第2話
傾く陽が山の頂きにかかる。
幾筋もの金色の輝きが空を駆けていく。
それは真に美しき黄昏の下……
いま新たな英雄譚の幕が上がろうとしていた―――。
~
ぱしゃぱしゃと散らされ、きらきらと水が弾ける。
若者は一日の稽古を終え山を降りると、いつものせせらぎで冷たく澄んだ水に足首まで浸した。
両手で作った器にそれを掬い上げ、夕映えの空を仰ぎながら頭から浴びる。
鍛え抜かれた肉体の上を汗の輝きに新たな光を戯れさせながら、水は跳ね、伝い流れる。その光景は若者の美しさをより顕わに飾った。
―――彼は名を、桃太郎という。
物心ついた頃から父に仕込まれた武術はその身に欠くことなく修め、今では更に己を高めんと自ら研鑽の日々を送っている。
鋼と布を併せ持ったような強靭かつ柔軟な身体、それは野山の生存競争でさらに隙間なく鍛えあげられ、またその精神力は父と母の厳しい躾にたくましく磨かれている。
結わえ上げた頭髪の下できりりと走る眉、偽ることをせず謀ることをさせない切れ長の利発な瞳、力強く通る鼻梁と引き締まった頬、そして自信と優しさを感じさせる口元…… もうすぐ十五になろうかという少年は立派な若武者へと成熟しつつあった。
「―――桃……」
軽やかに揺すられた鈴のような声に呼ばれ、桃太郎は濡らした顔と眼差しを上げる。その瞳に映り込んだのは一人の娘の柔らかな微笑みだった。
「かぐやか」
慎ましやかながら飾りのない笑みを湛えた彼女もまた、彼と同じく十五の歳を迎えようとしていた。
名を、かぐや姫。
少女から日増しに殻を脱ぎ捨てていく羽化の頃……掛け値なく美しい娘だ。
ひとたび町へと下りれば道行く誰をも振りかえらせ、多くの男達に慕情を、娘達には憧憬を抱かせた。
背中で静かに揺れる黒髪は澄み、陽の輝きを滝のように滑らせる。
そして絹の手触りを確信させる瑞々しい肌、その上に形作られた可憐な面立ち。
その美は無論生来の授かりものでもあるが、しかし内から滲みだす聡明さや正直さこそが一見で人を惹きつけてしまう所以であることも間違いなかった。また、彼女と向きあう機を得た者は皆それ以上に、麗しい双眸の奥に湛えられた慈愛の輝きに気付かずにはいられないのだった。
……そんな誰もが傍らに身を置きたくなる開花前夜の大輪が、まだその自覚もなく、家族愛だけを糧に日々を重ね育んでいく。
そして今日もまた双子の兄の傍へと歩み、寄り添う。
桃太郎は彼女が差しだした手拭いを受け取ると身を拭う。顔、裸の上半身。
肌に残る幾らかの水滴が名残惜しむように彼の肉体を輝かせる。
「ありがとう。もう今日の
兄を見つめていたかぐや姫はうっすら紅の差した頬でたおやかに笑む。
「今日は都からお武家さまが来ているんです。兄上も早くお戻りください」
兄上と呼ばれて桃太郎は気を引きしめる。脱ぎ下ろしていた上半身の着物を引き上げると袖を通し身なりを整えた。
「大切な御用でいらしたんだな。急ごう」
彼が首から外した手拭いを受け取ろうとかぐや姫が手を差しだす。桃太郎はその手を取って足早に歩き出した。
「あ……」
「……ん?」
「……いえ、なんでも……ありません」
彼女は僅かにうつむくと、力強く引くその手をそっと握りかえした。
「ただいま戻りました」
引き戸を開けて玄関に入り、桃太郎は板間に腰をおろして
後ろではかぐや姫が両の手を添え丁寧に戸を閉めた。
座敷には老齢の父と母が並んで座り、その向かいで立派な身なりの武士がちょうど茶をすすっていた。
二十代半ばだろうか。
衣装や傍らに並べられた大小を見ずともひとかどの侍であることを悟らせるような雰囲気がある。
上半身の大きさは力を、美しい姿勢は気品を、振り向いた顔つきは知性を漂わせていた。
「お邪魔いたしております。それがしは
湯呑みを置く所作すら町人とは違う。そして腰を僅かに浮かせて桃太郎に向きを変えると一つ会釈をした。
「今しがた桃太郎殿のことを伺っておりましたが……いや、想像以上にご立派な若武者ですな。これは期待が……」
その眼が桃太郎の背後から現れたかぐや姫に留まるや微かに息を呑む。
「なんと…… これは聞きしに勝る美しさ……」
双眸が一回り開かれて彼女へ釘付けになった。
「その子がかぐや姫です。桃太郎と同じく
老いた母が穏やかな笑みを浮かべて言い足す。
金時は驚きをもって振り返った。
「なんと……! このお二人がまだ十四ですか。これは、
再び桃太郎とかぐや姫を見比べて感嘆のため息をこぼす。
「二人ともこっちにきて座りなさい。特に桃太郎には大切な話だ」
未だ一言も発せずただ背筋を伸ばして並んでいる二人に、父は真剣な面持ちで手招きをした。
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