シーン1 私を事件現場に連れてって

 大学三年となると、文系学部の私は時間を持て余し気味の日々を過ごしていた。梅雨に入ると、雨が好きな私は、用は特にないがゼミに使う研究室に赴いて、雨音を聴きながら小説のページを繰るというささやかな贅沢を楽しんでいた、はずだった。

「先輩先輩」

 こいつさえいなければ。テーブルを挟んで向かいに座った後輩は、大きな目をさらに大きくさせて身を乗り出している。お洒落なのか知らないが、大きなサイズのサマーニットを着て、袖をひらひらと振っている。

「先輩はどう思います?」

 何の話だっけ。聞いていなかった。

 視線を送ると、後輩は律儀に答える。

「あ、聞いてませんでしたね。いいでしょう、もう一回話します。よくこう言うじゃないですか。人は読んだ本の数だけ、自分の土台が高くなっていって、世間や学問を広く遠く見渡せるようになるって。でも僕の場合は違う気がするんです。僕が読んだ本は、僕を取り囲む壁になっていくんじゃないかって。価値観とか知見が凝り固まっちゃって、逆に何も見えなくなってしまうような気がしてくるんです」

 で?と視線。

「で、先輩はどう思います。」

 知らん。と視線。後輩は言う。

「まあ最近本を読む気力が出ないだけなんですけど。言い訳です」

 私は小説に目を落とした。

 よくこうつらつらと話せるものだ。つまり私とは正反対だ。私のストーカーでさえなければ一生関わることすらなかっただろう。そもそもなぜこの研究室にこいつがいるのだろう。

 邪魔くさいぞ、と視線を送ると、後輩は席を立った。

 なんと!まさか!こいつが言うことを聞くなんて!

「すいません僕ちょっとお手洗いに」

 そのまま帰ってくるな。



 後輩が研究室を出て、私は椅子からずり落ちながら大きなため息を吐いた。

 この静かな時間を大切にしよう、と私は小説を顔に近づける。小説の中では、下宿の六畳間で二人の青年が暗号文を前にしている。青年の一人は一晩かけて考え抜いた成果を、もう一人の青年に披露し、暗号を見事解き終える。暗号を解いた青年は記されていた場所に金を受け取りに走る。だがなんてことはない。すべてを仕組んだのはもう一人の青年であり、彼にとっては単なるいたずらのつもりだったのだ。

  ふーっと細く息を吐く。推理小説は苦手だ。

 私は小説を閉じて、背後の開けた窓を眺め見た。雨はしとしと心地よく降り続いている。

 この静寂がいつまで続くか。そろそろ後輩が戻るころだろう。

 そうした私の悲観は、想定を超えて現実となった。



 キイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ。



 耳をつんざき、背筋を震わせるような甲高い音が大きく鳴り響いた。遠くには感じない。まるで黒板を爪で引っ掻いたような、鉄同士が強く擦りあうような音。音?

 いや、声だ。

 私は学生が奇声を上げて騒いでいるのだろうと思い、再び小説に目を落としたが、それから数ページも読まないうちに、バタバタバタという大きな足音が響きだした。ドアを開け放って飛び入ってきたのは後輩だった。

「先輩先輩、事件です!」

 息を切らしながら、ワイドショーのレポーターのような台詞を叫ぶ後輩に私は視線で答える。

「とりあえず来てください!」

 私の腕を取ろうとする後輩の手を振り払って私は立った。

 どうやら厄介事を拾ってきたらしい。あるいは厄介事に首を突っ込むらしい。

 ともかく落ち着かないので、私はついていくことにした。

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