今も隣りへいて欲しい君へ

鈴江さち

フィルタの底

フィルタの底 プロローグ


「寒いの」

 影に隠れた横顔から僅かに唇が動くのが見えた。

「さむい?」

 問い返しながらどんな意味だろうかと考える。

「体でも心でもなくて。でも私はその瞬間、それを寒いと感じるの」

 手を握るべきだろうか。ただ単純に、それが寂しいに置き換えられる言葉ならば。

 僕は薄明かりに縁取られた華奢なシルエットを見つめ続ける。小さく顔を上げた彼女はその先に寒さの源があるかのように僕の足元に力ない目を彷徨わせた。

「世界が、私と春斗はるとだけの物ならよかったのにな」

 そう言って、子供のような台詞の後で、息を吐くだけの笑いを口元に浮かべる。大人の笑い方だと思った。

「僕ならきっと耐えられない」

 けれどそれでもいいと、僕は思ってしまうだろう。

「そうなのかな。きっと、そうだね」

 ゲッレールトの丘にあるツィタデッラに降りた風が悲しげな瞳をした彼女の髪を少しだけ揺らした。彼女は納得したように一度うなずくと、もたれていた柵から体を離してゆっくりと僕に背を向けた。

 暗闇からそこだけが浮かび上がるように柔らかな光を纏う、ブダペストの街並み。

 初春の大気を優しく受け止めるように両手を広げた彼女は、やはり寂しそうに見えて。僕は無防備なその後姿から目を逸らすように空を見上げた。

 空の奥に霞がかった十六夜が浮かんでいる。淡い灰色の雲間から写る幻想的なその月の元でさえ街の灯はあまりにも鮮やかで、闇に覆われるはずのこの場所にも光を運ぶ。やけに物悲しくて憂鬱な女神のような明かりが、本当に僕たちを世界から切り取ってはくれないかと思わず願いかけてしまう。

 遠くユーラシアの大地を越え、日本海を渡った数時間前には僕たちの空にも同じ月が映っていたのか。こんな風に空を見ていると世界はまだ始まってすらいないのではないかとさえ思えてくる。

「さっきの訂正する」

「えっ」

「そうなったら、僕はうれしい」

 見上げたままの姿勢で喉に切ない温もりを感じた。

 月も、街も、彼女でさえも、春を受け入れるつもりなんてなかった。

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