第3話
「―――俺がその女を斬るのですか?」
話を聞き終えた桃太郎は険しい表情を浮かべ父に問いかけた。隣ではかぐや姫が憂いを込めた瞳で兄の横顔を見つめている。
「儂はもう年をとり過ぎた。この御役目はお前が引き受けてはくれまいか?」
父の眼差しは真剣だった。
金時の頼みとは、ある鬼女を成敗して欲しいというものだった。
遡ること数ヵ月前、
不思議な予言を操るその女は、その力と美貌をもってあっという間に宮中に迎えられ天の正室の地位すら脅かしていった。
この数ヶ月、帝から下される命はかの者の望みを叶えるものばかりとなり、為政が
そこでその鬼女“
誰より早いうちに黄泉醜女の人とは思えぬ妖しさを感じ取っていた金時は、これまでにも幾度か刺客を操ったという。だが成果を上げた者はおろか戻った者すらいない。そうして手をこまねいている内に女は遂に帝の御側を身の置き処としてしまったらしい。
もはや、鬼女退治の機はただ一度きりしか得られまい。帝の傍らから決して離れぬあの者をその御前にて討ち損じれば後の顛末は知れたもの…… 金時は腹を切る事になり、そののちの都は鬼女の思うがままだ。
「……桃太郎、この十四年間お前に叩きこんできた剣術も武術も、もはや儂を超えておろう。お前ならば必ずや世を乱す鬼女を討てようぞ」
「しかしお父上…… 鬼女とはいえ帝が寵愛されている者を斬ってしまえばお咎めは免れないのでは……」
桃太郎の言は我が身を案ずるものではない。父と母、そしてかぐや姫にまでもそれが及ぶであろうことが何よりの気がかりだった。
金時はその憂いを
「ご案じ召されるな。本来の帝は誰より聡明にて民を想う慈悲に溢れたお方。口はばかられますが……今はあの鬼女の妖しき力に惑わされていらっしゃるのです。討てば必ずやその呪縛が解け、元の御心に戻ることを
それに、と付け加える。
「万が一、霞晴れずお怒りになったならば私が一命を賭して進言いたします。世を救う忠義の士をお咎めになるなど帝の行いではない、と」
憶測、そして大言……桃太郎は金時の瞳を真っ直ぐに見つめかえす。
だがその武人の双眸に、少なくとも桃太郎には甘言で謀ろうという淀みを見ることはできなかった。
父、母、それぞれへとゆっくり移した眼差しを、傍らで一言もなく見上げるかぐや姫へと向ける。彼女の聡い瞳のなかに兄の身への憂いこそあれど金時を疑う色のないことを確かめ、彼は静かに息を吐いて侍へ向き直った。
「……承知いたしました」
金時の表情から曇りが掃われそこに笑みが広がる。
「かたじけない! この金時、心から感謝いたしますぞ!」
桃太郎の決断に父は満足そうに頷くと立ちあがり、長の年月床の間に飾られていた一振りの太刀を手にする。
「この刀は儂が若かりし頃に振るっていた家宝“スサノオの
彼の前に正座すると、右手で握るその刀を突きだした。
「これをもって帝と都の民を救うのだ。しっかりと御役目を果たすのだぞ」
桃太郎は驚きに見開いていた目を細めると、居住いを正し両手でその刀を厳かに戴いた。
「お父上、かたじけのうございます。必ずやスサノオの剣に恥じぬ働きを」
父の少し後ろで母は微笑みを絶やさずに二人を見守る。
そしてかぐや姫もまたこの喜ぶべき光景に口元を綻ばせるが、膝の上で重ねた両の手は密かに握りしめられていた。
立ち上がった桃太郎は鞘からすらりと抜き出し、切っ先を天井に向けてその輝きを見上げる。掲げ持つ右手にかかる感触はずしりと重かった。
明朝、まだ夜が明けて間もない頃にかぐや姫は寝床から静かに抜けだす。
眠りは一晩中浅かった。
対して男達は深く寝入っているらしい。昨夜一宿の招きに応じた金時は、母が軽めに振舞った酒を片手に我家との交流を温めた。
男とは不思議なものだ。一つ二つ杯を酌み交わすだけでまるで旧知の友となり、互いに胸襟を広げ懐へ入っていく。桃太郎までが一足早い元服の祝いと大人たちに押しきられて杯を綺麗に空けていた。
多くはそれを眺めている時間であったが、とは言えかぐやにしても楽しい一夜だったのは
母に教わり生まれて初めての御酌を経験した。金時に、父に、そして兄にも。これまで母が父へ晩酌を傾けているのを何度も見ていたが、自身がすることで初めて発見したこともあった。男達は御酌に与るその一時、素の微笑みを浮かべるということ……。
その笑顔を観ることで改めて金時を信頼に足る真っ直ぐな侍であると感じた。
また父の笑顔にはいつの間にか思う以上に老いていたのだと気付かされた。それゆえにこの度の重い御役目を任された兄……。
その寝顔をまだ暗い座敷の中に薄っすら認めたのち、かぐやはできるだけ音を立てぬように歩き、草鞋に足を通すと静かに戸を滑らせて外へ出た。
淡く朝靄が立ちこめた明け方の世界。
ひんやりと澄んだ空気が鼻腔から胸へ染み込む。
耳に届く一羽か二羽の雀の鳴き声、その軽やかな響き。
今日は実によく晴れるだろう。
この上もない旅立ち日和になるだろう。
少し、恨めしいほど。
兄が……桃太郎がどんなに素晴らしい若武者であるかは、誰よりも知っている。世の誰よりも自分こそが彼のことを信じられる。信じている。だが……。
「桃太郎が心配かい?」
不意の声に振りかえると母が優しい眼差しで立っていた。
彼女は静かに戸を閉め、再びかぐや姫に向き直って歩み寄る。
「ろくに寝てもいないのでしょう、かぐや?」
母には敵わない。
見抜かれている胸中を、かえって安堵も覚えながらかぐやは答える。
「兄上のお力は信じています…… でも、金時様の言の通りなら此度の御役目……魔物退治です。人ならざる者にも兄上のお力は及ぶのでしょうか?」
「さて……」
母は一言で口を閉じ、かぐや姫を見つめる。
分かっている。促されている。心を覆っている本当の不安を吐き出すよう……。
「……魔物でも、あるいはただの傾国の美でも…… どちらであってもこの御役目を見事果たして来た時……兄上は……」
昨日までの兄では無くなってしまうのではないだろうか……そこまで言葉にしきれなかった。ただ体の前で両手をぎゅっと握りしめる。
母は何も言わぬまま、頬を緩めた。
着物の襟元から何かを取り出し、大切そうに両の掌にのせて娘へと差しだす。
「母上……それは」
母の手には白い
「“月下美人”を模った髪飾りですよ」
皺の多く刻まれた顔で母は今までに見たことがないほど美しく微笑んだ。
「桃太郎が元服の前祝いにお父上のスサノオの剣を譲り受けたのなら、かぐや……そなたにはこの髪飾りを贈りましょう」
それは美しき花……の蕾の姿に作られた簪。
「母は、この日を楽しみにしていたのですよ」
そう言って彼女はかぐや姫の髪にその飾りを挿す。それは美が咲き誇るまえの内に秘めた気高さを、まるでかぐや姫そのものを象徴するかのように実に自然な結びつきでそこにおさまった。
想像していた通りによく似合っている、そう母は目を細める。
「男子三日会わざれば刮目して見よ……と言います。男はたった一つの得難い試練で大きく成長します。でもねかぐや……“女子”もまた、たった一輪の華で“女”になることもできるのですよ」
かぐやは思わず髪飾りに手を運ぶ。指先に軽く触れた花の蕾。
「それでもそなたはそなた。決して無くならないものもあるのです」
かぐやの左手が静かに下りる。己の胸元を押さえるその両手からはさっきまでの痛いほどの力は抜けていた。
「ただ無事を祈って送り出しなさい。無事に帰って来るならば、何を得ていても桃太郎は桃太郎です」
「はい……」
迷わぬ返事とともに浮かべた微笑みは母にも劣らず美しかった。
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