第6話

 馬を牽きながらさ迷い歩くこと半時か、あるいは一時か、山時間は地平で計れぬ陽の位置と移り気な天気のせいで掴みにくい。

 特に木々の合間から見上げる空がああも暗雲に満ちては……今が仮に正午だろうと辺りはまるで宵の口だ。とは言え林に飛び込んだ時から体感で測れば暮れ六つか少し前といったところだろう。


「降り始めましたね」

 先に気付いたのは桃太郎だ。身に滴を受けたわけではなく、木の葉のざわめきに風でこすれ合うそれ以外のものが混じり始めたことを聴き拾う。

 まずは囁き、ほどなく喧騒、見る間に山の唸り声。

 なんともツキのない状況に陥ってしまったと言うところだが、運とはどう転ぶか分からぬもの。

 もはや街道の方角を探るでもなくただただ山を下らんと突き進んだその先で、偶然以外のなにものでもなく屋敷を目の端に捉えて桃太郎が歓声を上げた。


 辿り着いたそこは古屋敷も古屋敷……やや木々の開けた場所に小さく佇むそれは、雨が姿を曇らせずとも打ち捨てられた寂れ具合をあからさまに見せつけている。

 正面の傷みきった木戸を試してみると立てつけは酷いがガタガタと開く。

「……っ」

 その中の闇から漏れてきた空気に桃太郎は違和感を覚えた。


「どうだ! 入れそうか桃太郎殿!」

 家屋脇の大きなひさし の下へ白雲を括りつけた金時がバシャバシャと雨水を散らしながら駆けてくる。


「……はい、中には――」

 兎に角、草履を脱ぎ棄て上がってみる。

「――誰も居らぬようですが……」


「ん? なんと?」

 板の間へ入っていった桃太郎の呟きが雨音に消され、金時は訊き返しながら自分も屋内へとあがった。

 ふぅと一息吐き出して顎紐を解くと笠を外す。しかし一寸先の闇の中で桃太郎がまだ笠も脱がずにいるのが薄っすら見えた……というより彼の張り詰めた気配を感じた。

「どうされた?」


「金時殿……人の気配こそありませんが」

 すん、と鼻を強めにすする音が鳴る。

「この空気の臭い……平時から人が寝泊まりしているのではありませんか?」


 そう言われて金時もまた鼻を突き出すようにして確かめる。

「たしかに、真に捨てられた家屋ならもっとカビた臭いがしそうなもの…… ならばこの雨だ、山菜取りか狩りか分からぬが慌てて戻るかもしれんな」


「そう、ですね」


「とにかく主には悪いが雨宿りさせて頂くとしよう。詫びればこの雨、咎められはすまい」

 山土の汚れこそあれ自分達の身なりなら怪しい者と思われることもないだろう、金時はそう判断する。


「そう……ですね」

 山菜取りかしし狩りか、ここを住処とする者の日頃がそれくらいであれば良いが……。

 桃太郎はこの闇の中の何が、自分の中のいったい何を逆撫でているのか判らぬまま、漠然とした懸念を一先ず胸に押しこめて笠の紐を解いた。


 戸を大きく開けて、板張りの廊下に腰を下ろすと二人並んで外を眺める。

 雨足は衰えず、廂に遮られて廊下までは入って来ないが湿った空気はあっという間に屋内へ満ちた。

 普段の山は無数の鳥や獣達の声がひっきりなしに届いてくるが、いまはただ雨の降る音だけが単調に響く。

 それは、決して退屈なものではなかった。少なくとも桃太郎にとっては山の声のようでもあり、木々の歌のようでもあった。


「それがしは、童の頃から雨が好きでな……」


 夢想に耽っていた若者の隣で丈夫ますらおが不意にこぼす。


「強く降れば降るほど、何故か心が浮き立った。雨は天の恵みか、あるいは怒りと思える時もある……だがどちらにしても美しい」


 美しいと、それがしは思う……そう繰り返しながら天を覗きこむように見上げる金時の笑みは満面のものではないのに、桃太郎の眼にはどこか屈託ないわらべの面立ちに見えた。

 自分は音色を、彼は光景を、それぞれの感じ方ではあるが天の営みを愛する心は同じだと、若者もまた楽しく思いながら目を閉じた。



 陽はどうやら、雨雲に隠されたまま地平に沈んだらしい。

 一刻は過ぎたであろう頃、屋敷内だけでなく辺りもまたすっかり宵闇に沈んでいた。雨足こそ弱まってきたとはいえ依然月も星もない今宵はまさしく漆黒の世界となろう。

 誰かが使っていると感じはしても勝手分からぬ屋敷。せめてもう少し明るい内に辿り着いていたならばともかく、暗過ぎる屋内では蝋燭の一つも探せない。火打石なら持っているが本来そこかしこに溢れているはずの燃え種は水浸しで役に立たない。


「灯り一つない夜となりそうだが、今宵はこのまま寝床にさせてもらうしかなさそうでござるな。だが腹が減った……昨日の茶店で買うた団子がまだあったはずか」

 金時が手探りで自分の風呂敷を漁り、ガサリと音を立てて竹皮の包みを取り上げた。

「茶がないのが残念だが……桃太郎殿も食べるだろう?」


「頂きます。水ならまだありますよ」

 と、竹筒を取り出すために自分の荷を探ろうとした桃太郎が不意に身を強張らせ、さっと背後の暗がりを振りかえると片膝立ちになる。


「どうさ……ぬっ?」

 金時もやや遅ればせながら何かを感じ取り、団子を脇に置くと代わりに刀を掴んで同様に身構えた。


 相変わらず漆黒の屋敷内……外の雨は弱まってもまだ止んではおらず屋根や木々や土や水たまりで喧騒を奏でている。

 そんな状況で桃太郎は敢えて目蓋を下ろした。

 意識の中から屋外の音が一つまた一つと遮断されていく。

 いまは内側、この屋敷内に在る音だけを拾うのだ。

 ……集中力が極まるに従い、始めに己の鼓動、耳元の脈打ちが存在を主張する。

 ……そして隣で身じろぎもしない金時の、押し殺しながらも深く長い息遣い。彼も緊張こそすれ恐れてはいないのが感じ取れる。

 屋敷内のみにまずは己の“感覚の網”が張られた事を確信し、今度はそれを広げていく。慌てればまた遮ったはずの外の喧騒まで意識に入ってしまう。

 焦らずじっくり、しかしなるべく速やかに……。


 …………。

 …………。

 ……みしっ

 …………。

 …………みしっ


 思いのほか……すでに近間だ。

 まだ手も剣先もとどく間合いではないが、遠間でもない。

 こんな距離までいつの間に? いや、いつの間にというならそもそも別の戸口があるとしてもいつ我々に気づかれず侵入してきたのか。

 かなりの手練?

 あるいは―――

「……金時殿」

「……ぬ」

「まだ……傍らにありますか?」

「……ん?」

 これ以上なく潜めた一息で金時が問い返す。

「……団子です」

 みしっ……。


 いよいよ間合いが詰まってきたのが金時にも分かる。

 自分ではなく桃太郎側からその何者かが迫っている。

 もし相手に殺意と武器があるなら一瞬後には生死が交錯しかねないこの時に、その本人が団子を所望? まさか、ここにきて“腹が減っては……”か?


「団子を……包みごとでも構いません」

 口を開くごとに桃太郎の声音は密やかさを失っていき、もはや相手にも拾えているに違いない大きさだ。


 金時は事態が呑み込めぬまま竹皮の包みを掴み上げると声をかけながら差し出した。


 かたじけないと暗闇の中で受け取った若者は手元も見えぬゆえ慎重に包みを解いていく。

「よし…… さあ」

 それは明らかに暗がりの住人に対してかけた一言だ。そして少し離れた床板でぽとりと音が鳴る。


「……団子を……抛ったのか?」


「はい。そこにいるのは……」


 きぃ、小さいが確かに声がした。それで金時にも理解が走る。


「やはり、猿です。腹を空かせた猿が一匹、紛れ込んでいたようです」

 きぃ、ともう一度聴こえた。まさか相槌を入れたわけでもあるまいが。

「気に入ったようですね。今夜はこれで手を引いてもらいましょう」

 新たに一つ、もう一つ、続けざまに闇へ抛る。

 二つとも拾った気配と、そのままどこか奥へと引っ込んでいくのが感じられた。

 ふぅ、と桃太郎が息を吐く。

 ふぅ、と金時も気を解いた。

「さて……我々も夕食ゆうげにしましょうか」

 緊張感がほどけ、数個残る団子と包みが二人の間に置かれた。



 固い団子で空腹をしのぎ、水で喉を潤した後はとくにする事もない。

 一点の光もない漆黒の中では目蓋をあけてもいられない。やがて自然と眠気に襲われ、金時は自らの腕を枕代わりに横になり、桃太郎は胡坐をかいたままスサノオの剣を抱くようにしてうとうとと舟を漕ぐ。どのような状態でも寝ようと思えば眠れるのが彼の得意な業の一つだ。


 雨音は時と共にその鳴りを静めていく。眠りが深まっていくのか、雨足が弱まっていくのか、あるいは両方か……。

 宵は更け、夜が深まる。

 いつしか森には夜行性の獣の息遣いが戻り、山は夏虫の音を奏でだす。

 分厚かった暗雲は少しずつ薄まり、夜空の幕を徐々に開いてゆく。

 忘れられかけていた無数の星々がその幕間から玉石の輝きを誇り始め、徐々に山の美しき夜が訪れようとしていた。


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