第5話 夢見る姫君

 ふわふわと揺られているのが、心地好い。

 とくんとくんという耳に当たる音が優しくレイリーンを包んで、これ以上ない安心感を得た。今の状況を手放したくなくて、浮上しようとする意識を自らの意志で沈めにかかる。

 そうして、夢を見たのだ。

 懐かしい、過去の夢を。


 レイリーンはその時、木にしがみついていた。自ら登ったのだ。登りたくて登ったわけではないが。

 彼女のしがみついている更に上、小さな少女が手を伸ばしたくらいでは届かない位置に、キラリと光る何かがある。それを取るために、膝丈のレースが沢山付いたお気に入りのドレスが汚れる事も、危険であることも無視して登り初めて、結果、途中で怖くなり動けなくなってしまったのだ。

 木の下には、彼女が初めに踏み台にした、木の箱がある。そしてその回りには、彼女よりも少し年上の少年が二人いた。

 少年の一人が、彼女が登るその木を蹴飛ばした。子供の力だ。揺れるほどの威力はない。が、それを目の端に捉えたレイリーンは

「やめて! ゆらさないで!」

 半泣きになりながら訴えた。

 思った以上に高く感じて、怖くて怖くて堪らなかった。もし落ちたらどうなるのか。

「おねがい! 本当にやめて!」

 二人の少年が、今度は二人がかりで木を押して揺らしにかかる。

 何かイヤな事を言われてるが、恐怖で恐慌状態のレイリーンには分からなかった。ただ、少し揺れたような気がして必死で木にすがりついた。

「やめて! やめて! やめて!」

(だれかきて! お兄様! ヨシュア!) 

「あ、アイリスぅ…うっ…」

 いつも傍についている乳兄弟にも相談しなかったのは自分なのに。泣きそうになるのをぐっと堪えてただひたすらに木にすがった。

 少女の懇願を無視して、少年たちは底意地の悪い顔でこの少女をどういたぶってやるかに夢中だった。

 本当に落とすわけにはいかない。第三妃とはいえ王族の直系の娘に怪我をさせては言い訳が出来なくなる。こんな小さな少女を虐めるような馬鹿でもその程度の悪知恵は働くものだ。

「オレ達の力じゃそうそう折れたり揺れたりしやしないって」

 そう言いながらも、渾身の力を込めれば、がさがさと葉がしなった。

 木の上のレイリーンが息を飲んだのが伝わってきて少年達は可笑しそうに嗤った。

 自分達の起こす行動が、少女に影響を与えている。それもただの娘ではない。一国の王の子なのだ。

 この国で一番偉い人の子供を怯えさせ、手玉に取ることが出来るなんて、そうあることじゃない。ここ何日かの滞在期間中に少年らの父は、彼女の母やその祖父母にへこへこしていて、正直面白くなかったのだ。うちは伯爵家より爵位が上なのに! 彼らは単純にしか物を考えれない馬鹿な子供だった。

 そうして、少女を少しばかり困らせてやろうと思った二人は、彼女が大事にしていた毬を木の上に投げつけてやったのだ。 まさか姫君自らが木登りを始めるとは思いもよらなかったが。

「あーいい気味」

 ひとりがそう言えば

「もうしばらく、そうしていらしたらいかがでしょう?」

 もう一人はわざと丁寧な口調で木の上に声をかける。

「…そんなぁ…」

(どうして誰も来ないの? いつもならすぐに私を見つけに来るのに)

 どんなに上手く隠れても、いつだって誰かに見つかってしまうのに。

「まあ、姫様!」

 そういって屋敷に仕えるものが、どこからともなく現れる。続く言葉は、

「先生がお待ちですよ」

 が多いが。

(今日は特別なお客様がいらしているから、探しに来てくれないの?)

 大人達は客人に係りっきりだろうが、アイリス達、子供達までそうとは思えない。

「…アイリスゥ…助けて…」

 同じ年の乳兄弟は気が強くてしっかり者だ。いつだってレイリーンの味方で、助けてくれる。こんな木だって、彼女ならするする上れてしまうのだ。

「…うぅっく、あ、アイリスゥ…」

 ついにはしくしく泣き出してしまった。下の少年達は、泣き出したぞっと悦んだ。自分達が姫君を屈伏させたような気になって、さらに囃し立てた。

「そこで何をしている!」

 場が静まり返るほどの強い口調だった。

 木の上のレイリーンもびくりと身を震わすほどの叱責が、少年達に降りかかる。ついに少年達の騒ぎに気付いた誰かがやって来たのだ。

 少年らはさっさと逃走した。まだ声の主が少しでも遠くにいるうちにと言わんばかりの遁走に、レイリーンも木の上で唖然としてしまった。

「何だったんだ、あれは?」

 木の側まで、異常がないか確認に来たようだった。呆れたような呟きがレイリーンの元に届いた。が、彼女は助けてくれとは言えなかった。

 見たことのない人物だったのだ。

 黒い髪がレイリーンから見える。服の色も濃い緑色で、作り的に騎士のようだった。

「……んっ…」

 息を殺して彼に見つからないように。そう思っても、喉元に競り上がる嗚咽が小さく洩れ、緑の騎士は木の上を仰ぎ見た。

 目と目が合う。濡れた瞳と困惑の瞳だ。

 騎士と言ってもまだ若い。レイリーンの兄よりは上くらいか。黒髪の下に、生真面目そうな黒目が少女を見上げている。

 どう声をかけるべきか、暫しの間があった。

「…降りられないのですか?」

「……」

 頷くだけで精一杯だった。


 彼とはその一度しか会ってない。

 あのときの事は秘密なのだ。

 さりげなく、兄に

「緑の騎士団ってありました?」

 ときいたことがある。

 ディルダーク王国の騎士団は三つ。

 紫紺のトーア騎士団。

 深紅のミリア騎士団。

 純白の近衛騎士団。

 それ以外には各貴族がもつ私設騎士団だ。

「緑の騎士団は聞いたことがないなぁ」

 それが兄の返事だった。

 

 ならばあの騎士はどこのだれだったのだろう?

 名前を聞くこともできなかった。

 あの日あの時、すぐに誰かに聞けばわかっただろうに、と後悔した。

 いつか、逢えたらいい。そんなふうに、夢見ていた。


 本人は無自覚ながら、初恋だった。


 大切な思い出が甦る。

 きっと黒髪を見たせいだ。

 そして、婚姻と言うしがらみを背負ったせいだ。


 もう、彼に逢いたいだなんて、思ってはいけないせいだ。

 


 

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