第21話

 風は弱く空に蓋をした雨雲の動きは遅い。

 その日、正午を回り夕刻に近づいても銀色の幕は上がらずにいた。

 深夜から冷まされ続けた空気は夏と思えず涼しい。天井や、庭から届く水の楽奏を聴きながら、やえは目の前の寝顔をもうずっと見つめていた。


 昨夜、慌ただしき訪問の喧騒に身を竦ませた。

 金時と桃太郎が無事に生還を果たしたのか、それとも使命は砕け裁きの手が現れたのか、しかしやえの覚悟はできていた。後者だった場合に命を乞うことは無い。すでに一度あの山中で失っていたはずの人生など、また孤独に生きるくらいなら惜しくはないから。

 だが警戒の時はさほど続かなかった。

 “やえ殿、居りますか!?”そう張り上げる桃太郎の声が聴こえてきてまずは安堵、次に別の戸惑いが生まれる。

 主の金時ではなく桃太郎が呼びかけてきたこと。

 そして廊下に響く慌ただしい音の割にはすぐに座敷まで現れないこと。

 果たして、戻ったのは桃太郎と金時の両人揃ってであったが、他に数名の男が気遣わしげに付き添い手を貸している。その助けを受けているのは桃太郎の肩を借りて苦悶の表情を浮かべる金時であった。


 手当てが終わり、寝息を立て始めてからは全く目覚める様子がない。

 負った傷は軽いものではなかったが、致命的なものでもなかった。帝を御救いした際に受けたとされる物の怪の刃は、肩から背にかけての骨で止まり身を貫かれずに済んでいた。一つには飛び込み横切りながら受けたこと、そしてもう一つ金時を救ったのは……やえがちらりと見やる先には中身ごと破壊された矢筒が置かれていた。

 やえは正座のまま前のめりになる。

 金時の顔はすぐそこにある。

 普段は安心させてくれるような優しい表情。

 真剣な場面では引き締まった精悍な表情。

 だが今は小さな汗の玉を幾つも滲ませながら安らいだ寝顔を浮かべている。僅かのあいだそれを見つめていたやえは彼の額から手拭いを取り上げ、そして代わりにそっと手のひらを当てた。

 自ら男の肌に触れる……だがこの肌に対してはまったく嫌悪感を覚えることはなかった。

 手当て直後は燃えるように熱かった皮膚からも、ようやくその熱が引いてきたようだ。

 彼女はほっと一息こぼす。

 早く快復していつもの優しい眼差しで起き上がってほしい。

 もうしばらくこのまま、こうして見守らせてほしい。

 相反する想いが胸の中でない交ぜになりながら、やえは再び濡らした手拭いをゆっくりと額へと戻した。


 金時の看病をやえに任せながら、桃太郎は廊下に腰を下ろし都に降り注ぐ雨を眺めていた。

 昨夜の戦いをもう何度反芻したか……本物の物の怪というものに初めて出遭い、その人為らざる恐ろしさを肝に刻み込まれた。

 だが結果として帝も金時も命を落とさずに済み、そして金時が背負ってきた使命も見事に果たされた。

 一件落着……そう、この英雄譚に幕が下りても良いはずだ。だがどうしても解けない心の引っかかりがある。

 あの、黄泉醜女よもつしこめ渾身の妖術。

 青白き火の玉を咄嗟にスサノオの剣で断ち割った直後、炎は我が身から分かれるも囲いこんで火柱と化し、それに気付いた瞬間その内で灼熱に焼き尽くされる己の運命を覚悟した。

 だが、思い込みで一度は熱いと感じた空気が、一呼吸経てそこまで迫ってこない事を知った。そしてその因が、母上より賜ったこの身を包む戦装束である事にも間もなく気づく。

 理解など出来ておらず言葉に変えて表現することも出来ない。

 ただ、“護られている”……着物のさらに上辺に何かが膜のように張られて、剥き出しの拳や首、顔から髪まで包んでくれたように感じた。それが何かは知らぬが、とにかく灼熱すらこの肌へ届くことを許さずに和らげてくれたようだった。

「桃花の守護……」

 桃太郎は袖にもあしらわれている一輪の模様に指先で触れながらつぶやき、まるで爪先に生命の息吹を感じたような、そんな錯覚に小さく頭を振った。


 それからゆるりと、目の前に横たえている伝家の宝刀に眼差しを落とす。

 黄泉醜女は幾度か驚きを浮かべながらこの剣を嫌った。自分の神通力が破れるのはこれのせいだと恨めしげに言った。

 あの時はその言葉を自然に受け入れていた。名だたる刀工に魂を籠めて鍛え上げられ、丈夫ますらおの手の中で数々の戦場をくぐり抜け、幾年月の果てにやがて刀剣に神秘が宿る。そんな“いわくつき”の噂なら古今数多あると云う。この剣も“あの父上”から受け継ぎし珠玉の一刀……魔を打ち祓う力くらい宿っていてもそれほど信じ難いこととは思わなかった。

 が……本当にそれだけのことだったのだろうか?

 スサノオの剣だけの話なら恐らくここまで胸に引っかからなかった。

 だが、母から贈られたこの着物には明らかに不可思議な守護が籠められている。

 となると、父がこの剣をこの御役目に当てて手渡してきたことにも、何か確信と意図があったのではないだろうか?

 いったいこの剣は何なのか……。

 そして……己が父と母の全てを知るわけではないことにも改めて至る。

 金時に伝説の兵法者と評された父のその“伝説”も、旅路の最中で彼から聞かされた初耳の功績が過去の全てとは限らない。

 母もまたどのような巫女だったのか、それは父のこと以上に知らない。あるいはかぐや姫なら何か聞かされたことがあるのだろうか?

「かぐや……」

 彼女の名を口にすればまたも波のように寄せ返してくる不安がある。

 黄泉醜女の最期の言葉……


 “貴様と、貴様の守る全てを呪おうぞ―――”


 天を見上げれば深さも知れぬ暗雲が満ちている。我が胸の内にもまたその存在を感じていた。



 消え残る星屑が酉の方角へと吸い込まれていく。

 曙はまだその姿を見せぬまま卯方の空を白々と染め始めていた。

 一昼夜降り続けた雨もあがり二日目の明け方、水溜りの静かな水面に瑞々しく景色が映える。屋敷の門外で桃太郎は移ろいゆく天を見上げて佇んでいた。


「……しかし桃太郎殿、まことに何も受け取らずに帰られるのか?」

 彼の隣に草鞋が踏み出す。

「帝は以前のように戻られた。桃太郎殿にはいたく感謝しておられると聞く。望めば其方の思いのままに褒美も……」

 隣で気遣いを述べたのは金時だった。まだ病み上がりながらもう床から出て歩ける。


 桃太郎は天へ向けていたまなこを微笑みとともに彼へ下ろした。

「―――心地好い朝ですな、金時殿」


 明鏡止水。

 まだ微かに残る澄んだ幼さと、凛とした大人の意志を見事に融け合わせたその笑顔。

 金時は思いがけず言葉を失い、それから自然と愉快な気持ちが込み上げ、ついには破顔一笑した。

「……いやいや、これは何とも参りもうした! もう野暮なことは申すまい…… その代わりと言っては何だが、もし桃太郎殿が困られた時はなんなりと頼っていただきたい。この金時、必ずや力を尽くさせて頂こうぞ」

「かたじけのうございます。そのお気持ちこそが如何なる褒美にも勝ります」

 共にあった時は十日にも満たないが、眼差しを交わす互いの間には紛れもない絆が感じられた。


「―――金時様、桃太郎殿、出立の準備が整いました」

 一頭の大きな馬を牽いて一人の若侍が現れる。

 早々に都を発つ決意をした桃太郎に、金時は郷里までの旅を世話する従者をつけた。

 彼は名を“水江みなえ”と言う。金時の信頼篤く、この度の計にも内部にて良く手はずを整えてくれた能有る者とのこと。医もかじっており、あの晩屋敷まで付き添ってきた一人で、彼が金時の手当ても行ったのだ。


「水江、道中くれぐれも頼むぞ」

 言葉に比して憂いの無い面持ちで金時は言う。


「お力添えいたみ入ります。では……」

 水江に礼を述べた桃太郎は再び金時に向き直る。

 そしてその少し後ろに立つ美しき女人にも目を向けた。

「……桃太郎様」

「やえ殿、お達者で」

 多くは要さない。

 やえの顔を見ればもう大丈夫だと分かる。彼女には金時が居る、そして金時には彼女が。

 桃太郎は思い出す。

 金時の熱が引き、その目蓋が開くまでずっと看続けていた姿。

 目を覚ました時に零した一筋の涙。

 それを見て何も言わずに抱き寄せた金時……。

 きっとあの瞬間に、彼らは天涯孤独ではなくなったのだ。

 ふと気配を感じて視線を落とすと、彼女が大事そうに抱えるものと眼があって桃太郎は思わず頬を緩めた。

「そうか、お前も居たな」

 仔犬の黒く湿った鼻先にそっと指を差しだす。

「茶太郎……でしたね」

 やえも己の胸元を見下ろして、少し照れたようにうなずく。

「桃太郎様がお救いになった命です……ちゃたろも、やえも……」

 “どうもありがとうございました”……そう言って深々と頭を下げるやえと、抱かれたまま一つ可愛らしく鳴く茶太郎。きっと里親は探すまい、を見ながらそんな気がした。


 彼女達を微笑みながら見守っていた金時がゆっくりと桃太郎に眼差しを戻す。

 すると重ねるように桃太郎も金時に眼を向けた。

 このような呼吸、寸分違わず互いの背に力を渡し合ったあの瞬間を思い出す。

 相手の頭の中に確信を抱いて、ふたりは思わず口角を軽く上げた。


「それでは、達者でな」


「金時殿も、お達者で」


 礼は繰り返さない。名残惜しさも口にしない。交わしたその一言に全て込められているから。

 またいつか、会える日もあるだろう。


 彼方で帰りを待つ郷里目指して、桃太郎と水江は都を後にした。

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