第11話 予期せぬ展開
翌日、東京に戻った光智は、麻布署の中筋刑事と本富士署の野崎刑事を、赤坂クイーンホテルの一室に呼び出していた。村井慶彰と共に中筋と会う約束していた彼が、野崎にも同席を求めたのである。
異なる殺人事件の捜査本部に属する二人が、民間人の同時の呼び出しに応ずることなど、滅多にあるものではないが、共に光智の着眼に強い関心を寄せていたこと、また過去に合同捜査を通じて面識があったもことあり、快く要請に応じたのである。
光智は、まず捜査上に他の有力な容疑者が浮上しているかどうかを確認した。捜査の進展如何によっては、つまり真奈美の関与の可能性が低くなった場合は、推理の内容を簡略化するつもりだったのだが、両事件とも本星まで辿り着いていないとの返答を得たため、詳細に話すことにした。
そこで、中筋と野崎に捜査員以外へ情報を漏らさぬよう釘を刺した。言うまでもなく、警察が捜査に関する個人情報を外部に漏らすことはないが、それでも光智は敢えて確認を取った。
村井慶彰がウィナーズ新社長の土江から聞いた話をした後で、自身と沙耶香とのやり取りを説明し、二つに事件には帝都大学生の本宮真奈美と葛西彰吾という若いヤクザの犯行である可能性が濃厚と結論付けた。
堀尾殺害に関しては、計画的な犯行で、動機は怨恨。加賀見殺害については、突発的に殺害に及んだものと断じた。
以下がその根拠である。
十五年前、堀尾貴仁が帝都大学生だった頃、彼は兜町で一世を風靡し、企業の買収を繰り返していた。その中に、本宮真奈美の父が経営する会社があった。村井が調査した買収企業リストの中にある関西精機の経営者こそ、真奈美の実父・尾藤哲也氏である。この時点で、彼女のイニシャルは『BM』になる。正確には『MB』であるが、最近は姓名の順で『BM』と用いることも多い。
その後、父が絶望感から自殺、夫の死に臨み精神錯乱を起こした母は、病院の屋上から転落死したため、真奈美は母方の祖父母に引き取られ、姓も本宮に変わった。
ほどなく祖父が多額の治療費を要する病魔に侵された挙句、闘病空しく亡くなったため、生活は困窮を極め、真奈美は一旦他家へ養女となるが、後年養子縁組を解除し、祖母の許へ戻ることになる。
時は流れ、真奈美が六本木のベルサイユでホステスをしていたとき、偶然堀尾貴仁が来店した。彼女にとっては、内臓をわしづかみされるような再会であったろう。
光智は、彼女はあえて旧姓である尾藤と名乗り、堀尾の反応を見たのではないかと考えた。もし、堀尾が心にどこかに、結果として両親を死に追い遣ったことを負い目に感じ、悔いる気持ちを持っていれば、自分の名前ぐらいは覚えているはずだし、たとえ名前は覚えていなくても、尾藤の名を聞けば、顔の一つも曇らせるのではないかと、様子を窺ったものと推測したのである。
だが、堀尾は何の反応も示さなかった。それどころか、のうのうと自分を口説いている堀尾に、積年の恨みが甦った。
とはいえ、彼女が殺人まで犯すとは思えないのだが、そこに葛西彰吾が関わっていた。
小学生の一時期、近所で暮らしていた二人は、運命の悪戯なのか、これまた偶然に再会し、心を通わせた。もっとも、真奈美は傷心の中にあったので、純粋な恋心だったかどうかはわからないし、葛西の方はさらに打算的だった。
真奈美から堀尾との因縁を聞いていた葛西は、大龍組からブック・メーカー事業自体の乗っ取りを企んでいた堀尾の殺害指令を受け、彼女を利用しようと考えた。堀尾に好意を抱かれていると、真奈美から聞いていたことも計算に入れてのことである。
ただ、疑問は二つあった。
一つは、堀尾が今津に株式譲渡を断られた後、どのようにして大王組外しを画策したかという事である。暴力団が最も忌むことは裏切り行為であることは言うまでもない。利害が絡んでいればなおさらである。堀尾がそのあたりの事情を知らぬはずがない。
そこで、光智は株式に詳しい堀尾ならではの手法に着眼した。さほど難しいことではない。英国のブック・メーカーは二百社あるが、全てが資本の独立した会社ではなく、その多くが大手の子会社化しているのが実態である。最大手のスタイン社も十五社の子会社を抱えており、その中には赤字の会社もあった。その辺り事情も承知していた堀尾は、独立資本を買収することは無理でも、赤字会社を買収すれば、両者にとって有益、つまりウィン・ウィンの関係になると考えた。
また、今津に提案したように、名義はそのままにしておき、株式を握る手法をとれば、大王組に気付かれることもなく、万が一気付かれたとしても、スタイン社の傘下であれば、大王組とて手が出し難くなる。何せ、スタイン社は英国最大のブック・メーカー、それはすなわち、英国最大のマフィア組織の流れを汲んでいるということなのだ。
ところが、買収が成功する前に、計画が大王組に露見してしまった。堀尾の資金力、そして何より彼の無警戒振りからすると、奈良龍明つまり大王組への出資を中止するという、露骨に彼らを刺激するようなことはしていなかったと思われる。
彼は、買収と大王組への出資の両睨みをするぐらいの知恵を働かせていたはずだ。それでも、裏切りの動きを察知した大王組の情報網は恐るべきものと言うことであろう。
もう一つは、真奈美がどのようしにて父の会社を買収し、その結果両親を死に至らしめたのが堀尾貴仁であると知ったのか、である。当時六歳の真奈美に、事の判断が十分に理解出来たかどうか疑問が残る。
いや何よりも、当時堀尾は影に徹していたのである。堀尾は帝都大学在学中に彗星の如く証券市場に現れ、一時席巻したが、自らが作った投資グループの代表を別の者に任せ、己が世間に顔を出すことはなかった。
したがって、本宮真奈美や彼女の祖父母が知る術もないはずだ。だが、堀尾に対する真奈美の態度は、明らかに敵意剥き出しである。
尚、堀尾が扱った資金の出所は不明で、裏社会との繋がりも取沙汰されが、結局真実は闇のまま、やがてバブルが弾け自己破産に追い込まれた過去を持っていた。
中筋が念を押すように訊いた。
「土江氏から話のあった、堀尾が休暇を取った日というのが、彼が英国へ渡り、ターナー社長と直談判に及んだ時期だというのですね」
「そうだと思います」
「しかし、ターナー社長が面識のない堀尾と会いますかね」
「今津が仲介すれば会うと思います」
「今津が……、しかし、今津にとっては都合の悪い話でしょう。堀尾というスポンサーが無くなるうえに、日本市場において強力なライバルとなる訳ですから」
刑事である中筋の疑念は当然だったが、
「そうとも言い切れません」
と、光智は答えた。彼の見解は違うのだ。
スポンサーの件は、奈良龍明が新しい出資者を見つけてくれば済むことであるし、ライバルの出現と言っても、それは遠い先の話で、初期段階では、むしろブック・メーカーそのものを世間に認知させる点において、歓迎すべきものと光智は考えた。
新しい分野の産業が生まれるとき、初期段階で独占してしまうと、その後の全体のパイを大きくすることに苦労することが多い。それより、同業者が増え、全体のパイが大きくなってから、シェアーを伸ばす方が、結果として大きな利益を得られるのである。
しかも、今津は金儲けよりも、日本にベッティング文化を根付かせたいという願望の方が強い、と光智は睨んでいた。スタイン社の日本担当だったとき、マスコミの取材に応じた彼は、繰り返し日本での認知を口にしていたとの情報を得ていたのである。そういう意味では、日本人初のライセンス取得者という称号を得たことで、彼の目的は一つ達成したとも言えた。
「ではさっそく、彼の入出国記録を調べてみます」
中筋は得心顔で言った。
光智は話を続けた。
「今津にとっては問題なくても、奈良と大王組にとっては寝耳に水だったはずです。とくに大王組が堀尾を始末する結論を出しても不思議ではないでしょう」
「そうなると、奈良龍明の弟の龍之に、犯行の絵図を描く統括者として、白羽の矢が立つのは自然の流れですね」
中筋は、奈良龍明の事情聴取の際、弟の名を出したときの彼の動揺を想起していた。
奈良龍之が熟考を重ねたことは、光智にも容易に想像できた。四年もの長きに渡り、山城六代目の許で極道の修行を積み、いまさら刑務所勤めを終えて箔を付ける必要もない彼が、殺人教唆・共同正犯として、長期間服役するのは間尺に合わないと考えたであろうし、大龍組あるいは大王組の使用者責任の問題もある。
そんなとき、渡りに船の情報が入った。葛西彰吾が、堀尾貴仁と本宮真奈美の関係をご注進したのである。葛西なら、あくまでも恋人の復讐に手を貸したという個人的な事情によるものにすり替えることができ、組の関与から目を逸らせることができる。場合によっては、美談にすらなりかねない。これ以上都合の良いことはなかった。
奈良龍之は、堀尾を殺れば、出所後勝栄会の幹部に推薦してやる、などと言って葛西彰吾をその気にさせたと思われた。
「防犯カメラに映っていたのは、真奈ちゃんと変装した葛西だと思います」
「やはり、そうですか」
そう言った中筋の表情は、自信に溢れていた。彼の推理とも合致していたのである。
「とはいえ、全ては私の推測に過ぎませんから、慎重な裏付け捜査をお願いします。堀尾さんが英国へ渡った事実はすぐにでも分かるでしょう」
「承知しました。ところで、BとBMに記述がわかれたのはどうお考えに?」
「たとえば、Bは電話かメール、BMはベルサイユなどで直接彼女に会ったとか、彼なりの区別する基準があったのだ思います。堀尾さんにとっては、彼女はあくまでも尾藤真奈美なのではないでしょうか」
「では、毎月三日と十四日に決まっていたのは」
「これは、真奈美ちゃんの方に理由があったと思われますが、今はなんとも……」
見当が付かないと正直に言った。
「わかりました。それも調べてみます」
中筋は気合の入った声で言った。
加賀見殺害事件についての見解を述べる前に、光智はポケットからビニール袋を取り出した。中には上杉玲子から預かった、真奈美がサンジェルマンで使用していたボールペンが入っていた。玄関と厨房の勝手口、そして帝大内の公衆電話の慰留指紋と照合すれば、彼女が現場にいたことを証明できる重要な物証であった。
光智は葛西彰吾と本宮真奈美は、加賀見雅彦を殺害する意思が無かったと考えた。堀尾の方は指紋を残していない周到さがあるが、加賀見の方はあまりに不用心過ぎるからである。
光智は二人が加賀見宅を訪れたのは、示談金を受け取るためだと推測したが、金額はせいぜい一千万円程度で、残りの二千万円は葛西が持ち去ったと考えた。
「では、当初は強盗目的でも怨恨でもなかったとして、それがどうして殺害に至ったのでしょう」
野崎はさっそく核心を問うた。捜査会議でも解けなかった謎であった。
「突発的に、葛西の怒りを買うようなトラブルが発生したのだと思います」
「私も同じことを考えましたが、納得のゆく答えが見つかりません。例えばどのような?」
「おそらく、彼女を酷く侮辱したのではないでしょうか」
光智は曇った表情で言った。野崎は気に留めながらも、先を聞かない訳にはいかなかった。
「侮辱……、人を殺したくなるような侮辱とは?」
光智は、ふっと一息吐くと、意を決したように言った。
「彼女の身体的特徴を言ったのではないかと思います。口にするのも憚られますが、加賀見は一年も経ってから金を取られる悔しさ紛れに、彼女の秘所の具合が良かったとか、身体は感じていたとか卑猥な言葉で侮辱したのだと思います」
「ちょっと待って下さい。お話ですと、加賀見と本宮真奈美は、男女の関係だったということになりますが」
野崎は念を押すように訊いた。無理のないことであろう。博打が原因で、妻に見限られた中年の親父と美人女子大生、しかも天下の帝都大学の学生である。常識では考えられない取り合わせであった。
「尋常ではありませんが、関係を持っていたと思われます」
光智の歯切れは悪かった。
「そこで、彼女を侮辱された葛西が怒りのあまり見境が無くなった、と?」
「一応、恋人ですからね。加賀見は禁句を口にしてしまったのでしょう」
「尋常ではない、とはどういう意味ですか」
「その前に、話は少し遠回りになりますが」
と言って、光智は真奈美の帝都大学入学後に遡って話し始めた。
真奈美は一年前まで、夜の三時間だけ加賀見食堂でアルバイトをしていた。加賀見食堂だけでなく、家庭教師やスーパーのレジ打ちだど休む間もなく働いた。彼女は祖母を想い、帝都大学ではなく自宅から通学できる浪速大学に進学するつもりだったが、祖母に諭されて帝都大学に進んでいる。したがって、彼女はよけいに金銭的な負担を負わせたくなかったと思われた。
そのような心優しい彼女が、突然一切のアルバイトを止め、夜の世界で働くようになり、帝都大学も休学した。沙耶香の話でもあったように、当時の彼女は、見境なく男性と関係を持つほど自暴自棄になっていたという。光智の知る彼女とは、まるで別人なのである。
光智は、二人は恋愛関係ではなく、一年前彼女の身に不幸な災難が降り掛かったのではないかと思えてならなかった。近所の聞き込み捜査で、女性の悲鳴を聞いたという証言の時期と一致する。
光智の面は、沈痛な同情の色に染まっていた。
中筋と野崎、そして村井の三人はその理由を察した。
「加賀見雅彦が彼女に性的暴行を……」
野崎が遠慮がちに訊いた。
「悲しいことですが、おそらく。幼くして両親を失い、今また祖母を亡くし天涯孤独となった直後で、精神的に落ち込んでいた彼女は、加賀見に肉親の影を追っていたとも考えられます」
「加賀見に対して、無防備になっていたのですね」
野崎も重苦しい口調で言った。
「加賀見は、夕食を共にするなどして、巧みに付け込んだのではないでしょうか」
「そうだとすると、金は慰謝料という訳ですか。しかし、一年も経ってなぜ?」
「彼女の意思ではないでしょう」
光智は苦々しく言った。
事の経緯を察した野崎は、
「これも葛西がけしかけたということですか。だから、彼女に殺意はなく助かるものならば、と消防署に通報したということですね」
と頷いた。
「加賀見が残した当日のメモのBM、金、土地というのは、尾藤真奈美に慰謝料を渡した後、上杉さんとの面会、ということではないでしょうか」
光智は、そう解釈したが、野崎は疑問を呈した。
「しかし別当さん。はたして彼女が、加賀見に尾藤と名乗ったのでしょうか」
「その点は、私も確信が持てないところなのです。彼女が身の上話の際に尾藤の名を教えたとしても、加賀見がMMではなく、BMと記した根拠とするのは無理があります」
光智も正直な胸の内を明かした。
「その点は、彼女の事情聴取をすればはっきりするでしょう」
決意を漲らせる野崎に反して、中筋は不安な表情を見せていた。
「別当さんの推理通りだとすると、二人の、特に本宮真奈美の身は危うくないですか。いざとなれば口封じをされかねません。さっそく身柄を保護しましょう」
本宮真奈美が殺害されると、真相が闇に葬り去られる可能性を心配したのである。
「いや、それは……。もし、私の推測が間違っていれば、捜査にも彼女にも迷惑が掛かります」
光智はあくまでも慎重を求めた。いくら動機と状況証拠が揃っていても、葛西彰吾と本宮真奈美に犯行時刻のアリバイでもあれば、濡れ衣となる。まずは、二人のアリバイの裏取りをしてからでも遅くはなかった。
「いえ。彼女が事件と無関係ならば、それに越したことはありません。近々詳しい事情を訊くことにもなるでしょうから、用心のため張り番を付けましょう」
中筋は、光智の懸念を押し切るように言った。
「ちょっと、待って下さい。その真奈美という女性が、加賀見食堂でアルバイトをしていたとすれば、彼女の指紋があってもおかしくないのでは?」
村井が遠慮がちに口を挟んだ。
「それは有り得ません。母屋と食堂の玄関は、敷地の真反対にあるのです。たしかに、厨房には入っていたでしょうが、厨房の裏の出入り口を使用する用事は無かったでしょう」
光智が説明すると、
「彼女がアルバイトをしていたのは、一年も前のことです。玄関のドアノブの指紋は損傷が激しくて、とても識別できないでしょう。ところが、今度の慰留指紋は完全に近い形でした」
と、野崎も鑑識結果を漏らした。
「これは、素人がよけいな口出しをしました」
そう言って頭を下げる村井に、
「いいえ。捜査にご協力頂いているのですから、疑問に思われたことはどうぞ遠慮なくお聞き下さい。私たちは捜査のプロですが、却ってそれが経験則などの先入観に囚われてしまい、柔軟な思考というものを阻害することもあります。ですから、素人さんの発想がヒントになることも間々あることなのです」
と、中筋が笑顔で擁護した。
「ところで、中筋さん。例の件はわかりましたか?」
間が空いたところで、光智が思い出したように訊いた。真奈美の戸籍謄本から、彼女が一旦養子となった先を調べてもらっていた。
そうでした、といった中筋の顔が強張った。
「それが、本宮真奈美を養女にしたのは、大手家電量販店・結城電器の社長、結城慎吾氏です」
「何ですって!」
「まさか」
光智だけでなく、村井も同時に声を上げた。
「意外な事実に私も驚きましたが、村井さんはどうして?」
光智はともかく村井が、そのように関係しているのだと中筋は訝った。
「いや。私の方は何でもありません」
村井は何事もない様に取り繕った。
「となると、結城真司と本宮真奈美は、一時期義理の兄妹だったということになるのですね」
奇妙な雲行きに光智の口は重かった。
「真司君が何も話さなかったのは、四年も前に縁組を解消していますから、ばつが悪かったのではないでしょうか」
中筋が気休めを言うと、
「では、私たちはこれで……」
野崎が腰を上げたようとした。
それを差し止めるように、光智があらたまった口調で言った。
「実は、お二人にお願いがあるのですが」
「どういったことでしょう」
「なにか」
二人の声もあらたまった。
「もし、本宮真奈美の容疑が固まったときは、自首扱いの配慮をお願いしたいのです。彼女は、私が責任を持って説得しますので……」
中筋と野崎はお互いの顔を見合わせ、
「良いでしょう。貴方にはひとかたならぬご協力を頂いておりますし、彼女には情状の部分もあるようですから、一定の時間を差し上げましょう」
と、中筋が言った。
「しかし、これは合同捜査になるかもしれませんね」
「そうですね」
野崎の言葉に、中筋も大きく肯いた。
二人が去った後のことである。
光智は村井から衝撃の報告を受ける。一時買収を中断していた牧野モーター株の値動きがおかしいと言うのだ。村井が詳しい手口調査をしたところ、関西の金一、金万、金忠証券を通じて、小口の買い注文が継続していた。
この証券三社は、以前から紀州ダラーといって、奈良の材木商が中心となった仕手筋が暗躍することで有名だったが、今回は事情が違った。村井は、今回の仕手は紀州ダラーではなく、『誠勝(せいしょう)』という投資顧問会社であることを突き止めていた。いわば、村井と同業者である。
しかも、表向きは民間企業を装っているが、その実、誠勝は大龍組の株式投資を一手に引き受ける、いわば企業舎弟のようなもので、いまや関西の名門・浪速大卒の社員も抱えているという異色の頭脳集団であった。
しかし、いかに頭脳集団といえども、牧野モーターの買収は村井の指揮の下、慎重を期していた。牧野モーターだけではない。これまでの十数社の買収工作において、最終段階までに、相手側に気付かれたことは一度もなかった。それが、動きを止めている中断期間に気付かれるということは、全くの偶然かあるいは情報漏れしかなかった。
村井は情報漏れを疑った。真っ先に疑ったのは新参の結城真司である。村井は、独自の人脈を使って、買い手口を徹底的に調査した。言うまでもなく、仕手戦というのは、力比べになれば、最終的に資金量の豊富な方が勝つようになっている。
したがって、光智の買占めの情報があれば、買い方に回るのは当然なのだが、それでも、たいていは提灯を点ける程度に終わるのが常である。
ところが手口を分析すると、十分に腰の入った買い方なのである。言うまでもなく、株価の高騰や正体の露見を避けるため、一気に買い注文を出すことはなく、値動きを注視しながら、小口の買い注文を地道に継続するのが常道である。
それでも売り注文が少ない場合は、値が上がり続けてしまうので、自ら適当な売り注文も出し、トータルで買い増して行くのである。この作業を、どれだけ世間に気付かれずに行うことができるかが、仕手筋の腕の見せ所である。
誠勝の場合、光智が売り抜ける前に売ってしまわないと、梯子を外された格好になり大損をすることになる。つまり、光智の買占めは値鞘を狙ってのものではない、ということを知っていることになった。
村井は、真司が情報を漏らしたという確証までは得られなかったが、その過程で気になる事実が判明した。
「結城電器のことで、悪い情報が舞い込みました」
「結城電器? 業績でも悪化しましたか」
「いいえ。業績はすこぶる順調ですが、大株主の中に性質の良くない会社が入り込んでいるようです」
村井の声には暗い響きがあった。光智には容易に想像が付いた。
「暴力団の息の掛かった、ということですか」
「残念ながら……」
村井は渋い顔つきをした。
彼は、堀尾の買収企業の件で関東証券専務の池尻と会ったとき、ついでに結城電器の内部情報も探ってみたのだが、その際に結城家の苦悩を耳にしたのである。 池尻の情報を元に、村井が独自に調査を進めた結果であった。
「何という会社ですか」
「いくつかに分散しているようなので、全体像は把握できていませんが、中心的な会社は東亜ファイナンスという稲墨連合傘下・郷田組のフロント企業です」
「稲墨連合……」
光智の苦渋も尋常なものではなかった。稲墨連合とは、関東を中心に全国に傘下組織を持つ、大王組に次ぐ広域暴力団なのである。上場するかなり以前、結城電器は、一時資金繰りに窮したことがあった。銀行にも融資を断られ、あわや手形が不渡りになるところを東亜ファイナンスに救われた。
東亜ファイナンスには、先見の明があった。結城電器の将来性を見越し、資金を貸し付けしたとき、ストックオプションの取得を条件にしたのである。その後、形だけの役員を送り込み、権利を行使して、大量の株式を取得した。
「持ち株比率はどれくらいですか」
「付与された株式は五パーセントですが、その後買い増しして、現在は約十パーセントだと推定されます」
結城電器の現時点の株主構成は、一族で四十パーセント、メインバンクを始めとする安定株主が十五パーセント、光智らが五パーセントの、併せて六十パーセントを占めていた。
「経営権を奪われることはないでしょうが、一定の発言権は有していますので、そのあたりが厄介な点でしょうね」
「何か無理難題を言っているのでしょうか」
「新たな共同事業を迫っている節があります」
「どのような?」
「引き続き、そのあたりを調べています。まあ、二十億は個人の金ということですから、我々の活動に影響はないと思いますが、いちおう貴方の耳に入れておこうと思いまして」
「しかし、短時間でよく調べ上げましたね」
「蛇の道は蛇、と言いますでしょう。これでも、情報で飯を食っている端くれですから」
村井は謙遜した。
「お手数をお掛けしました」
「とんでもない。ただ、先日結城君の言葉は、苦しい胸の内を正直に吐露していたのかもしれませんね」
『父は、これで結城電器も安泰だとでも思っているのでしょう』
光智もそう言った真司の卑屈な顔を思い浮かべていた。
「村井さん。お手数ついでと言っては恐縮ですが、結城電器の株を静かに拾って下さい」
「そうおっしゃると思って、勝手に拾い始めています」
村井は微笑を浮かべた。
「さすがですね」
「もう四年の付き合いですから、貴方の性分はわかっているつもりです。いざというときは、逆手にもなります」
「それは御見それしました」
光智は微笑しながら軽く会釈をした。結城電器の株を大量取得する目的は、真司が潔白であれば力を貸し、裏切っていれば圧力を掛けるという両睨みのためである。
光智は、村井の機転に感心しながらも、胸は棘が刺さったように疼いていた。それは情報の漏洩疑惑ではなく、結城家が本宮真奈美を一時期養女としていたこと、つまり真司が彼女と義兄妹であった事実を隠匿していたことによるものだった。
中筋は、ミスリードによって捜査を混乱させたくはない、との光智の言を聞き入れ、森野係長にのみ報告した。光智の推理に信憑性を感じた森野は、中筋と都倉、そして石塚の三人に裏付け捜査をするように極秘に指示した。
まず、入出国管理局によって、堀尾が三月十九日深夜に出国し、同二十二日夕刻に入国していたことがわかった。行き先は光智の指摘した通り英国だった。強行軍での渡英で、彼の地での足取りは掴めていないが、ウィナーズの仕事にそのような予定はなく、ターナー社長と面会していることが濃厚と考えられた。中筋は今津の証言を得ようとしたが、連絡が取れない状態にあった。
一方、野崎も桑原捜査本部長に報告を入れ、捜査の了解を得る。
光智から提供された、真奈美の使用していたボールペンを鑑識に回し、加賀見宅から採取された指紋との照合作業の結果、九十九パーセントの確率で同一と判定された。
以上の結果を踏まえて、本庁内に新たな合同捜査本部が設置され、二つの捜査本部の捜査員の他に、本庁四課も協力態勢を強化した。暴力団担当の部署である。捜査本部長には、本庁捜査一課長・竹中警視正が、副本部長には山根と桑原が就き、直ちに本宮真奈美を重要参考人として事情聴取をする方針が下された。
中筋からその旨の連絡を受けた光智は、自首を促すため真奈美に会った。厳密に言えば、自首とは真犯人の目星が付いていない状態での出頭を意味するのであるが、それでも逮捕前に自ら警察に出頭すれば、情状酌量の余地が生まれる。
真奈美はすでに観念していたのか、光智の詳細な説明を聞くことなく、また一言も弁明することなく素直に従った。
ところが、そこから思わぬ事態に転じた。彼女の供述は、概ね光智の推理した通りだったが、肝心の二つの事件とも殺害を否認したのである。
堀尾貴仁殺害事件については、殺害を決行しようとしていた葛西彰吾を引き止めているうちに、堀尾が何者かに殺害されたと主張し、加賀見雅彦殺害事件の場合は、金を受け取りに行ったのは事実だが、現場を訪れたときにはすでに犯行のあった後だと主張した。
特に、加賀見宅の状況については詳しく供述した。約束の時間は午後四時半だったが、十五分ほど遅れて加賀見宅を訪れた。玄関のインターホンを押しても応答は無かったが、ドアに鍵が掛かっていなかったことと、奥の方に立ち去る人の気配が伝わって来たので、奇妙に思いに中に入った。すると、奥から呻き声が聞こえたので、恐る恐る家に上がったところ、応接室で悶絶している血まみれの加賀見を発見した。
先ほどの気配は、真犯人のものだったのかと思うと、彼が戻って来るかもしれないという恐怖が襲い、とにかくその場を立ち去ろうとしたが、玄関から出れば犯人と間違われ、そうかと言って、勝手口から出れば、真犯人とかち合うかもしれない。
しばらく逡巡したが、ふと食堂の厨房裏の出入り口を思い出した。合鍵は、すでに廃棄していたが、ともかくノブを回してみた。すると、幸いにもドアが開いた。 葛西は、一旦厨房裏まで一緒に来たところで、思い出したように部屋へ戻って行った。葛西を残し、林の小道を上り切った彼女は、小走りに法学部の学舎へ向う男性の後姿を目にしたが、まさか真犯人だとは思わなかった。
葛西が気になった彼女が振り返ろうとしたとき、坂道の傍らにある公衆電話が目に留まった。彼女は、虫の息だった加賀見が助かるものならば、と思い救急車を呼ぼうと、受話器を取ってプッシュホンを押した。
だが、ほどなく追い着いた葛西に見咎められてしまい、そのまま受話器を戻し、帝大法学部の裏門を通って一般道に出た。
車は用意しておらず、しばらく歩いた後、タクシーを拾った。家に部屋に戻ると、葛西が三千万円の入った紙袋を手にしていたので問い詰めたところ、別室に示談金と見られる一千万円と、仏壇前に紙袋に入った二千万円があったので、一緒に持ち去ったと告白した。
本宮真奈美が、一言の抗弁もすることなく光智の進言に従って警察に出頭したのは、その二千万円の強奪に負い目を感じていたからに他ならなかった。
尚、当の葛西彰吾は、数日前突如として真奈美の前から姿を消していた。
堀尾の死亡推定時刻、彼女は葛西と自宅に居たと供述したが、裏付けは無く、加賀見殺害事件の場合は、状況証拠もあり、極めて厳しい立場に置かれていた。しかし、頑なまでの彼女の否認は、捜査本部に少なからず動揺を与えた。
ともかく、本宮真奈美の供述から葛西彰吾が二千万円を強奪したことは濃厚で、彼を事情聴取して供述を取れば真相は判明する。ただちに、葛西彰吾の逮捕状が裁判所に請求された。
本宮真奈美の供述内容は、中筋によって光智にも知らせられた。
「どう思われますか」
「中筋さんには悪いですが、彼女が真犯人でないのならば、ほっとしています」
「個人的には同感ですが、刑事の立場としては、捜査が振り出しに戻ってしまいました」
中筋は弱りきった顔で言った。
「申し訳ありません。私がよけいな推理を押し付けたりしなければ、迷惑をお掛けすることも無かったでしょう」
光智は、両手を膝に置いて、深々と頭を下げた。
「いえ。それは気になさらずに。少なくとも、貴方の推理は見事に当たっていました。現に、葛西は堀尾殺害計画を立てていましたし、加賀見宅も訪れ、金を奪っています」
「ですが、二つの事件とも真犯人は他にいる」
「そうなるのでしょうが……」
中筋は曖昧な言葉で濁した。
光智はその意味がわかった。
「まさか、二人を起訴するのですか」
「正直に言いますと、捜査員の中には、彼女の供述は信用できない、と主張する者も少なくありません。特に、加賀見殺害の方は、どれを取っても二人の犯行を示しています」
凶器はまだ発見されていなかったが、捜査本部は葛西の取調べで、供述を引き出そうという腹積りだった。
「中筋さんは、どう思われているのですか」
「正直迷っています。状況証拠は真っ黒でも、彼女の言動を見る限り、悪あがきとは思えません。もし、あれが嘘の供述だとすれば、彼女は相当な玉だということになります」
「私も、彼女は真実を語っていると思います」
「そうなると、捜査は振り出しに戻ってしまいます」
中筋の眉間には、苦渋を物語る深い皺が刻まれていた。彼の心境を察すれば、言葉を掛けるのも憚れたが、光智にはどうしても確認したいことがあった。
「ところで、中筋さん。本宮真奈美が消防署に通報していないというのは事実ですか」
「はい。事件性があると判断されたのか、通報を受けた消防署に録音が保存されていましたので、法科学鑑定研究所で声紋鑑定をしたところ、別人という結果が出ました」
「お願いした盗聴の件は?」
「それも、彼女はきっぱりと否定しました」
―― 消防署に通報した女性も、盗聴も本宮真奈美ではないとすると、いったい誰が、何のために……。
光智の胸中には、解消したはずの疑念が再び渦巻いていた。そのとき、中筋の携帯に都倉から葛西彰吾が仙台市内で逮捕されたという連絡が入った。中筋の提言により、合同捜査本部が設置される前から捜査協力をしていた、捜査四課のお手柄であった。
葛西は、宮城・仙台北署で取り調べを受け、その後警視庁へ移送されることになった。
「とりあえず、私は本庁へ戻ります。葛西を取調べれば、彼らが真犯人かどうかはっきりするでしょう」
中筋は、そう言い残して足早に立ち去った。
中筋と別れた光智は、上杉母娘を迎えにサンジェルマンに戻った。彼は、朝は講義前にミックスジュース、夕方にはコーヒーを飲むのが日課となっていた。土地売買の件に助力したことで、一切の飲食の無料を申し出られたが、このミックスジュースとコーヒーの無料のみを受け、後は断った。
この日は、意外な人物が光智の来店を待ちわびていた。恭子との仲を誤解した医学部生の矢崎秀輝である。上杉母娘と知り合った直後、光智は矢崎とサンジェルマンで出会い、同じ生年月日の誼から、言葉を交わすようになっていた。
用件は、本富士署が掲示した目撃情報についてであった。
彼の話によると、事件当日の午後五時四十七分頃から同五十二分頃に掛けて、正門前で挙動不審の男女が居たというのである。彼は医学部の三回生だが、教授が手掛けているアルツハイマー型痴呆症の治療薬の研究を手伝っていた。
研究はマウスによる臨床実験に入っており、データー収集は一日も欠かせない段階であった。そのため、休日にも助手が交代で研究室に出向いていたのだが、事件当日は彼もその一人だったというのである。
データー収集は、一定時間を空けて等間隔に行われており、矢崎は五時四十五分に数値を確認した後、学生食堂の自動販売機でコーヒーを購入するため、研究室を出た。その時刻が午後五時四十七分頃ということなのだ。
学生食堂へ向かう道からは正門が見えるのだが、日曜の夕方にも拘らず、男女がうろついている事に不信感を抱いた。しかも、女性は公衆電話に入って受話器に手を掛けたまま男性を注視し、男性の方は、しきりと正門前と林の方を交互に覗き見ている。
いったい何事だろうかとは思ったが、関わっている時間も無かったので、そのまま学生食堂へ向かった。コーヒーを購入して戻ったときには、二人の姿はすでに無かった。ほんの五分間の出来事だったと言う訳である。
矢崎は、掲示板は見たものの、しばらくは研究助手の作業で忙しく、また医学部とは真反対の方角にある法学部の事だったので、端から無関係だと頭から消し去っていた。
ようやく、時間に余裕ができた昨日、改めて掲示板の紙面を確認して、時刻が重なっていたことに気付き、もしやと思った。だが、ずいぶんと時間が経っていたため、いまさら警察へ申し出るのも如何なものかと思案していると、光智が警察に協力していることを玲子から聞き、相談を持ち掛けたのである。
この証言で、光智はようやく己の推測に確信を持つことができた。矢崎秀輝の目撃した男女こそが、事件が起こることを知って消防署に通報した者たちに違いなかった。
取調べの供述から、葛西彰吾の堀尾殺害犯行時刻のアリバイは証明された。事件当日の午後十一時頃、彼は近所のコンビニで買い物をしていたことが、店員の証言によって裏付けられたのである。彼のアパートは、横浜市緑区青葉台であり、とうてい犯行時刻に殺人現場にいることは不可能だった。真奈美がちょうど入浴中のことであり、彼女は葛西の行動を把握していなかったというのが真相だった。
これにより本宮真奈美のアリバイが、直接証明された訳ではないが、犯行手口を考えれば、彼女が別の者と犯行に及ぶとは考え難く、間接的に証明されたのも同様であった。
加賀見殺害事件についても供述した。
金を探しに戻った葛西は、別間にあった一千万の入った紙袋を手にして立ち去ろうとしたが、仏壇の前に置いてあった紙袋が気になり、中を調べると二千万が入っていたので、行き掛けの駄賃として盗んだ。食堂の母屋側のドアは、内側からロックしたと供述した。
その他の供述も、真奈美のそれと寸分違わなかった。たとえ、口裏を合わせていたとしても、ベテラン刑事の老獪な誘導には、どこかで襤褸を出すものである。それが全く無いということは、二人の供述が信憑性の高いものであることを証明していた。
引き続き、二人の拘留と取調べを進めることにはなったが、捜査本部の落胆は、尋常なものではなかった。何しろ、捜査はここにきて全くの白紙に戻るかもしれないのである。
その責任は中筋博司へと向けられていた。光智の推理を持ち込み、合同捜査本部の設置に導いた張本人と見なされたのだった。
その日の捜査会議は殺気立っていた。
中筋糾弾の急先鋒は鵜飼主任だった。
「そもそも、二つの事件は同一犯によるものなのでしょうか。犯行時刻は、一方が深夜で他方が夕方。手口は、一方が睡眠薬を飲ませた上での失血死、他方が鋭利な刃物での刺殺、と全く異なります」
「それは、真犯人に捜査の眼を連続殺人から逸らす目論見があった、とも考えられる」
森野が擁護した。
「他にも、堀尾の場合は完全犯罪を目論むほどの周到さがありますが、加賀見の場合は白昼に刺殺するという大胆不敵さがあります」
「加賀見の方は逃走ルートに緻密さがあり、大胆な犯行を補填している。第一、BMの文字はどう説明するのだ」
「そもそも、それが間違いの始まりではないでしょうか。BMのイニシャルなど、他にも考えられるでしょう。全くの偶然だと考えてもおかしくはありません」
「では、鵜飼君はどのような犯人像を?」
「たとえば、堀尾の場合のBMはブック・メーカーを指し、犯行は大王組の別働隊、加賀見のBMは尾藤真奈美を示している、と考える方が自然だと思います」
鵜飼の的を射た主張に、会議場を沈黙の緊張が覆った。その中で中筋が声を上げた。
「応接間に入ったとき、テーブルの上に、客用と思われる二つの湯飲み茶碗はすでに置いてあったと、彼女は供述しています」
「それはおかしくないですか。殺人現場を目撃して、気が動転しない者はいません。まして、女性がテーブルの上の湯飲み茶碗の数まで、目に留めることができるでしょうか」
すぐさま、安宅が反駁した。
「彼女は加賀見食堂、ベルサイユ、サンジェルマンと接客業をしています。ですから、テーブルの上のグラスとか湯飲み茶碗といった類には目敏いかと思われます」
「それは憶測に過ぎません」
安宅は一笑に付した。
「林から帝都大学へ出た直後、法学部の学舎へ向う男性を見た、とも供述しています。その者が真犯人である可能性があります」
「見たのはその男一人です。テーブルの湯飲みの数と食い違います」
鵜飼も的確に反論した。
「それは、真犯人の偽装工作と考えられます」
「なるほど。しかし、男を見たのは本宮真奈美だけです」
鵜飼の主張の方が筋が通っていた。
「二人の供述は信憑性があり、嘘の供述をしているようには思えません。また、彼女は加賀見に対して尾藤ではなく本宮と名乗っており、ノートに残されたBMに該当しません」
中筋は、あくまでも本宮真奈美の擁護に回った。いや、擁護というより、彼女以外の犯行の可能性を模索していた。
「殺人を犯すような人間であれば、平然と嘘も付き通すでしょう。それに、本宮真奈美であれば、合鍵を持っていてもおかしくありません」
安宅は吐き捨てるように言った。
「彼女が加賀見食堂を辞めたのは一年も前のことです。鍵を持ち続けているとは考えられません」
「それこそ、復讐の機会を狙っていたのではないですか」
安宅の主張も、もっともであった。旗色は中筋の方が悪かったが、彼は信念を通した。
「私には、彼女が嘘を付いているようには思えません」
「根拠は何ですか」
鵜飼が問い詰めた。それは、まるで戦犯者を相手にしているような口調だった。
「勘です。三十五年の捜査経験による勘です」
「勘? 捜査に勘など持ち込んでもらっては困ります。そもそも、別当などという学生の推理を真に受けたために、捜査を混乱させているのですよ。それも貴方の勘とやらですか」
鵜飼は露骨に中筋を中傷した。捜査会議は、険悪な雰囲気に包まれた。
「止めんか、鵜飼君。皆も、捜査会議は誹謗中傷の場ではない」
竹中捜査本部長の怒声が響いた。
「中筋刑事の意見を取り入れ、合同捜査本部設置を本庁に進言したのはこの私だ。責任は私が取る。良いか、諸君。今はお互い疑心暗鬼になっているときではない。真犯人が大王組にしろ他の者であるにしろ、未だ野放しになっている可能性があるのだぞ。我々の敵は真犯人なのだ。そのことを忘れるな」
続いて 、山根副本部長がいつにも増して厳しい口調で言った。彼は、上司である警視監から呼び出しを受け、捜査状況について問い質されたばかりだった。彼は進退を問われかねない状況に追い込まれていたのである。
この夜、東京湾に男性の死体が浮かんだ。夜釣りをしていた釣人によって発見されたものだが、身分を証明するものが何一つ残されていなかった。顔面は激しい殴打を浴びたらしく、変形するほどの外傷を受けており、本人確認も困難と思われた。
司法解剖の結果、二十代後半から三十歳半ばの男性。死因は溺死。胃の残留物と腐敗状況により、死後四日と判断された。所轄の東京水上警察署は、自殺と他殺の両面で捜査を開始した。
唯一の手掛かりは、左の上腕に彫ってあった『BM』の文字だった。所轄署の捜査員は、本人のイニシャルだと考え、行方不明者のファイルを検索したが、該当する人物はなかった。また、歯の治療痕も特徴がなく、決め手とはならなかった。
東京都内で見つかる身元不明の遺体は、毎年三百体以上にも上る。実に、一日に一体の割合で発見される現状に加え、他にこれといった手掛かりが無い状況では、顔面の殴打は事件性を臭わすものの、事実上捜査の打ち切りとなるのは当然の成り行きと思われた。
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