シーン2 そして後輩もいなくなった

 後輩は軽々と足を運ばせて研究室を出ると、私を振り返りつつ、階段手前の教室で立ち止まった。たしかここは、大学院生の控室ではなかったか。

 開け放たれた引き戸から覗き込むと、二人の人間がうずくまっているのが見えた。

 一人は男性。左手に小さなナイフのようなものを持って、もう一人の方を揺さぶっている。ナイフは柄まで赤い液体で染まっている。状況からして、血。

 もう一人は女性。腹部を抱えるようにして壁に備え付けられた戸棚に背を持たせかけている。その腹部はナイフと同じく血に塗れ、抑えた右腕の肘からとめどなく滴っている。

「おい、大丈夫か」

 と、明らかに動揺しながら話すのは男性。女性は気を失っているのか目を閉じて反応しない。

「後輩」

 私は自分の携帯電話を後輩に放る。

「あ、救急車ですね。それと、警察?とりあえずどっちも呼んでおきます」

 それから私は、意識の無い女性と慌てる男性に近づく。

「ちょっとどいてください」

 と、半ば男性を押しぬけるようにして女性の前にかがみ、カーディガンを脱いで女性の腹部に巻きつける。止血に、と思ったが、気休め程度だった。依然意識を失っている女性の腕を取ると、まだ脈は打っており、息もしていた。女性を寝かせようかとも考えたが、下手に動かして状態を悪化させるのが怖かった。身近でこんな大量の血を見るのは初めてだ。

「警察と救急、どっちも呼びました」

 後輩はいそいそと私の隣にしゃがみこむ。まるで犬のように仕事をくれと上目遣いをする後輩に、私は次の命令をする。

「事務室に行け」

「へ?あ、はい、保健医ですね、行ってきます!」

 と、瞬く間に後輩は部屋を飛び出していった。野次馬が集まらないようにか、後ろ手に引き戸を閉めていく。


 他にできることがないかと考えたが、とても素人の私には手の出しようがなかった。

 そこで、ともかくこれが傷害事件である場合に備えて、状況の確認をすることにした。

「あなたは」

 と、尻餅をついて震えている男性に話しかける。

「お、俺じゃない!俺じゃない!」

 ――話しかけたつもりだったが、怯えて答えが返ってこない。というか私の聞き方が悪かったのだろうか、と今度は丁寧に質問する。

「あなたは、誰ですか?」

「俺じゃない!」

「…院生?」

 コクコクと激しく頭を縦に振る。

「じゃあこの人は」

「か、彼女は俺の後輩で、あれだ、普通の学部生だ。俺じゃないぞ!ちょっとトイレに行って帰ってきたら、こ、こいつが刺されてて…」

 男性の震える返答を聞きながら、私は部屋の中を見回してみる。

 部屋の真中には長机を突き合わせたテーブルがあり、囲うように椅子が並べられている。入口から入って右、つまり西側はすぐに壁で、天井まで伸びる戸棚が向こうの壁まで備えつけられている。反対に東の壁には、三台のPCとデスクが、腰の高さほどのカラーボックスで仕切られて並んでいる。南は窓、ブラインドは上げられて雨が降っているのが見え、その手前の一つだけ孤立したオフィス机に、窓を伝う雫の影を落としている。

 女性は西側の戸棚に背を持たせかけて座っている。出血はほとんど勢いを失っていた。さっきカーディガンを巻いたときに見た限りでは、どうやら左わき腹を刺されたようであった。

「ここは院生の控室であっていますか」

 と、私が聞くと、男性はまた首を縦に振った。

「トイレに行ったのはいつですか」

「つ、ついさっきだ!帰ってきたら刺されてたんだ」

「行く前は彼女と二人ですか」

「あ、ああ」

「学部生が、院生の控室に?」

 まるで事情聴取のようだ、と我ながら思っていると、男性の方も疑いをかけられていると思っているかのように、唾を散らしながら叫ぶように答える。

「居ちゃ悪いのかよ!こ、こいつは知り合いだ!それだけだ!」

 知り合いというだけで学部生が院生と二人きりとは珍しいのではないか、とも考えたが、そういうところもあるのかもしれない。私はそのような事情には詳しくなかった。

 そこまで聞いたところで、廊下からバタバタと複数の足音が聞こえてきた。私が戸を開けると、ぶつかるような勢いで後輩、それから続いて事務室の大人らしき人が数人入ってきた。

 あとは私たちにできることはなかった。大人たちの後ろについて状況を見守っていると、救急車とパトカーのサイレンが聞こえ、救急隊員によって直ちに女性は運び出されていった。後に残った警察は、私と後輩、それから男性を部屋から追い出し、一人ひとりに簡易の事情聴取を行った。



 数日間警察に呼び出されて事情を聞き出されたが、しばらくして男性が容疑者として拘束されると、私の出る幕はなくなった。

 後輩は第一発見者として、あるいは第二の容疑者として疑われているのか、いまだ大学には姿を見せなかった。

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