や焦燥感に似た感覚の痛み

 気絶させてくれ

 溢れる膨大な感情を遮断して欲しい

 心に、殺されてしまう

「愛してる」

 愛って何だ?

「心から」

 それは伝わらない

 心にも身体にも決して他人とは交われない部分がある

 フィルタ

 それは、僕たちを切り取り続ける

 僕たちはそれを、願い恐れる


 真っ白な空白が僕を包み込んでいく。

 目を覚ましたミヅキは僕の髪を梳き、いつまでもその腕の中で冷え切った体を暖め続けてくれた。僕はミヅキの体温を奪って緩やかに落ち着きを取り戻そうとしていた。

 抱きしめられると、こんなにも人は安らぐものなのだろうか。

 ミヅキの息遣いを僕のものとして感じるとき、いつも僕たちを遮るものなど何もないのだと錯覚しそうになる。

「美月」

 分からなくとも心を込めて、呟いた。届くように。

「もう大丈夫?」

「うん、ありがとう」

 水色のカーテンから射す鈍い光は早朝の曇り空を示していた。固めのベッドは僕が動くたびに軋んだ声を上げる。その音と彼女の心音と二つの呼吸とが小さな部屋の中で穏やかな空気を作りあげていく。

「言われるの嫌がってるのは分かってるけど、あんたの声ってほんとに素敵だよ。相手に染み通るように、優しくて、力強い」

 少年のように幼い彼女の顔の中で色素の薄い透明な瞳が不安げに揺れている。僕が瞼にキスをするとその揺れが少し収まった。

 それから一日中ベッドの上でごろごろとふざけ合っているうちに、僕の衝動はどこかに消え去っていた。けれどそれは身を隠しているだけで、すぐにまた僕たちを脅かしてしまう。

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