第16話

 金時の屋敷は大きかった。

 と言ってもそれは桃太郎ややえの知る家屋に比べると遥かに、という意味であり、ここまで歩いてくる中にはもっと大きな屋敷や広大な寺社は幾つも目にした。だがそれでもやはり都の多くに比べて立派な屋敷と言えよう。

 何はともあれようやく辿り着いた。

 桃太郎は父と母そしてかぐや姫と暮らす遠い山奥から、やえはあの山中の出会いから、想像もしなかった様々な想いを背負いこむ旅路だったが。

 西の空が黄昏色に染まり始めている。

 今日は青空の中にぽつぽつと白い雲の鮮やかな上天気だった。夕焼けはきっと燃えるような金色を描きだすだろう。

 このような美しい天の下、よもや目と鼻の先で鬼女の魔手が今まさに人の世を壊さんとしているとは……頭上を仰ぐ桃太郎は信じ難い気持ちを抱かずにはいられなかった。


「―――よし、これで良かろう」

 犬の怪我に手当てをほどこした金時が満足気に立ち上がった。薬箱は侍女が受け取り下がっていく。

 良かった、ぼそりと呟いてやえは仔犬を優しく撫でた。

「しかし……あずかり受けてしまった俺が言うのもはばかられますが、この犬、どうされますか?」

 桃太郎の言葉にはっとしたようにやえが金時を見上げる。彼は片眉を持ち上げると少し困ったように頬をかいた。

「そう……でござるな。このまま放りだすというのも無責任な話かもしれん。怪我が治るまで預かってから貰い手を探してみるか」

 ふたりともほっと安堵を浮かべた。

 とはいえ、本当にそのような機会が訪れるかはこれから為すことの成否にかかっている。その事を桃太郎も金時も胸のうちに留めていた。

「では、それがしは此度の“視察”の報をしに参内さんだいしてくる。桃太郎殿、一寸ちょっとそこまで付き合うてくれぬか」

 意を汲んで桃太郎は努めて気安く応じ、やえには犬の様子を見ていてくれるよう頼んだ。茶色の毛を撫でながら頷く彼女にふたりはまだこの旅の目的を何も話していなかった。


 屋敷の前庭を歩きながら金時は声をひそめて話す。

「今宵はまだ仕掛けぬ。まずは宮中の様子と、叶うならばの動向を確かめてくる。内に居る手の者や同志からも話は聞けよう」

 目的はもはや手の届く場所と言ってもよいが、その命にまで切っ先を届かせるためには此処に来て勇み足を踏むわけにいかない。詰めの一手のために慎重に慎重を期する必要がある。

「我々は桃太郎殿というこの上なき刃を得た。恐らくこれが最大にして最後の機となろう……故にしくじることは許されん。必ずやそなたを鬼女の前へと立たせてみせる」

 彼の覚悟が桃太郎にもひしひしと伝わってきた。


 それから一時あまり後、夜の帳の降りた町を金時は無事に戻ってきた。

 事を為す下準備は内外に整いつつある。決行は明晩と定めた。



 今晩はこれまでになく寛げる夜だった。

 ゆるりと旅路の汚れを落とし、美味い夕食に舌鼓をうつことができた。

 流石に宴のように騒ぎはしなかったが、やえもだいぶ食に手をつけられるようになり、出会った時より遥かに血色も良くなった姿に男達は安心した。


 彼女が一間与えられて身を休めた後、金時と桃太郎は庭の夏虫の歌に耳を傾けながら互いに酒を酌み交わし始めた。

 星々の中でひときわ輝く月は少し欠けた円を描き、そこに薄絹のような雲が細くかかっている。二人は互いを見やると猪口ちょこを目の高さに掲げ、ぐっと一息に飲み干した。


「旅立ちの前夜……一宿一飯を馳走になった夜以来でござるな」

 しみじみと懐かしみながら金時は徳利とっくりを桃太郎の手元へ傾ける。


「ついこの前のことなのに、随分時が過ぎたような気がします。やはりあの件の所為でしょうね」

 猿の悪戯から始まった騒動。

 まさか山奥で知らずに野党の根城を拝借してしまうとも、そしてあれほどの修羅場を経験することになるとも想像すらしていなかった。だがそのお陰で……


「なりゆきとは言えやえ殿を救うことが出来た、それだけでもこの旅は報われたと言えようぞ」


 金時のその言葉に桃太郎は目を円くする。

 自分が言うならばまだしも、彼にとってこの旅は帝を御救いするために一命を懸けた旅。

 事の大小を計るならその大義に比べればあらゆる出来事は些事と断じても過言ではないはずだ。その金時がもう“報われた”などと口にする、それは鬼女退治をしくじって元々と考えているから……ではないだろう。

「……やえ殿は、どうされるおつもりですか?」


 不意の問いかけに今度は金時が微かな動揺を浮かべる。

 しばし押し黙った後、酒を注ぎ足して徳利を置く。

「……明日、昼間の内に人に当たってみるつもりだ。出来るならばそのまま決行前に奉公させる。侍女にも暇を出す。桃太郎殿の力は欠片の疑いも無く信じておる……が、相手は人ならざる者のうえ帝を籠絡している。万が一の時にはそれがしの首までで終わらせたい」

 この屋敷に侍女以外の身内はいない。

 金時に兄弟はおらず父と母は数年前に都を襲った流行り病に倒れてしまった。

 そして彼は妻も娶っていなかった。


「真に、それで良いのですか?」

 猪口を持ったまま桃太郎は問い重ねる。


 金時は目を逸らすと酒を煽り、ふぅと熱い息を吐いた。

「それがやえ殿の幸せのためだ…… もうこれ以上、理不尽な苦しみを味わわせたくはない」


 夏虫の鳴き声が何処かで奏でられ、そよ風がそれを運ぶ。

 夜風のために薄く開かれた障子の奥、灯のない一間の寝床で娘はゆっくりと瞼を伏せた。

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