第12話 浮上した真犯人

 その夜、深夜一時を過ぎても、光智はベッドから出ようとしなかった。事件の推理に没頭していたのである。

 堀尾貴仁に関して、個人的な恨みに限れば、買収された企業関係者のアリバイは裏付けが取れていた。日本警察の能力からすれば、捜査に見落としでもあったとは思えない。

大王組が葛西彰吾の他に別働隊を送っていたのか、とも考えてみる。

 それは十分考えられた。通常、敵対する組織の幹部の命を奪う場合、いわゆるヒットマンと呼ばれる暗殺部隊は、三人から五人を一組として、最低でも三組以上編成される。自宅と愛人宅、そしてホテルやゴルフ場など、臨機応変に襲撃機会を窺う機動部隊の三組である。

 したがって、葛西の他に暗殺部隊を送っていたとしても不思議はないが、堀尾は一般人である。組織の関与を極力薄めたいことからして、葛西が失敗した場合に備えることはあっても、同時に別部隊を送り、葛西の先回りをして実行することは考え難かった。

 行き着く先のキーワードは、『BM』の文字ということになったが、光智は単純なブック・メーカーのイニシャルだとは思えなかった。ブック・メーカー事業絡みの犯行だとすれば、加賀見雅彦が殺害される理由が見当たらないのだ。

 二つの事件は何の関連もないのだろうか、と視点を変えてみるが、それでは二人に共通する『BM』の文字の説明が付かなくなる。三月二十八日に堀尾と加賀見の両者が共にBMの文字を残していたことも、偶然にしては出来過ぎの感が否めない。

 光智は未だ姿を隠している、BMなる者の影を意識せずにはおれなかった。

「いやだ。擽ったい」

 目を覚ました恭子が、顔を赤らめて言った。

「ごめん。起こしちゃったね」

 光智は、照れ隠しをするように手を引っ込めた。

 恭子が目を覚ますのも無理はなかった。光智は、思案に耽っている間、ずっと彼女の豊かな乳房を弄っていたのである。横浜の事件以来、上杉母娘は安全を期して、光智のマンションで同居をしていた。二人にはトイレ、シャワールーム付きのゲストルームが一部屋ずつ用意されたが、恭子は毎晩のように光智のベッドに潜り込んで来た。

 光智は玲子の手前もあって、恐縮することしきりだったが、彼女は平然と寝屋を共にしにやって来るのである。当の玲子はといえば、彼女もまた顔色一つ変えず容認していた。

 光智が無意識に女性の乳房を弄るのは、彼の幼児体験に遠因があるのかもしれなかった。

 赤児は母の乳房を見分けるという。母乳の匂いや味を嗅ぎ分けるのだが、胎児としてお腹の中にいるとき、母体から供給される養分の味が脳に染み付いているかららしい。然るに、光智は生まれてわずか数ヶ月で、生みの母と引き離された。彼が、本能的に母の乳房や乳首を求めていたとしても、誰がマザーコンプレックスなどと嘲弄できるだろうか。

「株は大丈夫なの?」

 恭子は光智を覗き込むようにして訊いた。ニューヨーク市場がオープンしているのだ。

 だが光智は、

「株かあ。正直に言って、それどころじゃないよ」

 と気乗りのしない返事をした。

「また村井さんに怒られるわよ。さあ、ディーリングルームへ行って」

 恭子は両手で光智の背を押し、ベッドから押し出そうとした。

 光智は、ニューヨーク株式市場をチェックしていないことで、村井から叱責を受けたことがあった。村井は、たとえ光智といえども怠慢を容赦するような男ではない。だからこそ信用できるのだ。

 恭子に促されて、光智がベッドから起き上がった、そのときである。彼の脳裏に閃きが奔った。

――……株? そうか、なぜ今まで気づかなかったのか。

 光智は、急いで村井に電話を掛けた。

「村井さん。十五年前、堀尾さんがどこから資金を調達したかは不明でしたね」

「ええ。様々な憶測はありましたが、結局不明のままです」

「闇資金が流入したとも噂されたようですが」

「それは有り得ません。今回、奈良龍明なる男が関わっていたと知って驚いているぐらいです」

 村井は強い口調で断言した。

 約四年前、堀尾を仲間に引き入れる際、徹底的に身辺調査をしたが、それらしい影は浮かばなかった。

 光智も同感だった。最終的に、堀尾はかなりの損失を被っていた。もし、裏社会から資金を得ていたとしたら、無事で済む額ではなかった。仮に、そのときの損失を保留していたとすれば、昨今の彼の活躍振りを見て、当然損失回収に出るはずだが、そのような動きは無いように見受けられた。

 いったい堀尾に資金を提供した人物は誰なのか……?

 光智は事件の謎を解く鍵は、そこにあるような気がした。


早朝、光智の足は帝都大学の学生部に向かっていた。二つの事件の鍵は、十五年前にあると狙いを付け、当時の堀尾を探る上で、もっとも事情通と思われる、当時学生部課長だった辻見克久の許を訪れるためである。    

「本宮真奈美は白のようだの」

辻見は、光智の機先を制するように言った。

「なぜ、そのことをご存知なのですか」

「自首したと耳にして気になっていたのだが、お前からは何の報告も無いし、警視庁に直接問い合わせしたのだ」

「申し訳ありません。いろいろとあったものですから。しかし直接って、部長は警視庁にも人脈があるのですか」

「ああ、これでな」

 辻見は拳を擦りながら言った。三年前まで、彼は警視庁において空手の指導をしていた。その縁で親しくしている刑事が大勢いたのである。     

「それより、お前がそれだけのことでやって来るはずがない。今日は何の願い事だ」 

 相変わらず、ぶっきらぼうな言い様である。 

 光智は、堀尾と加賀見が殺害された事件を同一犯と捉え、十五年前の二人の接点を探っている旨を伝えた。

「接点か。堀尾はしょっちゅう加賀見食堂で飯を食っていたな。俺も学生食堂ではなくて、加賀見食堂へ行っていたから、よく堀尾と顔を合わせたぞ」

 期待に反して、おざなりな言い方だった。

「お言葉を返すようですが、それは堀尾さんに限ったことではないでしょう」

 光智の口調には棘があった。苛立ちを隠し切れなかったのである。しかし、辻見の眼つきが鋭く反応したのを見て、すぐに口調をあらためた。

「二人の間に特別な関係は無かったでしょうか」

「そこまではわからないな」

「では、堀尾さんのことで何か噂を耳にしたことはありませんか。ほんの些細なことでも構いません」

 光智は根気良く訊いた。彼から手掛かりが掴めなければお手上げとなるのだ。

 辻見克久は光智の必死の形相にも、眉一つ動かすことがなかった。無造作にタバコを口に銜えて火を点けると、宙を見るようにして一服した。

 光智は、一連の所作を見守りながら、辻見の唇が動くのをまった。すると、ようやく辻見の視点が光智に戻った。

「噂よりも、一度だけ彼から直接聞いた話がある」

 それは、と光智は前のめりになった。彼が期待した言葉だったのだ。

 堀尾は四回生になるとき、取得単位を間違えて履修届けを提出したため、危うく単位不足で留年しそうになった。運良く職員が気付いたので、辻見は特例で締め切りを延ばした。そこで、翌日あわてて学生課へやって来た堀尾と、ゆっくり話をする機会ができたというのだ。

「どんな話をされたのですか」

「あいつが投資研究会を作り、兜町で旋風を巻き起こしていることは耳に入っていたのでな。金の出所はどこだ、と訊いてみた」

 まさに光智の知りたいはそれであった。

「それで?」

 光智は息を詰めた。

「はっきりとは言わなかったが、群馬の大地主が出資してくれた、とか言っていたな」

「名前はわかりませんか」

「聞いたような気もするのだが、思い出せんな」

 辻見は首を傾げた。その表情は焦らしている風ではなかった。

「では、他に何か手掛かりになることはありませんか」

 銜えタバコで一点を凝視していた辻見が、再び視線を光智に戻した。

「そういえば、出資者が所有するの山林の一部がダムの建設用地として買収されたとかで、大金が手に入ったようなことを言っていたな」

「間違いないですか」

 光智の声に力が籠った。

「おお。多分な」

「助かりました。有難うございます」

 光智は礼を言った後、余計な口を利いてしまった。

「しかし、当時株式投資を裏で仕切っていたのが堀尾さんだったことを、部長がご存知だったとは驚きました。何せ極々少数の者しか知らない事実ですから」

 光智は感心したつもりで言ったのだが、またも辻見の顔色が変わってしまった。

「おい、そう俺を馬鹿にするなよ。お前ほど優秀ではないが、こう見えて俺も帝都大学出身なのだぞ」

「馬鹿にするだなんて、とんでもありません。部長は、実に様々な分野の人脈をお持ちだと感心しただけです」

光智は泡を食ったように弁明した。

「良いか、別当。何といっても、帝大出身者はこの国のあらゆる中枢にいる。学生部の部長っていうのは信用があるらしく、現役生だけでなく、卒業生からも色々と情報が舞い込んで来る。むろん玉石混合で、全くの作り話もあるが、中には警察でも及ばないような内部情報を掴むこともできる。株のインサイダー情報なんて日常茶飯事だ」

 辻見はそう言った後、言葉を返せない光智を見るや、

「とまあ、偉そうなことを言っても、堀尾の件は当時関東証券の株式部長をしていた池尻が空手部の後輩だったというだけのことだがな」

 と自嘲気味に一言を付け加えた。

「それは学生部長の肩書ではなく、辻見さん個人の信用によるものでしょう」

 光智のお世辞混じりの一言にも、

「ふうん」

 辻見は含みのある笑みを浮かべただけだった。

「ともかく、勉強になりました」

光智は直立して頭を下げ、退出しようとした。そのときである。

「別当、ちょっと待て。もう一つお前の耳に入れておくことがある」

そう言って呼び止めた辻見が、思わぬ言葉を吐いた。

「先日はうっかり失念していたが、以前結城真司も本宮真奈美の住所を訊ねてきたことがあった。ストーカー行為ということもあるから、職員が断ったが、一応課長を通じて俺の耳にも入っていた」

 光智に衝撃が奔った。

「真司が? 何時のことですか」

「そうだな、一年近くも前になるかな」

「それは、間違いのない話ですか」

 光智の声が昂じていた。

「お前、何をそんなに驚いているのだ。まさか、結城も今回の事件に関わっているのか」

「いえ。そう言う訳ではありません」

 光智は言葉を濁して取り繕うと、出口へと向かった。そして戸を半開きにしたところで、

 あっ、そうだと思い出したように身を翻した。

「私も忘れていたことがありました。部長は父の友人らしいですね」

光智はこれ見よがしに言ったが、辻見は口元を少し綻ばせただけで、無言まま受け流した。

 部屋の戸を閉めた途端、光智の胸は鈍い音を立て始めた。

 十五年前、群馬県の大地主で、ダム建設のため土地を売却した者。これだけの情報があれば、該当する人物を割り出すのは難しいことではない。

 だが、その一方で結城真司が本宮真奈美の行方を捜していたというのはどういうことなのか。結城家は、四年前に彼女との養子縁組を解消している。このとき真司は、どういうわけか彼女の行き先を知らされなかったということになる。

 そして一年前、真司は本宮真奈美も帝都大学生であることを知った。真司は、加賀見食堂で彼女と巡り会ったのかもしれない。そうだとすると、彼女が加賀見食堂を辞めたのは、真司から遠ざかるためだったとも考えられなくはない。真司が秘匿していたことからして、二人の間には何かがある。

 次々と湧き出る疑惑に、光智の胸は鉛を飲み込んだように重かった。


 中筋博司と都倉正義は、ブックメーカー事業のライセンス取得者である今津航のマンションを訪れていた。何度電話をしても、いっこうに繋がらないのを不審に思い、事情聴取の際に聞いていた住所を訪ねることにしたのである。

 インターホーンを鳴らしたが、やはり応答は無かった。管理人に鍵を開けてもらい、中に入った二人は異様な光景に目を剥いた。三間ある部屋の全てが、足の踏み場も無いほど、荒らされていたのである。

 棚という棚、あらゆる引き出し、DVDやCDのラックまで、散らかし放題に物が散乱していた。

中筋は、一目で強盗ではないと直感した。たとえ金品が紛失していても、別の目的物を物色した痕跡を隠す偽装工作だと確信した。

ほどなく、都倉がある異変に気づいた。

「中筋さん。パソコンが見当たりませんね」

「最初から持っていないんじゃないのか」

「今時、パソコンを持っていないのは老人ぐらいですよ。ましてや、彼は新事業を立ち上げようとしているのですよ」

 都倉は、当たり前のこと言ったつもりだったが、中筋の癇に障った。

「老人で悪かったな」

 中筋は睨みを利かせて言った。

「そういうつもりで言ったのではありません。気を悪くしないで下さい」

 平身低頭で詫びた後、都倉は散乱した中から、ケースを取り上げた。

「中筋さん。これはパソコンのデータを保存するCD―Rという記憶装置です。これがあるのに、パソコンが無いのはおかしいです」

「今津のパソコンを盗んでどうするのだ」

「犯人は、中に重要なデータが入っていると考えたのでしょう」

「パソコンの中のセキュリティはどうなっているのだ」

「もし、他人に見られたくないデータがあれば、所有者はパスワードを設定することができますが、盗む側の技術が高ければ、そのパスワードを解析してしまいます。その最たるものがハッキングです」

「なるほど。今津が所有している重要なデータとなれば、さしずめブック・メーカー事業ということだろうな」

 中筋は、さっそく鑑識員を呼んで作業に当たらせたが、指紋等の物証は何も出てこないだろうと予測していた。それよりも、彼が案じたのは今津の安否であった。

 外から鍵が掛かっていたということは、合鍵か今津本人の鍵を使用したと考えられる。強盗目的なら合鍵を作るかピッキングだが、何かを探しに侵入したとなると、今津が音信不通であることを考え合わせれば、本人の鍵を用いた可能性が高い。

 だとすれは、今津は何者かに拉致されたか、最悪の場合、殺害されている可能性も否定できなかった。

 本庁へ戻ると、中筋はすぐさまパソコンで身元不明の遺体を検索するよう都倉に指示した。都倉は、今津と接触した以降の二週間分のファイルをつぶさに見ていった。

 該当する遺体のファイルは十八もあった。

 あっ! 五分も経たないうちに、都倉の声が部屋中に轟いた。

「中筋さん。これ、これを見て下さい」

 都倉は興奮冷めやらぬ声で呼んだ。

「今津か?」

「いえ。それはわかりませんが、この遺体の特徴欄を見て下さい」

 モニターを覗き込んだ中筋は、その文字に目を疑った。

「なにい! 肩にBMの刺青だと。またBMか、顔写真を見せろ」

  都倉は、遺体の顔をクリックして拡大した。

「ずいぶん痛んでいるな。これじゃ、わからん。直接確かめよう。保管場所はどこだ」

「現在は、まだ水上警察署です」

「よし。今から確認をしに行くぞ」

 中筋は、新たな展開に意気込んで言った。

 中筋から報告を受けた森野係長は、石塚と都倉に鑑識員を伴い、もう一度今津のマンションに出向かせ、洗面台の櫛や、髭剃り、あるいは風呂場の排水口など、彼の物と思われる毛髪を採取するように命じ、自らは中筋と共に水上警察署へと向った。

 水上警察署で遺体と対面した中筋だったが、顔面の変形により、今津と断定することができず、水上警察署の許可を得て毛髪を持ち帰り、科学捜査研究所にDNA鑑定を依頼した。

 中筋は今津の失踪と二つの事件の関連性を探った。三者に共通するのは『BM』という文字だが、BMをブック・メーカーと解すれば、堀尾貴仁とは繋がるが加賀見雅彦とは関連性が無くなる。しかし裏を返せば、堀尾と加賀見が繋がれば、必然的に今津とも繋がることになる。

 中筋の胸には光智の言葉が残っていた。初対面のときの、二つの殺人事件は関連がある、との言葉である。それを信じれば、堀尾と加賀見の接点を握る鍵は一つしかない。

 中筋は水上警察署を出た足で帝都大学へと向った。

 都倉に連絡を入れ、正門前の喫茶店で落ち合うことにした。都倉は辻見に空手の指導を受けていたことがあり、面識があったのである。

 中筋は学生部長という大学内の事情に明るい辻見から、十五年前の堀尾の人間関係を聞き出し、大学内での聞き込みに臨む腹積もりだった。

「お久しぶりです。師範」

 辻見の姿を見るなり、都倉は直立不動で挨拶した。

 警察は完全なる階級社会、つまり縦関係で律せられている。善し悪しは別として、そうした厳格な規律がなければ、国の治安を保つことができないのだ。ある意味、極道の世界に通ずるのは絶妙の皮肉だが、決定的に違うのは、警察は不義不正を断じて許さないことである。

 辻見は一般人ではあるが、空手の指導教官だった経歴から、都倉にとっては目上の存在であった。

「本庁の刑事さんが、わざわざ足を運ばれるとは、いったい何事です。もしや、本宮真奈美に何かありましたかな」

 道場とは違い、辻見は丁寧な言葉遣いで訊いた。

「いえ、ご心配なく。おそらく彼女は不起訴になるでしょう」

 中筋は柔和な表情で答えた。

「それを伺って安心しました。では、どのようなご用件で?」

「実は、本校卒業生の堀尾貴仁と、大学前の加賀見雅彦の事件について捜査しているのですが、二人に接点が無いものかと思い、大学内での聞き込み捜査をすることをお耳に入れておこうと思いやって参りました」

「ご丁寧に恐れ入ります。殺人事件ですから、遠慮無くどうぞ」

 有難うございます、と中筋は頭を下げた。

「ところで、今から十五年も前のことですが、辻見部長さんは、二人の関係について、ご存知のことはありませんか」

 あはは……、と辻見はいきなり哄笑した。

「教官。どうかされましたか?」

 都倉が唖然として訊いた。

「これは大変失礼しました。つい、ある男のことを思い出し、堪えられなくなったものですから」

「ある男?」

 中筋は見当の付いた顔つきで訊いた。

「別当光智という本校の学生なのですが、今朝お二人と全く同じことを聞きに来たものですから」

「やはり別当光智さんでしたか」

「彼をご存知ですか」

 辻見は驚いたように訊いた。

「もちろんです。別当さんにはずいぶんと捜査にご協力頂いています。そうですか、彼も同じことを聞きに来ましたか……」

 中筋は見るからに嬉しそうに言った。


 別当光智は、群馬県に向けてタクシーを走らせていた。

 十五年前、堀尾貴仁に出資した人物は、群馬県吾妻郡吾妻町の山林王・仁多甚三郎(にたじんざぶろう)だと目星が付いていた。

 山間に入ると、車がようやく一台通れるだけの道幅になっていった。ところどころ、二十メートルに渡って、幅が二倍程度に広がっており、そこが対向車との交差区間となっていた。左手は深い渓谷が口を開けたように待ち受け、右手は陽を浴びて、眩しく光る新緑の木々が覆い被さるように迫り出していた。

 村に到着すると、光智は真っ先に村役場へ顔を出した。相当な旧家らしいので、すぐに分かると思われたが、何せ閉鎖的な村社会のこと、どこの馬の骨ともわからない闖入者がうろうろしていれば、いかなる反応があるとも限らない。

 光智は真っ先に村役場に立ち寄ることにより、まずは筋を通すことにしたのである。

 実直な彼らしい配慮だったが、そこで衝撃の事実を知ることになった。仁多甚三郎は一週間前に病死し、昨日初七日の法要を済ませたばかりだというのである。しかも、甚三郎には家族が一人も無く、広大な屋敷はいま無人となっているという事実だった。

 少なからず気落ちした光智ではあったが、とりあえず仁多家を訪れてみることにした。せっかく、ここまでやって来たのだ。全くの無駄足にならないためにも、近所への聞き込みをする腹だった。

 屋敷は村の中央にあった。二間(三、六メートル)もある欅の門を潜ると、数千坪の敷地に、広大な平屋作りの母屋と白壁の土蔵が三つあった。光智は、辺りを見渡しながらゆっくりと歩いて行った。門から玄関までの敷石の片側には、庭躑躅や牡丹が、今を盛りと咲き誇り、その美しさは主を亡くした屋敷の悲哀をいっそう浮き彫りにした。

 ところが玄関の前に立ったとき、そのような感傷を消し去る気配が伝わって来た。中から物音がしたのである。

 まさか、空き巣か? 

 加賀見食堂の場面を想起した光智は、咄嗟に後退りをして身構えたが、引き戸が開いて中から出て来たのは、初老の女性だった。

「おっ、脅かさないで下さい。どなたさんですか」

 彼女は震える声で訊いた。

「あ、はい。僕は別当といいます。びっくりさせてすみません」

 光智は平身低頭で詫びると、女性が思いも寄らぬ言葉を口にした。

「別当? もしや島根の?」

「そ、そうですが。ご存知なのですか」

 光智は耳を疑った。

――群馬県の村人がなぜ遠く離れた島根の家を知っているのだ?

「以前、何度か甚三郎さんから伺ったことがあります。これはまた、珍しい方がお出で下さいました」

 女性の口調が少し柔らかなものになった。

「ところで、今日は仏壇にお線香でも?」

「いえ。お亡くなりになったことを知らずに、お訊ねしたいことがあって東京からやって来たのです。でも、一週間前にお亡くなりになったとか。ご愁傷様です」

 光智は、正直に打ち明けた。

「ご丁寧にどうも。どうやら、前に来た者たちとは違うようでね」

 女性が怯えたのは、二十日ほど前、人相の悪いヤクザ風の男たちがやって来て、仁多家のことを嗅ぎ回っていたからであった。

「私は、決して怪しいものではありません。先ほど、村役場にも挨拶して参りました」

「村役場に……、そうですか。ええ、お宅さんが違うのは観たらわかりますし、嘘を吐いているようにも観えません」

 彼女はそう言ったが、いくら別当家の者であっても、光智が他所者であることに変わりはない。彼女は、警戒の姿勢を完全に解いたわけではなかった。

「でも、東京からわざわざおいでになったのに残念でしたね」

 はい、と頷いた光智は、

「折角ですので、故人に回向して帰りたいのですが」

「それはそれは、ご奇特なことでございます」

 と、女性は仏壇の間へと案内した。

 光智が線香を上げている間に、女性がお茶を用意した。

「お手数をお掛けします」

 光智は、謝辞を述べてから湯呑を啜った。

「大変失礼ですが、貴女は仁多甚三郎さんとどのようなご関係でしょうか」

 光智は、慎重に言葉を選んだ。

「近所の者で小里(こざと)といいますが、初七日も終わり、故人の遺言に従って、整理を始めているところです」

「では、少しお訊ねしても宜しいでしょうか」

「どのようなことでしょうか」

「仁多家あるいは仁多甚三郎さんに関して何か御存知のことはないでしょうか」

「はあ……」

 女性は当惑した顔を向ける。

「仁多家の由緒とか、甚三郎さんのお人柄とか……」

「故人の供養になるのでしたら……」

 と、女性は故人を偲ぶかのように、薄れ掛けた記憶を紡いだ。

 仁多家の先祖は、島根県仁多地方の上正(かみしょう)という屋号の大庄屋であった。江戸時代の末期、その上正家に俊英が生まれる。明治の初頭、廃藩置県によって群馬県の県令となった仁多英吉(にたえいきち)である。総領、つまり跡取り息子として生まれた英吉であったが、頭脳明晰で尊皇攘夷の義憤に溢れた彼は、十八歳のとき、大志を抱いて故郷を離れ、長州の松下村塾の門を叩いた。歴上有名な吉田松陰が開いた私塾である。

 島根県仁多地方は、元は毛利家の支配地であったため、長州藩には伝手があったこと、またこの私塾は、武士や農民の身分を問うことのない開かれた塾であったこともあり、入塾が認められたのだった。

 やがて没落した下士株を購入し、身分を武士の末端に改めた彼は、奇兵隊へも入隊した。その後の長州征伐や戊辰戦争において数々の軍功を挙げた英吉は、まさに破竹の勢いで出世街道を邁進する。

 そしてついに、明治新政府から群馬県令の辞令を受けることになったのである。

現在の県知事である。 

 それを機に、英吉は群馬に骨を埋める覚悟を決めたのだが、そのとき故郷の名を懐かしみ、姓と屋号を『仁多』と改めたのである。

 英吉の子孫である仁多甚三郎は、仁多家の歴史を語ったとき、同じ島根の旧家である別当家との因縁も口にしていたのだという。 

 なお、上正家は英吉の実弟が継いだが、賢兄愚弟とはこのことで、放蕩三昧の末に身代を潰してしまった。

「別当(うち)の家とは、そのようなご縁がありましたか」

 光智は不思議な縁に、何かに導かれたような心地だった。

「ところで、村役場で聞いたのですか、甚三郎さんにはご家族がいらっしゃらないとか。この家はどなたが後を継がれるのでしょうか」

「誰もいらっしゃらないのです。ですから、全ての遺産は京都の万臨寺とかいうお寺に寄付されると思います」

 甚三郎は遺言書を残しており、後日顧問弁護士によって公表される運びとなっていたが、達者な頃は年に五、六度、わざわざ京都まで祈願に出かけるほどの熱心な信者であったことから、万臨寺への全額寄付というのが巷の専らの見方であった。

「しかし、代々守って来られた先祖の山林を受け継ぐ者がいないというのは、さぞやご無念だったでしょうね」

「はい。一ヶ月ほど前までは、跡継ぎが居られただけに、その方が亡くなられたのが相当ショックだったようで、ご自分の寿命も締められてしまいました」

「後継者が居られたのですか」

「甥っ子が一人居られました」

 彼女は沈んだ声で言った。

 仁多甚三郎は、四人兄弟の三男だったが、まず次男が戦争で亡くなり、次いで長男が病死し、家を継いだのだという。末っ子の妹が居たが、すでに亡くなっていた。本人には子が無く、身内としてはその妹の子が一人居たが、その甥も一ヶ月半前に亡くなったのだという。

「せっかくの後継者に先立たれたのは残念でしたね」

「それも、酷い死に方をされましたので、よけいでした」

そう言った後、彼女は後悔したように手で口を塞いだ。

「酷いとは、どのような?」

 光智は控え目に訊いた。

「何と言って良いのか」

 彼女は、やはり躊躇っていた。

「事故か、何かですか」

光智は水を向けてみた。すると、彼女の重い口が開いた。

「いえ、殺されたということです」

「殺された? どうしてですか」

「それが、警察でもわからないようです」

「わからない……? ちなみに、甥御さんは甚三郎さんと同居されていたんですよね」

 いいえ、と小里は首を横に振った。

「甥御さんは東京にお住まいでした」

「東京……、一か月半前?」

 あっ! ゾクゾクっと、背筋に戦慄が奔った。

「もしかして、その甥御さんというのは、帝都大学前で食堂を経営されていた加賀見雅彦さんではないですか」

「そ、その通りですが。お宅さんは雅彦さんをご存知なのですか」

 驚いた彼女は、光智を凝視した。

「はい。私は帝都大学生で、加賀見食堂にはよく通っていました」

 光智は学生証を見せた。重宝なもので、帝都大学の学生証は江戸時代の通行手形のように身分を保証してしまう。帝大生=信用がおける、という方程式が成り立つのだ。

 特に、地方の田舎の純朴な人々には絶大である。むろん幻想には違いないのだが、やはり彼女の警戒の鎧を解くのにも効果覿面だった。

「それは、それは……」

 彼女の物腰が柔らかくなった。

「実は、私が仁多甚三郎さんにお聞きしたかったのは、まさに加賀見さんのことについてだったのです」

「そうですか。それで、どのようなことをお知りになりたいのですか。私が知っていることでしたらお話いたしますが……」

 小里という老女は、見るからに人の良さそうな顔つきで言った。

「貴女が?」

「私は、二十年前からこの家のお手伝いをしていましたから、たいていのことは見聞きして来ています」

「本当ですか。では十五年前、甚三郎さんが、堀尾貴仁という帝大生に金を援助したということはなかったでしょうか」

 光智は期待に胸を弾ませて訊いた。

 だが、小里の反応は鈍かった。

「十五年前……、帝大生の堀尾貴仁……、援助ですか。記憶にありませんね。偉そうなことを言って、申し訳ありません」

 彼女は気まずそうに言った。

「とんでもありません、どうか気になさらないで下さい」

 光智はそう言って小里を気遣うと、ポケットから一枚の写真を取り出して、 

「では、この顔に見覚えがありませんか」

と訊いた。

「ああ。この人なら、雅彦さんがよく一緒に連れて来ていました」

 光智の目が光った。

「間違いありませんか。彼が堀尾貴仁というのです。大切なことなので、よく確認して下さい」

「間違いありません。堀尾貴仁というのですか、甚三郎さんは『たか君』と呼んでいましたから、思い浮かばなかったのです」

「なるほど、愛称で呼ぶほど親しかったのですね」

「ええ、それはもう」

 女性は大きく頷きながら言った。

 母が広島と近隣の島根仁多地方の生まれという奇縁が元で、堀尾貴仁は仁多甚三郎と一気に親しくなり、ほどなく甚三郎の影響で、加賀見雅彦と堀尾貴仁は万臨寺に帰依した。特に堀尾は、月に二度も参拝するほどの熱心な信者になった。その後、二人は何度も泊り掛けで仁多家を訪れるようになったという。

「甚三郎さんも一人暮らしの寂しさが紛れたようで、そりゃあもう、雅彦さんとは傍目で見ても本当の伯父と甥のようでした」

「本当の?」

 光智は、言葉尻を捉え敏感に反応した。

 実は、加賀見雅彦は仁多甚三郎の末妹の結婚相手の連れ子だった。妹は、縁談に猛反対だった先代、つまり父親から勘当され、駆け落ち同然で加賀見雅彦の父と一緒になった。

 したがって、先代が存命中は、二人いや雅彦も入れて、家族三人は仁多家の敷居を跨ぐことすらもできなかった。雅彦は、そういった経緯を重々承知しており、遺産相続の件は全く頭になかったようだ、と小里は言った。

 それでも甚三郎は、自身がまだ健勝なうちは、三分の一を雅彦に相続させ、三分の二は万臨寺に寄付する腹積もりだったらしいが、一年前に大病を煩って気弱になると、万臨寺には十億円だけを寄付し、残りの全てを雅彦に譲りたいと心変わりしたというのである。

「よほど加賀見さんを気に入られたのですね」

「雅彦は良い人でしたから」

「良い人?」

 光智は、つい懐疑的な色を滲ませて言ってしまった。

 博打にのめり込んで離婚したうえに、本宮真奈美を強姦した男が……、との思いを抑えきれなかったのである。

「まあ、酒を飲まなければという条件が付きますが」

 小里は、光智の反応を見て弁解した。

「酒癖が悪かったのですか」

 はい、と小里は顔を歪めた。

「素面の時は本当におとなしい良い人でした。悪く言えばお人よし過ぎるぐらいに」

「ほう」

 光智には意外な評価だった。

「その証拠に、奥さんと離婚した原因は、人から頼まれると『いや』とは言えない性格で、あちこちで他人に金を貸しては踏み倒されていたからだそうです。奥さんもかなり我慢していらっしゃったようですが、自宅を抵当に入れ、銀行から金を借りてまで友人に金を貸してしまい、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまわれたのです」

「なるほど、そこまで……」

 ところが、『後悔先に立たず』とはこのことで、妻子を失って初めて家族の有難味を知った加賀見は、寂しさのあまり競馬にのめり込むなど、生活が荒れていったのだという。

「甚三郎さんもずいぶん心配されておられました」

 小里は慨嘆した。

「そのような方が、酒を飲むと豹変されたのですね」

「そりゃあもう、まるで二重人格者のようで、ときには甚三郎さんにまで悪態を付いていましたし、暴力的にもなりました」

「暴力的、ですか」

 光智は、本宮真奈美を強姦したのは、加賀見がそのような状態だったのかもしれないと推測した。 

「甚三郎さんも、極力お酒を飲ませないようにしておられました」

「それでも、遺産相続をと願われたのですね」

「甚三郎さんも、大変にお心の優しいお方でしたから、妹さんの生涯を不憫に思われたこともあったのでしょう。甚三郎さんの必死の願いに、ようやく雅彦さんも受けることにされたのです」

 小里はしんみり言った後、はたと両手を叩いた。

「そういえば、二、三度別の若い男性が加わっていることもありました」

「他にも仁多家を訪れた人がいたのですか」

「四十手前ぐらいの……、確かオオキ? いや、アオキだったかしら」

 もしや……、光智に閃きが奔った。

「もしかして、ユウキではありませんか」

「ユウキ? そのような気もしますが、はっきりとは思い出せませんね。すみません」

「とんでもない。大変有難うございました」

「お役に立てましたか」

 小里は不安げに訊いた。

「はい。私の知りたいことは、全てお話をして頂きました」

「それは、ようございました」

 彼女は安堵したように言った。

「ところで、これはお答え難ければ、結構なのですが、ちなみに仁多甚三郎さんのご遺産はどれくらいなのでしょうか」

「調べればわかることですからね。現金で八十億円余りと、他に山林が約八十万坪です」

「ほう。それはまた、凄い遺産ですね。いやあ、助かりました。お蔭様で、加賀見さんを殺害した真犯人に一歩近づきました」

「真犯人って、お宅さんは帝大の学生さんじゃないのですか」

 小里が目を丸くする。

「そうですが、探偵の真似事をして警察に協力しているのです」

 光智は茶目っ気たっぷりに言った。

 あれま……、彼女の口は、しばらくの間半開きのままだった。

  加賀見食堂へ通っていた堀尾貴仁は、何かのきっかけで主人の加賀見雅彦と親しくなった。その加賀見が仲介して、仁多甚三郎に堀尾へ出資させたのは間違いない。もう一人の三十代後半の男性と言うのは、おそらく真司の父慎吾だろう。結城慎吾が関西精機の買収に加わっていたとすれば、同じ子を持つ親として、本宮真奈美を不憫に思い、贖罪のつもりで彼女を養女にしてもおかしくはない。

 ともかく、これで堀尾貴仁と加賀見雅彦が繋がった。

 だが、それをもって大王組の犯行とするのは無理がある。大王組には、加賀見まで殺害する動機が無い。加賀見が莫大な財産を相続することを知っていたのなら、むしろ堀尾亡き後、今津航へのスポンサーとして取り込むはずであるし、知らなかったのなら、人畜無害の彼まで手に掛けることはない。

 大王組以外で、ブック・メーカーと関連があり、加賀見が莫大な財産を相続することに脅威を感ずる者――。しかも、二十日前に仁多家を調べに来たということは、加賀見雅彦と仁多甚三郎の関係を知り得ることができる人物……。

 光智の脳裏に、おぼろげながら犯人像が形作られていった。 


「お客さん。用事はうまくいったようですね」

 車が走り出してまもなく、運転手が声を掛けてきた。 

 ええ、と光智は生返事をした。

 十五年前の関西精機の買収に関わった三人のうち、堀尾と加賀見が殺害された。もしかすると、堀尾は昔の誼で、結城真吾にもブック・メーカー事業への出資を求めたのかもしれない。怨恨にせよ、事業絡みにせよ、真司の父真吾の身が危ないことには変わりがない。光智は、その忠告と本宮真奈美の件を問い質すつもりで、先ほどから真司に何度も電話をしたが、いっこうに繋がらず、気が気ではなかったのである。

「行きは険しい顔をされていたので、声を掛け辛かったのですか、いまは柔和な表情なので、ほっとしました」

「そんなに取っ付き難い顔をしていましたか。大変失礼しました」

「とんでもない。そんなことは、たいしたことではないですよ」

 運転手の屈託の無い笑顔に、光智の心も和らいだ。

 ところで、と運転手が口を濁した。

「なにか?」

「後ろの車は、行きのときから着けて来ているようですが、お客さんは心当たりがございますか」

 光智は、にやと笑った。

「パパラッチみたいなものです」

「パパラッチって、お客さんは有名人なのですか」

 運転手は驚いたように訊いた。

「芸能人ではありませんが、まあ、その業界ではちょっと知られているかもしれませんね」

 光智は、護衛の龍頭だと分かっていたが、説明するのも面倒なので、そう言って誤魔化した。父英傑の判断で、龍頭の中の黄頭が光智の指揮下に入ったため、以前よりは開けっ広げに護衛に付いていた。 

 仁多家を訪れたときも、最初は門前をうろついていたが、車内へ戻るよう命令していた。

 光智はさりげなく話題を変えた。

「私のことはともかく、タクシーの運転をされていると、色々な客が乗って来るのでしょうね」

 はい、と運転手は頷く。

「一番困るのは酔っ払いですね。途中で寝てしまったり、飲食した物を戻したりして汚されると最悪です」

「わかります」

「その次はアベックです」

「アベック?」

「多少いちゃいちゃするのはかまわないのですが、中にはこちらに見せ付けるかのように、事をおっぱじめる連中もいますからね」

 と言って顔を顰めた。

「そうですか……」

 光智には返事のしようがなかった。

「アベックと言えば、最近は変わったカップルが多くなりました」

「と、言いますと?」

「この前乗せたアベックなんか、女性の方が男性よりずいぶんと背が高いんですよ。しかも女性の方はモデルのような美人で、男性の方は冴えない風体だったのですが、お互い好みが合ったんでしょうね」

「恋愛は、蓼食う虫も好き好きと言いますから」

「ほう、お若いのに古い諺をご存知ですね」

 運転手は感心して言った。

「いえ。受け売りです」

 光智は頭を掻きながら笑った。

「しかし、身長はともかく、最近は男女の力関係が逆になってきましたね。ご時勢というのでしょうか、実に嘆かわしいことです」

 運転手はやるせない表情で言った。

 えっ? 男女が逆……。光智の脳裏がざわめいたとき、携帯に中筋から連絡が入った。

「別当さん、いまどちらですか」

「群馬からの帰りの車中です」

「大地主という方に、話は聞けましたか」

 中筋は含みのある言い方をした。

「どうしてご存知なのですか」

「辻見部長さんにお聞きしました」

 中筋は、光智と同じ考えが浮かんだことを告げた。

「それで、何かわかりましたか」

 携帯を通して、中筋の期待が伝わった。

「堀尾と加賀見の接点が見つかりました」

「本当ですか!」

 中筋の歓喜の声が届いた。

「それは、遠出をした甲斐がありましたね。別当さん、こちらも新たな展開がありました」

一転、 つとめて興奮を抑えていることが伝わった。光智は、ただならぬ気配に声を低めた。

「何があったのですか」

「今津航が死体で発見されました」

「今津が……、他殺ですか?」

 光智は驚きを押し隠すように小声で聞いた。

「捜査はこれからですが、その線が濃厚です」

――今津まで殺害された。これで、大王組の目は完全に消えた。大王組がライセンス取得者の今津を殺害すれば、元も子も無くなる。

 光智は、自分の推理に自信を深めた。

「もしもし、別当さん、聞いてますか?」

  耳元で、中筋が声を張り上げていた。

「すみません。もう一度お願いします」

「今津が音信不通となっていたので、彼のマンションを訪ねてみると、何者かによる物色した痕跡がありました。そこで身元不明の遺体ファイルを検索したところ、肩にBMの刺青をした遺体が今津と断定されました」

 DNA鑑定の結果、水上警察署の遺体から持ち帰った毛髪のDNAと、今津の部屋の櫛に付着していた毛髪のそれが一致していた。

「部屋が荒らされていた、とおっしゃいましたね」

「ええ。空き巣の類ではなく、何かを探している痕跡でした」

――何かを探す? もしや……。

 光智の脳がまた蠢いた。

「中筋さん。今津の部屋から無くなった物に見当は付きましたか」

「パソコンが無くなっているようだと、都倉君が言っていました」

「パソコン……、なるほど、パソコンか」

 脳裏で、今津の殺害といつかの恭子の言葉が繋がっていた。

「パソコンを盗んだということは、ブック・メーカーに関するデータを探しているのでしょうか」

「探しているという点は間違いないですが、その目的は逆でしょう」

「目的が逆? 逆とはどういうことですか」

 意表を突いた言葉に、中筋は戸惑いを隠せなかった。

「中筋さん。電話より、夕方にでもお会いできませんか」

「望むところです。そのとき、話して頂けるのですね」

「ええ。ただその前に、まだいくつか確認しなければならないことがあります」

 光智は、今度こそ失敗は許されないとの想いを強くしていた。一度、自分の推理で捜査本部を混乱させ、中筋の立場を悪くさせている。内心忸怩たるものがあるはずだが、彼はそれを億尾にも出さない。光智は、そのような中筋であればこそ、いっそう慎重にならざるを得なかった。

「そこで、中筋さんにお願いがあるのですが」

 光智は、三点の確認を取るように依頼した。

 ウイナーズの土江社長に、堀尾貴仁のハッキングの腕前。

 堀尾が英国へ行ったとき、加賀見雅彦が同行していたか否かの確認。

 奈良龍明に、加賀見雅彦と面識があったかどうかの確認。もし会ったことがあれば、その日付。

「承知しました。お会いするまでには調べておきます」

「中筋さん。もし、三件の殺人事件の犯行が同一犯だとすれば、本宮真奈美は完全に白ということになりませんか」

 今津の遺体は、司法解剖により、死後二日との結果が出ていた。つまり、拘留中の彼女は白ということになる。

「ですが、別当さん。あくまでも、同一犯人の場合ですよ」

 中筋は念を押したが、口調は形式的なものに過ぎなかった。

「同一犯ですよ。今津が殺害されたと伺って、いっそうその意を強くしました」

「具体的な犯人像が浮かんでいるのですね」

 中筋の声には期待が籠っていた。

「はい。後ほどお話します」

力強く言い切った光智の胸中は、真犯人に肉薄している実感に満ちていた。

  

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