第22話

 上下に揺られながら、背後に流れゆく景色を眺める。

 水江みなえが用意した馬は大きさだけなら白雲にも勝り、桃太郎はその上に相乗りをして街道を運んでもらった。


 桃太郎は父から戦うための術を多く教えられた。しかし、馬術だけは持たなかった。

 理由はごく単純、馬を買う銭もなく、山から捕まえて来ようにも飼える暮らしでもなかったからだ。

 伝説の兵法者と呼ばれる父だが暮らしは質素、どこかの城に召し抱えられることもなく生きてきたが故だった。

 今より幼い頃、ふもとの町人たちを見たあとに我が家の貧しさを父に訊ねたことがあった。

 普段は厳格な父が後にも先にもない優しい微笑みで言った。

 “此処には水が在り、土が在り、天の恵みを分け合う家族がいる。この上もない”……と。

 それは成長する程に桃太郎の胸の礎になってゆく。

 だからその本当に大切なもの守るためならきっと何でもできるし、またそれ以上を得ようとして澱みたくもなかった。


 いつしか嗅ぎ慣れた風の薫りに包まれていた。

 見慣れた山々の輪郭、聴き慣れた川の水音。

 水江の馬術の腕前なのか、この馬が優れていたのか、あるいは両方か……無理に急がせたわけでもなかったが往路の半分ほどの時で桃太郎は久方ぶりの里を、久方ぶりの我が家を目にすることが出来た。

 土産話も色々あるが、無事にお役目をつとめた誇らしさ以上に早く父と母とかぐや姫に会いたいという想いの方が勝っているのを感じる。それは望郷の念……だけではなく、むしろ日ごと膨らんできた胸騒ぎを一刻も早く消したかったからだ。しかし……。

 還ってきた桃太郎を迎えたのは、あろうことか見る影もなく荒らされた我が家だった。


「―――お父上! 母上! ……かぐや!」

 開ける必要もなく内へと倒れている引き戸は、その中心に蹴破られたような痕がある。

 丈夫な木戸を一打ちで吹き飛ばした何者かは、その勢いのまま中へと襲いかかったのだろう。

 馬上から飛び降りた桃太郎は顔面蒼白となって飛び込んでいった。

 

 まさか道中桃太郎が口にしていた“胸騒ぎ”がこのような形で現れるとは……しばし呆然としていた水江も我に返って刀に手をかけながら追って入る。

「っ……なんという……」

 床板がところどころ破れている。どれほどの巨漢が踏み抜いたというのか。

 床柱に深い傷痕。大刀の容赦ない一振りを思わせ背筋が冷える。

 中央の囲炉裏いろりに下げてあったのだろう鍋が奥の壁際に転がり、中身が降りかかったのか飾られた絵巻物の水墨画は台無しになっていた。火にくべられて中も満ちている重い鍋をどうやってあそこまで飛ばしたのか……賊は人に在らざるのかもしれないと、水江はおののいた。そのような者が実在することを宮仕えの全ての人間はもうその眼に焼きつけている。


「父上! 母上……! ご無事ですか!?」


 桃太郎の叫びに呼ばれてたたらを踏みながら駆けつける。

 つい先日、御所にて勇猛果敢に黄泉醜女を成敗してみせた若武者は、今や年相応の少年へと戻りふたつの老体にしがみついていた。

「桃太郎殿、それがしが見ます!」

 父を激しく揺する桃太郎の前へ水江は割って入る。

「……息がある! 桃太郎殿、お二人ともまだ生きておられますぞ!」

 帰途の世話にと金時がつけてくれた水江は医の心得も持つ。このことは後に桃太郎も大いに感謝することとなった。

 彼がここまで同行したことは何よりの救いだったのだ。


 半刻もした頃、桃太郎はふたたび敷居を跨いで帰ってきた。

 戦場でも見せぬほど息急ききって現れた彼はこめかみから首筋から滝のような汗を伝わせ、袖や裾から見える四肢は葉擦れの傷を大小いくつも負っている。

 肩を大きく起伏させながらも、彼は両手いっぱいに抱えた青草を見せつけて張り詰めた笑みを浮かべた。


「感服仕りますぞ桃太郎殿!」

 両人の容態を見ていた水江は顔を上気させた。

 そして早速その葉をくすりおろしに放り込み、ごりごりとり潰し始めたのだ。

 彼の診立てでは二人とも強い毒に侵されていた。

 しかし身に斬られた痕はなく、刃に仕込まれたものを受けたのではないようだ。となれば口か鼻から毒素を盛られたと考えるのが一番だった。

 すなわち桃太郎は、水江の導き出した解毒草を取るために山へ走って来たのだった。



 朱い日輪が歪みながら山脈の向こうへ沈み、ひととき紫色に染まった景色は間もなく闇へと溶けていく。

 開け放たれた戸から見えるそれに様々な負の想いを膨らませながら、桃太郎は歯を食いしばって両親の傍らに座り続けている。


 眼前の若者の強さに水江は何度目かの敬服の念を胸中に覚える。

「桃太郎殿、どうやらお父上も峠を越えられたようです」

 咄嗟に妻を庇ったのだろう彼は特に重い病状を見せていたが、さすがはかつての高名な兵法者、二人の懸命な手当もあって一命を取り留めた。


「……水江殿、あなたが居てくれたことを何に感謝をすればいいのか…… 御仏の加護足らずして起こったこの事態、やはりあなたの誠実さにこそ大恩を感じずにはいられません」

 穏やかな寝息を立てる両親を見て、桃太郎は安堵の光を揺らしながら水江に深く頭を下げた。

 彼が面を沈めている間、床板にぽたりぽたりと感謝の音が響いたのだった。


 それから半時ほど、桃太郎は松明を手に家の周辺を回っていた。

 まだ近くに狼藉者が潜んでいるかもしれないという不安、そしてそれ以上に彼の眼は土に残る痕跡を探していた。しかしとうに夜の帳が下りた闇は深く、その手にかざす灯だけでは到底、相手の足取りを追うことなどできない。

 父か母が目覚めれば何か分かるかもしれないが、山は越えたと見えてもまだ安心はできない二人を揺り起こすわけにもいかなかった。

 彼の胸はもどかしい苦しみに千にも万にも千切れてしまいそうだった。

 何故ならば、この家にかぐや姫の姿は残されていなかったのだ。

 その安否も、生死すらも何一つ分からない……。


 どれほどの時が過ぎただろうか? 星の海を見上げながらただただ祈り続けていた桃太郎の耳に、水江の躍るような声が飛び込んできた。

「桃太郎殿! 母君がお目覚めになられました!」

 縁側をひと飛びで越えて駆けつけた桃太郎は、母の隣にうずくまって手を握った。

「母上……! ああ……ご無事で何よりです!」


「……桃太郎、かい? おお桃太郎……よくぞ無事で……」

 母は傷んだ我が身のことなどいささかも問わず、目覚めるなり彼の頬に手をそえてその無事を喜んだ。しかしすぐに表情を曇らせ、苦痛に震えながら掠れた声を絞り出した。

「げに恐ろしいあの鬼共が、かぐや姫を連れ去ってしまいました…… 私達では守りきることができませんでした。許してください……」


「鬼ですと!?」

 桃太郎はさっと蒼褪める。脳裡に浮かぶは当然、人為らざるあの姿……だが動揺をぐっと呑み込む。

「ああ母上……許すなどとんでもない。母上も父上もこんな目に遭われたというのに…… 俺の帰りがもう少し早ければ……!」

 自分と水江が居ればその鬼共を討ち払うことができたのかは分からない。だが自分の居ぬ間に起きたということが彼にはとても悔しかった。


「しかし、鬼達はなぜかぐや姫殿を攫われたのでしょう……?」

 ただならぬ事態に水江も分をわきまえきれずに身をのりだした。


「水江殿です母上、金時殿が俺の帰途を気遣い助けにと……水江殿がおらねば父上も母上も一命を取り留めることは叶わなかったはずです」

「おお……水江様、なんと礼を申せば良いのでしょう……」

 震える細腕を伸ばそうとする彼女に、水江は目を伏せて頭を振った。

「いえ、桃太郎殿には都の全ての者が返しきれぬ恩を受けたのです。どうかお気になさらず、むしろそれがしこそ名乗り遅れた非礼をお詫びします。それで、娘御は……」

「はい…… 鬼とともに来た大蜘蛛の化け物がまるで人のように口を利き、こう言ったのです。黄泉醜女よもつしこめの祟りによりこの娘を鬼の王、酒顛しゅてん童子どうじの妻に娶る……と。哀れなかぐや姫はその為に連れ去られたのです」

 それを聞いた桃太郎はひどく心を乱し、湧き上がる怒りに身を震わせた。今にも、この数間先すら定かならぬ闇へと無鉄砲に飛び出してしまいそうだ。

 その姿を見た母は桃太郎の強張った握り拳に優しく手のひらを置いた。

「……桃太郎や、そなたはかぐや姫を心底から愛しているのですね……」

 我に返った桃太郎の双眸が見開かれる。

「それならば、今こそそなたに伝えなくてはならない秘密があります」

「秘密……ですと? それはいったい如何様いかような秘密ですか!?」

 燃え盛る瞳を鎮めながら彼は母の顔を見つめた。

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