第4話

 知らず知らずのうちに空気の匂いも変わっていく。

 住み慣れた家、暮らし慣れた土地を発って二日が経った。

 葉月の上旬、この旅路はこれまでのところ晩夏の好天に恵まれ、成そうとしている凶事を知ってか知らずかお天道様は彼らを導き、後押ししてくれているかのようだ。

 手の中の小さな巾着袋を見つめている桃太郎を目の端に認め、白馬のくつわを引く金時は頬を緩めた。

「先の朝が忘れられぬか?」

 はっと顔を上げた桃太郎から視線を外し澄んだ空を見上げる。

「まっこと、美しき方でござった。都には煌びやかな女人は多かれど、かぐや殿の美しさは見目だけではなくあの慈の心から生まれるものに違いない……」

 

 出立の朝。

 いつか来る桃太郎の門出のためにと母が予てからあつらえていたという着物……白地に桃花の柄をのせた装束に身を包み、父から受け継いだ家宝スサノオの剣を腰にき、二人からの励ましを受けて身も心も引きしめていた。

 そんな彼の傍らへとかぐや姫が静かに歩み寄った。

 ずっと両手で握りしめていた巾着袋を桃太郎のてのひらへ祈るように渡し、そしてただ一言告げた言葉、「兄上、行ってらっしゃいませ」……。

 

「前夜までの、憂いを何とか押し殺そうとしておられた笑顔には某も心を痛めていたが……あの時のそなたを送りだす微笑みにはようやく許しを得た心持ちだった。桃太郎殿も百言に勝る勇気を受け取ったのではござらんか?」


 桃太郎は金時の横顔からふたたび手の中の御守りに目を落とし、そこに彼女のかげり一つない笑顔を見る。それは自分に対するこの上ない信頼に思えた。

「ええ、仰る通りです。これで何の迷いもなく御役目に当たれます」

 ぐっと拳を作った桃太郎に金時も期待を寄せて頷いた。


「ぬ……金時殿、あれは……」

 ふと桃太郎は街道の先に目を留める。

 金時も目を凝らすと、その小さな喧騒を何事かと探る。

わらしらが何か囲んでおるようだが……ぬっ?」

 その中から突如鳥が飛びたち、だが碌に舞いあがる前に妙な具合にもがいて落ちた。

 桃太郎が軽く駆け寄っていく。馬を牽く金時もやや足を速めた。

「お前達、何をしているんだ?」


 桃太郎に声をかけられると三人の童は一斉に振りむいた。どれも興奮に赤みの差した顔だ。

「鷹をおらたちの家来にするんだ! 訓練してるんだよ!」

「飛べって言ったら飛ぶようにするんだ!」


 なるほど、彼らの向こう側に鷹が這っている。山育ちの桃太郎は何度も見たことがあるが、目の前のそれはやや小ぶりで育ちきっていない若鳥のようだった。 全身が朱の羽根を多く纏っておりなかなかに目を引く。

 しかし歩く姿がどうにもぎこちないと思ったら片脚に紐が縛ってあり、それが一人の童の手元まで伸びていた。

「非道いではないか……家来どころか罪人つみびとのようだ。哀れとは思わないのか?」


「だって逃げちゃうかもしれないだろ! せっかく捕まえたんだ!」

 童らが口々に反論しているとそこへ金時が追いついて来た。まだ若い桃太郎と比べて新たな侍には貫禄があり、しかも牽いてきた馬を間近に見る迫力に彼らも気圧される。鷹もやや警戒しているようだ。


「わっぱども、その鷹をよく見てみるがよい」


 三人とも言われるままに鷹を振り返る。


「縛られている方の脚を痛めておろう。このようなやり方をしていてはその方らの命に従うどころかいずれ飛ぶことすらできぬようになるぞ」


 確かに鷹はわずかに痛がっているようだ。それに気づいた途端、自分達を見るその眼差しが一際鋭く恨めし気に思えて童は少し後退さる。


「飛べなくなった鷹を家来にしても何も自慢にならぬだろう?」

 金時は桃太郎に白馬の手綱をあずけ、童の合間を通って鷹に近づく。鷹の方も警戒心を一層高めたのが見て分かる。彼はまだ数歩残して足を止めた。手の届かぬ距離だ。

 何が起こるのかと四人がその背を見守る中、金時は腰の大刀を左手で支えると少し腰を落とす。右手を剣柄にかけたようだ。

 一呼吸の後、金時の右足の踵が地面を打ち鳴らした。

 反射的に鷹が地を蹴りはがして翼をひらく。

 金時の右腕が動き銀色の刀身が一筋閃いた。


 鷹が先刻溺れた高さを超えて一気に空へと翔け上がっていく。

 繋がれていたはずの紐はその脚から僅かに垂れているのみで、大部分が地面に落ちて乾いた音を立てた。

 あっと一声漏らして童らが口を開けたまま眼で追いつづける。

 金時もまた空を仰いだまま小さな鍔鳴りを響かせて刀を納めた。


「残念か……? だが、どうだ……鷹はやはり天を思うさま翔けあがる姿が美しいだろう?」


 手に紐を握っている事すら忘れているように見惚れる童の様子に、思わず込み上げた心地好い笑みをそのままに桃太郎は金時の後姿を見つめる。

 元服前の自分を立派な若武者と評し、父の推挙もあろうが己の命運を賭けて頼ってくれている男……だがなんの、彼こそまさしく懐深き立派な侍だ。

 信の一文字を胸に抱き桃太郎は再び空を眺める。

 抜けるような蒼天の中をすでに小さくなった鷹が悠々と遠ざかっていくのだった。


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