第5話

 旅立ち以来ずっと続いた日和も四日目、街道が山間やまあいに差しかかると陽が度々陰るようになった。

 始めの頃はまだ白い雲だったが行く先に見上げるそれは鼠の如き色へと染まりつつある。鼻をつく空気の香りも、両脇を囲む木々の匂いに隠しきれぬ湿り気を孕んでいる。特に山河に育まれてきた桃太郎には慣れ親しんだ変化でもあった。

「一雨きますね……激しく降るやもしれません」


「うむ、この山間を抜けるにはまだまだかかる。この先には民家も茶店もなかったと思うが……どこぞに山小屋でも無いものか」

 そう呟いた金時がなんとなしに周囲を見渡したその時、彼らの少し先に何かが落ちて転がった。

「ぬ?」

 両者ともに足を止める。金時に操られ馬もその場で軽く足踏みをする。

「木の実……であろうか?」


「いかにも、早くもぎ過ぎた実のようです。硬くて食すには向かないでしょう……一体どこから……」

 改めて両脇の山林へ眼を投げるとほぼ同時に、再び木の実が地面に弾んだ。それは先のものよりもかなり金時に近かった。

「……金時殿! あそこをご覧くだ―――」

 そう言いながらまさに桃太郎が指差した左手の木々の間から、三つ目の木の実が飛び出してきた。投げている者の正体が明らかになる。


「猿か……!」

 と、金時が目を円くした直後、木の実は先よりもさらに一行寄りに、しかし命中されたのは金時でも桃太郎でもなく連れ歩いていた白馬だった。それも尻に。

 しまった、と思うより早く金時の愛馬はいななきをあげて後ろ脚で立ちかける。突然の事に手綱が離れ、そして馬は前へ駆け出そうとした。


「待て!」

 そうなる事を先んじて読み取った桃太郎が素早く駆け出して馬の前に回り込んだ。


「いかん―――!」

 興奮した馬の前後に立ってはならない。桃太郎の身が体当たりか蹄に晒される光景を浮かべて金時は叫ぶ、が……馬は突っ込みかけながらも慌てたように踏み止まった。

 桃太郎から発される威圧がそれを起こしたように金時には感じられた。

 何はともあれ今の機に手綱を取り直せば、そう動かんとした時、四個目の木の実が飛来してまたも馬の身に当たる。今度は左の首筋だった。


「まずいっ……」


 桃太郎と金時が同じ台詞を見事に重ねて漏らすその眼前で、予感を裏切らずに馬が身をひるがえし右手の林へと駆け出してしまう。

 金時は突如向けられた後ろの馬脚に思わず一歩退がり、逆に桃太郎は振り回された手綱へ咄嗟に手を伸ばしたが僅かに届かず指先が空をかく。馬は山の奥目掛けて分け入ってしまった。


「くっ……悪戯好きの猿め!」

 桃太郎が振り返るも当の猿は馬をからかって満足したのかすでに生い茂るどこかへ消えてしまった。

「すまぬが桃太郎殿、白雲しらくもを追わせてくれぬか! かつて帝より賜った名馬なのだ」

「なんと……それでは尚更のこと、すぐさま連れ戻しましょう!」

 二人はまだその美しい背と揺れる白尾の見える林中へ駆け込んでいく。

 頭上ではすでに西へ傾き始めている陽を背後に隠しながら、淡い黒雲がいよいよ立ち籠めつつあるのだった。



 山中を駆けてしばらく過ぎた。

 すぐ捕まると思った白雲は未だ手が届かない。かと言って見失ったわけでもない。

 始めは金時と桃太郎の追いかける気配、蹴り散らす落ち葉の喧騒などがかえって馬の臆病さを刺激してしまっているのかとも思った。そのため一度は足を止めてみたが……落ち着いて見据えたことですぐに別の原因に気づいた。

 樹木の、枝ぶりの中。

 そこ、かしこ。

 目を凝らせば、居る、居る、居る……例の猿の仲間に違いない連中が白雲を脅かすように周囲を伝い、枝を揺すって葉を降らせ、あるいは先刻のように木の実と思しきものを馬へと投げつける。

 そのうち調子づいて地上を並んで走り、おそらくきぃきぃと鳴き声で煽っているのが分かった。


「我が愛馬をどこまで追いたてる気だ、あの猿ども……!」

 落ち葉を踏み散らしながら金時が苛立ちを喚く。


「むしろ引き込んでいるように見えます。恐らく自分らの縄張りに……まさか」

 まさか、その後に取り囲んで打ち殺そうとでも言うのではないだろうな、と戯言では済まない考えは言い控えた。帝からの賜り物ゆえにと追い始めた金時だがその横顔を見れば分かる、彼がそれ以上の想いで白雲を追っていることが。

「いや、しかし見てください金時殿……いかな名馬も走り慣れぬ森の中を、しかも周りでああも脅かされながらの走り……さすがに疲れが見えます!」


「む、そなたの言う通りだ。これならもはや時の問題、あとは猿どもを追い払うだけだ!」


 二人はいよいよ気勢を上げる。

 距離が詰まれば猿の的がこちらに変わるかもしれない。“追い払うだけ”……それほど気軽な相手ではないことを、山育ちの桃太郎は知っている。できれば反撃されることなく散ってくれないかと願う。

 その思いが、どうやら通じた。

 二、三は何かをほうってきたが、迎え討つというほどの抵抗はなく猿たちは木からまた木へと呆れるほどの軽快さで散り去っていく。

 ふたりが白雲をやや遠巻きに挟み外側を向いて抜刀の構えに腰を落とした時、もはや猿の気配は山林の奥へ霧散していた。

「……ふぅ、なんとか事なきを得ましたか。白雲に怪我はありませんか、金時殿?」

 振りかえると肩で息をする金時が手綱を取って白雲をなだめていた。表情には安堵の色が浮かんでいる。


「どうやら大丈夫のようだ。二人で追えたのも猿どもを退かせた因であろう……かたじけない、桃太郎殿」

 礼を述べながら金時の胸中には一つの驚きがあった。

 己も日々鍛錬を欠かしてはいないが、それでもこの足場をあれだけ駆けてくれば疲れを覚える。正直この場に腰を下ろしたい心持ちだ。しかれども、白雲の向こう側で気持ちの良い笑顔を返してくるあの若人は息すら乱していないのではないか。

 桃太郎にまた一つ頼もしさを感じながら、さてと金時は辺りに眼を向けてみた。

「……来た道は?」

 金時の呟きを耳にしながら、はてと桃太郎も眼差しを巡らせる。

「すっかり……迷いましたな」

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