第17話
決行の日は強い日差しで明けた。
頭上は抜けるような青空。しかし高台に立てば、遠く彼方の地平に空の淀みが少しずつ集いはじめているのも見て取れた。時折ちかりと奔る歪な
「あの雲は京へと流れて来るぞ……夜には降るかもしれん」
山肌に敷かれた坂路を登りながら金時が言う。
「そのようですね。風が微かに湿り気を帯びています」
荒れますね、そう呟いた桃太郎の言葉を金時は意味深く受け止める。
どう転ぶにせよ今宵は嵐の一夜となろう。その時には嵐の目から十分に身を遠ざけていてくれれば……そう願いながら彼は桃太郎のさらに後ろへ眼を向けた。
一時ほど前―――。
都の中でも歓楽街とはまた違う賑わいを持つ大通りを、金時、桃太郎、そしてやえの三人で歩いていた。
着物、履物、飾り物、陶器、桶、日々の営みに密接した物を商う区域、刀剣や鎧、馬具、鍛冶屋、その他様々な工房が犇めく区画、そして山河や農村から運ばれてきた色とりどりの食材を叩き売る繁華街…… 広大な都の中には何もかもが混ざり合った場所もあれば明確な色を持って分けられた区域もある。そして全てが“通り”によって決められているのだ。
彼らが、というより金時が二人を連れて足を運んだのは反物屋、仕立屋……つまり着物に関して集まった通りだった。言わずもがな、質素な身なりのやえに新しい着物を与えるためだ。
彼女は無一文の身、しきりに遠慮したが金時が押しきった。奉公先に連れていく前に、都に馴染む装いに整えたい……それが彼の言い分であり、おしず殿からやえ殿を託された以上そこまで面倒を見なければ己の恥だと言い張った。しかし、いざ古い衣を脱いで都の着物に身を包んだやえは……。
―――急坂を登りながら振り返った金時の双眸は、うつむき加減で懸命についてくる娘の姿に僅かの間だが囚われていた。それに気付かずやえは顔を上げると、結いあげた髪の下で汗に光る額をぬぐいながらふぅと息を吐く。
“金時殿?”少し悪戯心を込めて片眉をあげる桃太郎に気づき、彼は慌てて前へ向き直る。それが少し可笑しくもあり、また、これからの事を思うと哀れにも思えて桃太郎は後姿を見つめた。
辿り着いたのは高台にある湯屋だった。
山肌に湧く名湯のそばに建てられたそこは公家も武家も時折訪れる老舗だ。
直前の急坂は御大臣様だろうと籠に乗ったままでは入り込めず、ゆえに自らの脚で登りきった後に汗を流す熱い湯が格別と評判だった。その後にいただく飯も酒も一際旨い。
だが何より良いのは、どのような関わりの者が鉢合わせても此処には争いを持ちこまないという、言葉なき了解がいつの間にか生まれて久しい事だ。衣を脱ぎ裸で湯を分かちあう場に敵も味方も必要ないという粋がそこにある。
「ここだ、やえ殿。ここの主人とは祖父の代からの馴染みで良く知る間柄、決して悪いようにはしないだろう。彼には妻も居り、奉公人が幾人かおる。だが以前に人手が足りていないと言っていた」
そう言って金時は主人を呼んだ。
恰幅のいい男が現れる。名を
「……この娘さんですか? どれ……」
藤兵衛はやえに目を向ける。
彼女は金時と桃太郎以外の男にあまり見つめられると未だ身が強張るようだが、この主人の無害な空気がそうさせるのか、やがて彼女は背筋を伸ばしたままその眼差しを受け止めた。
「実に真面目そうで、そして器量も良いですなぁ。確かに磨けば看板娘にもなるかもしれませんねぇ」
「ではやえ殿を養女に迎えて下さるか!」
とんとんと話が決まりかけた、その時。
思えば此処を目指し始めた時からずっと無言だったやえが、不意に口をひらいた。
「……金時様」
それは、やえが初めて彼の名を呼んだ瞬間だった。
「金時様…… やえは……」
金時と藤兵衛が、そして桃太郎が、彼女を見つめる。
娘は躊躇いののちに、ぎこちなくも言葉を紡いだ。
「……御側に、居とうございます」
陽が酉の方角へと傾くころ、金時は屋敷に戻っていた。
そして目の前にはやえが膝を畳んで坐している。
湯屋で頭を下げて出てきてからこの座敷でこうして向かい合うまで、二人は一言も交わさずにいた。
ちなみに湯屋の主はまったく気を悪くすることもなく、むしろ金時とやえが言葉を失くして見つめ合う様をどこか嬉しそうに眺めていた……のを桃太郎は見逃さなかった。そしていま廊下に胡坐をかいて庭を眺めながら、気は背後の二人に向いている。
金時はしばし躊躇ったのち、問いを口にする。
「やえ殿……やはり、見知らぬ人間は恐ろしいでござるか?」
「……はい。でも……そうでは、ございません……」
彼女は元より少し伏せていた面をさらにうつむかせる。
「今しばらく我々と居たい、という事でござるか?」
「はい…… でも、少し……ちがいます」
金時はしばらく唇を結んだまま目の前の娘を見つめる。
藤兵衛は彼女を器量良しと言った。磨けば看板娘にもなれそうだとも。
それが年頃の女子への世辞でも、連れてきた昔馴染みへの気遣いでも無いと、金時は分かっていた。
そしてそれ以上に、己がやえにある種の想いを持ち始めていることも自覚していた。だが……
「すまぬ」
彼が呟くように漏らした一言に彼女の細い肩が微かに強張った。
「……それがしは、やえ殿に打ち明けていない事がある。この上もなく大事なことだ」
はっとして桃太郎は僅かに振りむく。
「それがしは今宵、生涯一度の賭けにでる。その目次第では、あるいは二度と、この屋敷の敷居を跨ぐことは無いであろう……」
金時の語気がやや膨らむ。
「すまなかった。其方はそのことを知らぬ故――」
「――存じております」
やえの、これまでで最も明朗な、そして予想もしなかった一言に、金時も、そして桃太郎も大きく振り返って驚きを露わに浮かべた。
「……存じております。金時様と、桃太郎様が……なにか、物の怪のようなものに立ち向かおうとしておられる事を……」
「な……何故に……」
「昨晩、眠れずにいたところ……お二人のお声が少し……」
金時は桃太郎と顔を見合わせると、失態を恥じるように片手で顔を覆った。
対してやえはぎこちなく面を上げ、そしてゆっくりと金時を見上げる。
「……ならば、此処におってはやえ殿の身に危険が及ぶやも知れぬと……それも承知の上で申しておるのか?」
「はい……」
「何故……何故なのだ? 其方はあまりに非道な悪行の犠牲となったのだ。もうこれ以上……」
「これ以上……大事な人に、置き去りにされとうございません」
金時の肌に朱が差す。それは鼓動が突如強く打ったがために。
やえの首筋も頬も、朱に柔らかく染まる。それはただ純粋な想いがゆえに。
「もしお戻りになられぬ時は、やえも此処で同じ運命を待ちます」
その眼差しの深くに、金時は気づきを得る。
彼女は自身の孤独を恐れているだけではない。
思えば己もまた、若くして天涯孤独となり今日まで歩んできたのだ。彼女の瞳はその自分を救おうともしている―――。
「っ……」
不意に込み上げてくるものがあった。だが侍が、
「ならば……ならば、それがしは必ず戻ろう。其方を……やえ殿を二度と、天涯孤独になどせぬよう」
金時の穏やかながら確かな微笑みに、やえは眦から一筋の輝きを伝わせた。それを隠すように両手で覆ってうつむく。その細い肩に金時の大きな掌がそっと触れる。ほんの一瞬、微かに彼女の身は震え、しかしそのまま彼の掌の温かさを受け入れた。
桃太郎は新たな決意を得て前へと眼差しを戻す。
同時に、生まれて初めてこれほど遠く離れてしまった我家を想い、そして常に傍らにいたはずの美しい妹を想う。いま何を思い、どのように過ごしているだろうか。
この天は郷里の上にも繋がっている。だが、望郷の念とともに見上げた空では、昼前にはまだ遠くに集まりつつあっただけの暗雲がいつの間にかその身を広げ……決戦の都へと迫りつつあった。
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