第12話

 円月も満天の星も頭上を滑り落ち、再び日輪が山より高く登っていた。

 夏の盛り葉月の頃、明け方は昨夜の雨水が立ちのぼり濃い靄に包まれていたが、辰の刻に至ればじわじわと肌に熱がまとわりつき始める。

 我が世の春を謳歌する蝉の鳴き声に包まれながら桃太郎、金時、そして名を“やえ”という娘の三人と一頭の白馬が街道を探して柔らかな土を踏みしめていた。


「早く動き過ぎましたか……どうも山深く入ってしまったようですね」

 生い茂る木々の間から連なる岳々やまやまも見えるが、どの谷を目指せば元の街道に戻れるのかが分からない。朝靄の深いうちに当てずっぽうで出立したのは失敗だったか。


「むう……大丈夫か、やえ殿」

 白雲しらくもくつわを取りながら金時は目の前の細い背中を気遣う。

 娘は健気に歩いている。

 朝に確かめた賊の根城には十分な糧食の蓄えがあったため男二人は空腹を満たせた。彼女はとても食欲の湧く心持ちではなかったようだが、それでも少しは口にしたし、水はよく飲んでいた。ためか血色は今朝方より良くなっているが……小さく振り向いたやえは少し息を切らしながら頷いたように見えた。金時もまた頷き返してふたたび視線を伸ばす。

 視界の悪い朝、動き出すには早いと感じたのは確かだ。それでも一刻も早くあの場所を離れるべきだと判断したのは、他でもない彼女の為だ。

 手厚くというわけではないが仏として弔った賊の骸……金時と桃太郎が手を合わせたそれは、彼女にとっては掛け替えのない家族の、そして踏みにじられた自身の仇だった。とても冥福を祈る気持ちになどなれようがない。それが分かるからこそ、無理を押してでも早くあの場から遠ざからせてやる事が唯一できる心遣いだったのだ。

 しかし、結果なかなかに険しい状況になったかもしれない。

 山道は足腰に容赦がなく、何より陽が昇るに合わせて今日は益々暑くなっていくだろう。

「桃太郎殿! あそこに良い木陰がある! 一息つこう!」

 やや先で足下を確かめてくれる健脚の若者を呼びとめ、少し右手に見える涼しげな木陰を指差した。


 陽を遮られているだけで随分と肌に感じる空気が違う。足場もちょうどなだらかで落ち葉が敷物代わりになっている。娘はほっと息を吐くように腰を下ろした。

「……やはり無理をしていたようですね」

 少し離れたところに見つけた湧き水を掬って顔から浴び、頭を振ると桃太郎はやえに目をやる。

「しかし弱音を吐かない……なんと強い女人でしょうか」

「強さではないかもしれん」

 金時も手に汲んだ湧き水を軽く浴びる。澄んだ冷たさに山歩きの汗と汚れがそそがれるようだ。

 白雲もまた地面を削る小さなせせらぎに首を伸ばして喉を潤している。

 金時は岩の前にしゃがみ込むと水筒の栓を抜いてそこに冷水を汲み受けていく。

「つい昨夜の、あの呆けた眼を考えると……恐らくはまだ全てを失った事実に心が追いついていないのだろう。どう悲しんでよいのかも、どう弱音を吐けばよいのかも分からぬのではなかろうか」

 それはまた、自分達が彼女にとって心許せる相手になっていないという事も意味しているように思えた。

「そうであるならば、この先に苦しみが待っているということになりますね」

 それでも……

「逃げるも地獄、向き合うも地獄だろう。今か、いずれか、選ぶのはやえ殿だ」

「ええ……」

 もっとも、と金時は水の満ちた竹筒を手に勢いよく立ちあがった。

「まずはこの山から無事に下りられればの話だがな」

 然り、と桃太郎が苦笑いを漏らす。


 木陰に戻った金時は額の汗を拭っている娘に水筒を差しだした。

「やえ殿、そこで汲んだきれいな湧き水だ。喉が渇いておるだろう」

 金時の手は水筒の上縁を持っている。やえは筒の下を両手で握る。

「落とすなよ?」

 そっと離した彼の手から水の重みを受け取り、彼女は恐る恐る見上げると一つ小さくお辞儀をして、それから水筒に口づける。ひとくち、ひとくち、惜しむように飲んでいく。


 彼女を見守る金時の優しい眼差しに桃太郎は自然と唇を綻ばせる。そして自分も娘にならうように竹筒を仰いだ。

 喉仏を上下させるたびに胸の奥へ染み込んでいくちょうすい、真夏の山中で生き返る瞬間だ。

 心地好さに目を細めながら木々の切れ間の向こうに夏空を眺める。その時、ふと見えた光景に桃太郎は竹筒を口から離した。

「……あれは……」

 もう一度よく眺める。

 生い茂る傘と傘の間に広がる、抜けるような蒼天。

 その中で悠々と輪を描く、一対の朱色の翼。

「―――金時殿!」

 一つの予感に弾かれるように桃太郎は叫んだ。


 背の高い草を掻きわけて拓いた視界の先、山間やまあいのそこについに見つけた道。

 牛を牽いて歩く人をやや遠くに認め、あれこそが探していた街道の続きだと確信して桃太郎は大きく息を吐き出した。

「ようやく戻って来られました、金時殿。やえ殿も、もうひと踏ん張りです」

 おお、と感嘆を漏らした金時は街道から頭上へと眼差しを上げる。

「よもや本当に導かれようとは……」

「偶然かはたまた……しかし俺たちを、いや、恐らくは金時殿をそうと判って頭上に居るのではないかという気はします」

「まさか恩返し、とでも?」

 笑みを浮かべて仰ぐ空、くるりと巡る朱鳥あけどりの脚からは細綱が短く垂れているのが見えた。

 鷹は彼らが街道に降り立つのを見届けたかのように“ピィオ”と美しく鳴いて空を翔け昇っていった。まるで本当にそのためだけに現れたかのように、どこまでも遠く遠く、思う様に。

 桃太郎も、金時も、そしてやえも陽の眩さに両手で廂をつくりながら、しばしその光景を見送った。

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