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「世の中って、どうしてこんなに普通なんだろう」

 近所の駅前にある焼き鳥屋のカウンターで、ノブはジョッキに半分くらい残ったビールを一気に飲み干した。

 そんなノブに対して、ボクが普通とはいかに素晴らしいことかを滔々と語ってやると、ノブは顔をしかめた。

「なんかフミさ、お前、変わったよな。つまらなくなったって言うか、大人んなっちまったていうかさ」

 余計なお世話だった。

 つまらないのは昔からだよ。

 ノブは遠い目をして、くわえたままだったタバコに火をつけてから、二、三度煙を吐き出した。

「あ、タバコ、吸って平気?」

 もう遅いよ。

「煙、嫌だったら消すけど」

 ボクは喫煙者じゃないし、そもそもタバコの煙が好きなやつもそんなにいないと思うんだけどどうだろう、と思ったけど、消すつもりがまったくなさそうなノブのその気遣いに辟易して、ボクは首を振って言う。

「ノブも変わったよ」

「そうか? どこが?」

「タバコ、いつから吸ってんの?」

「……ああ、そういや、絶対吸うなって、吸ったら別れてやるとか、そんな脅迫じみたことを誰かにいわれてたっけなあ」

 ボクには、その“誰か”が誰なのか、嫌というほどよくわかった。だけど、だからといってなにか言うことがあるのかといえば、そんなこともないので、ボクは「そうだっけ?」ととぼけた。

 そんなボクを横目で見て、ノブは苦笑いをした。

「フミは今なにやってんの?」

 真正面を向いたまま、ノブがつぶやく。まるで話題を探るように。

 いや……話があったからボクを呼んだんじゃないのかよ。

「仕事してるよ。銀行員」

「あはは、フミが銀行員か」

 ノブは笑う。

 ボクが銀行員なのがそんなに面白いか?

 相変わらず失礼極まりないやつだった。

「ノブは? 製作会社だっけ?」

「お、よく知ってるな。そうそう、CX系の下請け」

「夢、叶ってよかったじゃん」

「思ってもないことをよくもまあ平然と言うよな。まあ、フミは昔からそんな感じだったか」

 変なところ変わってないなあ、とノブは独りごちる。

「もう三年目だってのにまだコードさばきばっかりで、カメラにすら触らせてもらえてないのが現実」

 そう言うと、自嘲するようにノブは笑った。

 それから、

「寺田あたりから聞いたのか」

 トーンを落としたノブの声音には、どこか哀愁が漂う。

「うん。この前、同窓会のときに」

「マジかよ!? 同窓会!? って、高校のだよな? 俺、呼ばれてないんだけど?」

「だって、ノブ、すごく忙しそうだって言ってたから」

「寺田が?」

「うん」

「確かに忙しいのに変わりはないけどさ。そういうのって自分で言いたくね?」

「そうかな?」

「だーれも、連絡してこなかったぞ。なんかすげー寂しいぜ、それ」

 そういうとノブは、店員を呼んで泡盛のロックを注文した。その馴れた仕草に、自分たちがもはや知り合った頃の高校生ではないのだということを、今更ながらに、痛烈に実感してしまってから、メニューを持つノブの手に、指輪が光っているのを見つけた。

 銀の、細い指輪。

「似合わないなあ、それ」

「ん? ああ、これか。嫌だって言ったんだけどさ。彼女がどうしてもって言うから——」

「彼女、か。嫁の間違いじゃなくて?」

 ボクは目を細めて、ジトっとした視線をノブに向けた。

「ああ、もうすぐ嫁に——って、なんだよ、知ってたのか? そうそう、結婚するんだよ、俺」

 ノブが結婚、か。

 なんとも言えない感傷を抱いたボクは、詮無いことを考える。

 きっと嫁さんは長髪の美形なのだろう、とか、昔から髪の長い女が好きだったからなあ、とか。

「それも、寺田から聞いたのか」

「うん。もちろん。寺田くんは、訊けばなんでも教えてくれるし」

「そっかー。ま、あいつに話しとくとたいていのことは広まってるからなー。余計なことは言えないけど、意外と便利なんだよ——とかって、俺が言ってたとかあいつには言うなよ? あれで、意外と傷つきやすいところあるし」

「それは知ってるよ。しょっちゅう三人で話してたじゃないか……。それに——」

 ボクはそこでひとつ息を吐いた。

 言葉を区切るように。

「ん、それに? それに、なんだよ」

「ノブだって、寺田くんと同じだよ」

「は? 同じってなにが? 俺、口堅いよ?」

「そういうことじゃない」

「はあ……。じゃあ、どういうことだよ」

「結婚するって、連絡してこなかったじゃないか」

「え——? あ、いや、だからそれは寺田に——」

「相変わらずバカだね」

「は? バカって、俺が? なんで!?」

 そんな風に叫ぶノブを無視して、ボクは席を立って店を出たのだった。



 中途半端に酒を飲んで火照り始めた体には、五月の夜風は思ったより冷たかった。

 Tシャツにカーディガンしか羽織ってこなかったので、ちょっと寒い。

 しかし、まっすぐ家に帰る気にもなれなかったから、コンビニで缶ビールを買って、近所の公園のブランコに腰掛けた。

 ボクは、なにをしてるんだろうか。

 別に、ノブはなにも悪くないのに。

 普通すぎる世界なんて、ずっと昔に受け入れたはずだったのに。

 ブランコから見上げた月は、三日月でも、満月でもなくて。

 実にしまりのない、小太りな形をしていた。

 こういう日こそ、満月が見たいというのに——


 はたしてボクはなにを期待していたのだろう。

 なにかが変わることを期待していたのだろう。


 相変わらずバカなのは、ボクのほうだと思う。

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