第18話

 いぬの刻、月も星も瞬かず辺りは深い闇に落ちている。

 終わりがあるのかと疑いたくなるほど長い白壁の外を、静かに、だが悠然と歩を進める人影があった。


「―――こちらです桃太郎殿」

 宮城きゅうじょうの外壁沿いの一角、裏手の門で呼び止められた桃太郎は二人の男に導かれて潜り込む。

「一目で判りましたぞ、金時様に聞いていた通りのお姿ですな」

 当然ながら金時は単独で鬼女成敗を企てたわけではない。これまでに何人もの刺客を送り込んでおり、仮にも御所のある宮城にてそのようなことが出来たのは内部に多くの同志がいるからであった。

 そして鬼女黄泉醜女よもつしこめはとうに警戒を高めているはずだった。だが公に騒ぎ立てることをしない。これは刺客が戻らないことと併せると一つの推測へと辿りつかせる。

 今までに送り込まれた者達はかの女が単独でいるところを狙ったはずだがことごとく還らぬ者となった。その遺体が一つも出てこないことも考えると黄泉醜女は文字通り鬼女か化物の類である恐れがあり、己が刺客を如何にして退けたかの説明が出来ないために帝に報せることもお縋りすることもまた出来ない。

 つまり今夜も桃太郎は金時と同志達の手で鬼女の元までは辿りつけるだろうが、同時に鬼女はそれがならば恐れていないと思われた。


 広大な宮中の暗がりを密やかに導かれていく。

 齢十四……恐れが無いわけではなく、双肩にのしかかる重みも感じている。

 それでも決して踵は返さない。

 金時との絆。此処までの道のりに対する自負。父と母に与えられた己という力への信頼。無論それらはこの脚を衝き動かしてくれる。だが若者が“そこ”へと突き進める理由は、それだけではなかった。

「っ……! 金時殿!」

 建物の陰から現れた人影に潜めた声で呼びかける。

「桃太郎殿」

 宮中でふたたび集うことが叶ったふたり。若者はいったん足を止め、大きく息を吐いて彼と向かい合った。金時に付き従う兵たちも少数ながらいるようだ。


「……よくぞ、“此処”まで辿り着いて下さった」

 これまでの全てを込めて金時は言う。


「金時殿こそ、よくぞ此処まで道を切り拓いてくれました」

 これまでの全てに敬意を込めて桃太郎は返す。


 ふたりは互いに笑みを浮かべる。友情と、闘志をのせて。

 合流を果たし、金時の背に続いて桃太郎は身を低く静かに走る。

 この想像以上に広い宮中を建物の間をぬって進みながら、まったく誰にも見咎められないという事実に彼は目の前の背中を見つめる。


 ―――“宮中には二つの人間しか存在しない。何より帝を想う者と、何より己が身を想う者だ。だが今の帝が与える相手は黄泉醜女のみ……前者は帝のために鬼女を討とうとし、後者は己のために鬼女が討たれるを望んでいるのだ”


 宵の帳が下りる直前に聞いた金時の言葉通りのようだ。

 自力か他力か、その違いがあるだけで結局誰もがこの策の成就を願っているのだ。ゆえに仮に気づいても目敏く察して黙す。もっとも、今宵この動きにまったく気づいていない者たちも多く居ろうが。

 そしてついに、桃太郎と金時は奥の御所へと至る。

 見上げる階段、この先には就寝前の帝と、籠絡という名の夜伽のために御傍にはべる黄泉醜女の姿があるのだ。

 ふたりは一つ頷き合い、意を決して駆け上がった。



「黄泉醜女よ、今宵も朕のとなりに居てくれるか?」

 身を崩し女の膝に頭をゆだねながら、帝は甘えた声音ですがる。日の本の何者よりも高貴であるはずの姿、顔立ちは、醒めぬ甘美な夢のなかに浸っているかのように蕩けきっていた。

 寵愛とは天が与えるもの、下々がすがるもの……その揺るがざるはずの摂理が覆っている。もはや帝が黄泉醜女に求めているものこそが寵愛であった。

「勿論でござりまする。陛下の御側のほかに妾の居場所がありましょうか」

 そう応えて弧を描く口元。その笑みはぞっとするほどに妖艶だった。たった一度向けられただけで全ての男が心を囚われてしまうのではないかと思うほどに。

 そして、最高権力者の籠絡をさらに一つ深くへと引きずり込むために襦袢の襟を肩口へと滑り下ろした、その時……御所の入口に瞬いた雷光を二つの人影が遮り、追って天よりの雷鳴が轟いた。


 決して起こり得ぬこと、それは天の夜伽に余人が無断で立ち入ること。だが、それが起こった。

 鬼女にそそのかされ完全に人払いをするようになっていた帝は自らすだれをよけ、その先に現れた光景に蒼褪めた顔で見入る。桃花をあしらった白装束をまとい、腰に重厚な太刀をくその若侍を。

 断りもなくこの間に上がりこの座敷に立ち、そしてその傍らには己の腹心金時までが居るとなるともはや尋常ならざる事態であることは容易に考え至ったのだろう。

「―――狼藉者! ここは御所であるぞ!」

 だが怒りを籠めて声をあげたのは、黄泉醜女の方だった。


 それは白粉おしろいではなく、どこか人間離れした白磁器の肌が顔から首筋、胸元、露わな肩、そして袖口から伸びる細い指先と科をつくっている脚の爪先まで包んでいた。血の気の感じられないそれは触れれば凍りつくほどに冷たいのではないかとすら思わせる。

 髪の毛は雪が染み込んだかのような白銀。だが遠目でもわかるほどに艶やかであり老婆の銀髪とはまるで異なる。白い襦袢の背中に流れ落ちるそれは腰のあたりで毛先を揺らし、周囲の灯りを滑らせてはまた誘う。

 そして顔立ちは紛れもなく美女、この世ならざると評されるのも頷けるほどであった。都でも滅多に見ないほど高く通った鼻梁は女丈夫であることを感じさせ、少し厚めで薄紅色の唇はそこから吐かれるあらゆる言葉に艶を与えるように思えた。心もち吊りあがった切れ長の双眸に桃太郎達への威嚇が込められているが、これが伽の時には柔らかく熱っぽい色を帯びるのだろう。

 ……しかし、その時には宿は、陰を潜めるのだろうか……?

「お前が黄泉醜女か。どうやら、真の鬼女か……」

 桃太郎から迷いは消えていた。

 彼がこの場所まで歩みを止めなかった最大の理由、それはこの瞬間を得るためだった。

 実は、桃太郎は己の眼で見るまでは黄泉醜女を斬るか否かの決断を完全には下さず胸に留めていたのだ。それは金時とその言を信じていなかったからなどではなく、父からの何より大切な戒めに背かぬためだった。

 “刀を振るう者は必ず、最後に自分の眼を以て斬るべきを見極めなければならぬ―――”

 そして見極めた今その眼光に揺るぎない覚悟が宿る。

 桃太郎の左手が静かに、伝家の宝刀を握り締めた。


「―――金時、これは何事じゃ。朕の寝所に足をかける狼藉ろうぜきに留まらず黄泉醜女に鬼女との妄言を吐くとは……そこな輩はそちの手引きか」

 遂に帝が咎める。

 金時は腰から太刀と脇差を外し速やかに平伏すると、腹に響く力強い声で進言した。

「畏れ多くも申し上げまする! そこな武者は桃太郎。天を惑わす鬼女を成敗するためにそれがしが案内仕りました」

 彼は面を上げると帝の御尊顔を真っ直ぐに見上げる。

「なにとぞ……何卒その鬼女の奸計かんけいに陛下の慧眼けいがんをお向けなさいませ!」

「奸計じゃと……」

 首筋から色濃く血の気を上らせながら帝はその腕に護る絶世の美女へ視線を注ぐ。

「鬼女じゃと……? 成敗じゃと……!?」

 外でふたたび雷光が閃き、巨大な鼓の音が鳴り響く。

 そして天上の怒りが愚かな諫言かんげんを吐く腹心へと落された。

「黄泉醜女がそのような痴れ者であるわけがなかろう! 金時、そちこそが―――」

 ―――突如、桃太郎が獣のごとき速さで飛び出した。

 柄を握られたスサノオの剣はまだ鞘の中にあり、抜刀の瞬間を待つ。

 彼の双眸は黄泉醜女の瞳を射抜いていた。帝に庇われた瞬間に浮かんだ妖かしの笑みがその鯉口を切ったのだ―――。

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