第10話 明かされる過去
翌早朝、別当光智は帝都大学学生部に部長の辻見克久を訪ねた。彼のボーリングの師匠でもある。
「朝っぱらから何の用だ」
ぶっきらぼうな物言いとは裏腹に人懐っこい表情。厳つい顔だが、笑うと大黒様のような愛嬌があったりする。
だが、これが曲者だった。調子に乗ってうっかり馴れ馴れしい言葉遣いでもしようものなら、たちまち仁王様に急変する。
五十歳の坂を超えているはずなのに、体脂肪は一桁かと思えるほど逞しく鍛え上げられた肉体。肩幅は広く胸板も厚い。拳は人の倍もあろうかと思えるほど大きく硬く、分厚い胼胝(たこ)だらけである。
普段はやさしい眼差しだが、睨まれるとたいていの者はたじろぐだろう。夜の繁華街を歩いていると、見るからにその筋と思われる男たちから頭を下げられることも少なくないという。
さもあろう。彼は、荒稽古で有名な空手の流派・極誠会の五段で、師範の免許を持つ猛者であった。彼の世代では珍しくもないが、大学時代は学生運動の先頭に立ち、収監された経歴も持っている。
「部長にお願いがあって来ました」
光智は、丁重に頭を下げた。
「ほう、珍しいこともあるものだな。何だ、言ってみろ」
「本校の文学部二回生に本宮真奈美という学生がいます」
「おいおい。いきなり、そう言われてもな」
辻見は面食らったように言った。
「三週間ほど前、ボーリング場で部長に会釈した女性です」
「ボーリング場? ああ、彼女たちか。どっちだ」
「髪の短い方です」
そう言えば……、と辻見は何かを想起した顔つきになった。
「彼女は本宮真奈美というのか。以前、加賀見食堂でよく見かけたな」
「えっ、加賀見食堂!」
光智は、思わず上ずった声になった。
「お前、何をそんなに驚いているのだ」
「いえ。失礼しました。ところで、それはいつの話ですか」
「一年ほど前までは、週に何日か夕方からアルバイトをしていたようだ」
光智も加賀見食堂を利用していたが、決まって昼食だった。真奈美と顔を合わせなかったのも頷けた。
――真奈ちゃんが加賀見食堂でアルバイト……。
光智の連想の導火線に火が点いた。
本宮真奈美は、一年前に加賀見食堂でのアルバイトを止め、夜の世界で働くようになった。彼女の身に何かが起こったのは、加賀見食堂だという可能性もある。 ――ひょっとすると、一年前近所の女子高生が見たという大学生風の女性というのは彼女なのかもしれない。食堂が閉まるのは午後八時。悲鳴があったのは同十時頃。その間に何かがあった。
「本宮真奈美がどうかしたのか」
「そうでした。単刀直入に言います。彼女の本籍を教えて下さい」
「馬鹿言え。個人情報だぞ」
辻見は即座に断った。
「無理ですか」
「当たり前だ。お前、俺の立場がわかっているのか」
「仕方ありませんね。では、警視庁に調べてもらうことにします」
これは、言わば光智の脅しだった。
「なにい、警視庁だと。別当、ちょっと待て」
辻見は光智の目を見つめ、本気であることを悟ると、
「どういうことだ、説明しろ」
と身を乗り出した。
「本宮真奈美は、ある殺人事件に関わっている可能性があります」
「そんな馬鹿な。何かの間違いではないのか」
強心臓の辻見も驚きを隠せなかった。
「私も、そうあって欲しいと願っています。ですから、自分で調べたいのです」
「お前、何をするつもりだ」
辻見は問い掛けて、言葉をあらためた。
「いや、訊くまい。後で詳しく教えてくれるのだろうな」
「もちろんです」
「念を押すまでもないが、このことは他言無用だぞ」
「分かっています」
光智は厳しい表情で答えた。
辻見は、学生ファイルから本宮真奈美の本籍をメモに写し取った。彼が個人情報を光智に教えたのは、警察沙汰を避けたいとの思惑が働いたためだったが、他にも理由があった。
帝都大学を出た光智は、タクシーで東京駅へと急ぎ、新幹線に乗り込んだ。受け取ったメモには、ベルサイユの沙耶香が言ったとおり、大阪のある住所が記してあった。
車中の光智は、神戸に住んでいたと言った真奈美の真意はどこにあるのだろうかと考えた。そして、自分はなぜこれほどまでに今度の事件に拘るのだろうかと、自問自答した。
なるほど、堀尾は投資仲間であり、加賀見は第一発見者と、両事件とも関わりを持っていたが、それが理由なら情報提供をすれば十分な筈だ。
本宮真奈美の為か? とも思ってみる。
たしかに、物憂げな陰影を帯びた彼女の目は、救いを求めているように見え、居ても立ってもおれない衝動を起こさせる。突き詰めれば、彼女には隠された生い立ちがあり、光智はそこに言い知れぬ親近感を覚えるのだ。襲撃された夜の恭子の指摘が、彼にその思いを強くさせていた。
京都駅を過ぎたとき、村井慶彰から連絡が入った。
村井は関東証券の池尻から、堀尾が帝都大学在学中に手掛けた企業買収先を聞き出していた。数にして五社。中には関西に本拠を置く企業が二社あった。
京都山科の万臨寺では、大王組六代目の山城忠徳が、いつになく緊張した面持ちで妙雲と対峙していた。このとき、山城は重大な決意を胸に秘めていた。
「貫主様。この度、私は六代目を退く決意を致しました」
山城は静かに言った。
妙雲は目を閉じて、しばらく黙考していたが、やがて目を見開くと、両手をテーブルに置いた。
「君には、本当に申し訳ないことをした。君をそこまで追い詰めるつもりはないのじゃ。引退は思い止まってもらえないか」
妙雲は、そう言って頭を下げた。彼は、山城が一度口に出したことを翻意する男ではないと知っていて頭を下げたのだ。
「貫主様、頭をお上げ下さい。引退は私の目の黒いうちに澤村を跡目とするため、前々から決めていたことで、今度の件とは関係の無いことです」
山城は恐縮して言った。
「そうではなかろう。君が私の望みに応えられないため、責任を取って六代目を辞そうとしていることぐらい分かる。今回のことは、私が無理を言っているのだから、気を使わんで良いのだ」
妙雲は重ねて慰留した。玄妙な神通力を持つと言われる彼も、このときばかりは山城の真意を見抜けていなかった。
山城は光智の命を取れない責任をとって、六代目を退こうとしていたのではなかった。その逆で、龍頭との正面切っての抗争を避けるために、一極道として、場合によっては極道から足を洗ってでも、光智の命を狙おうと覚悟を決めていたのだった。
山城にしても、龍頭を相手に一人で立ち向かうことが、いかに無謀なことであるか分かっていた。しかしそれ以外に、大王組の安泰を図りながら、尚且つ妙雲に極道者としての義理を果たす手立てが、彼にはなかったのである。
新大阪駅に着いた光智は、タクシーに乗り込み南へ走らせた。新御堂筋から大阪梅田で御堂筋へ、さらに難波で国道二十六号線に移り、南下して行った。住吉大社を左手に見ながら通り過ぎると、しばらくして左折、つまり東に向い、すぐに右折して大和川を渡った。
本宮真奈美の本籍は、大阪府堺市堺区浅香山町X―XX―Xだった。道路を挟んだ正面に、堺女子短大が見え、どこか下町の雰囲気が漂う住宅街の一角だった。
光智は近所の聞き込みから、該当する住所の物件を扱っているのが高鍋不動産であることを突き止めた。彼は、社長の高鍋が二十年前からこの場所で商売をしていることを確認したうえで、真奈美の本籍となっている家の所有者を訊ねた。
見知らぬ若者の問いに、高鍋は五十歳手前の脂ぎった顔を不振に染めていた。光智は情報を聞き出すため、バーターを申し出た。売りに出ていた土地を購入し、女子学生専用のワンルーム・マンションを建築するというものである。
むろん、高鍋が信用するはずがなかった。百五十坪の土地は、坪当たり六十万円なので、土地代だけでも九千万円。建築費用を加えると三億円は下らないからだ。
そこで光智は、菱友銀行・堺支店に電話をし、支店長の畠山を呼び出した。平身低頭、まるで米搗きバッタのように何度も頭を下げる畠山を、高鍋は唖然として眺めていた。
「高鍋さん。この畠山支店長さんがこの件を担当して下さいますので、よろしくお願いします。また、マンションの管理と建築業者の選定もお任せします」
はあ……? 思わぬ幸運に、高鍋は夢心地で立っていた。
畠山を帰した後、光智はいよいよ本題に入った。
「では、お訊きしてよろしいですか」
「えっ? ああ……そ、そうやったな。いや、そうでした。何が訊きたいのですか」
我に返った高鍋は、言葉をあらためた。
高鍋によって、本宮真奈美の大まかな生い立ちが分かった。
十五年前、両親を亡くした彼女は、母方の祖父母に引き取られ、神戸から大阪に移ったが、その直後に祖父が不治の病に倒れ、闘病も虚しく亡くなるという不幸が重なった。高額医療費を捻出するため、不動産を売り払わざるを得ず、また祖母の佐奈子も病弱だったこともあり、たちまち経済的な困窮を余儀なくされた。
そのようなとき、真奈美に東京の資産家から養女の話が持ち込まれた。佐奈子は真奈美の将来を考え、苦渋の末にこれを受けた。だが四年前、その養子縁組も解消され、戸籍も本宮に戻った。そして二年前、祖母の佐奈子も亡くなり、唯一残った古い家屋を相続し、貸家としていたのである。
「真奈美さんのご両親がお亡くなりなった原因はご存知ですか」
「詳しいことは知りませんが、ご主人の方は自殺、奥さんの方は自殺か事故か不明ということです」
「ご主人は自殺ですか。また何故?」
「事業に失敗されたと、佐奈子さんが愚痴を溢されたことがありました」
―― 事業に失敗……。やはりそうか。
光智は真相に近づいている手応えを感じ取った。そして、いよいよ核心に迫った。
「御両親の姓はわかりませんか」
「たしか、尾藤(びとう)だったと記憶しています」
「尾藤。尾藤に、間違いないですか」
光智は、描いていた推測通りの結果に、複雑な心境だった。
「真奈美さんの以前の住所はわかりませんか」
「えーっと、たしか芦屋の六麓荘だったと思いますが、それ以上のことはわかりません」
高鍋は、すまなさそうに頭を下げた。
「お止め下さい。六麓荘とわかれば十分です。しかし、良くご存知ですね。不動産屋というのは、そこまで親しくなるものなのですね」
「とんでもない。何の関係の無いお宅とは、そこまでの話はしませんよ。本宮さんは、以前五十坪の土地をお持ちで、駐車場にされていたんです。そこの管理を任されていましたので、親しくさせて頂いていたのです」
高鍋は、謙遜して言った。
「そういうことでしたか。では最後にもう一つだけ、真奈美さんが子供の頃、おそらく小学生の頃だと思いますが、近所に二、三歳年上の、親しくしていた男の子はいませんでしたか」
「親しかったかどうかはわかりませんが、近所の子供からいじめに遭っていた彼女を、ガキ大将がよく助けていましたね」
「その子の名前は?」
「しょうちゃん、と呼ばれていました」
「しょうちゃん……」
葛西彰吾に間違いない、と光智は確信した。
「有難うございました。契約の方は、弁譲士に間違いなくさせますのでご安心下さい」
光智は礼を言って店を出た。店の前に留めていたタクシーに乗り込むと、芦屋の六麓荘へ向うように指示した。
六麓荘は芦屋市の北東部に位置し、神戸、大阪の市街地と神戸灘を俯瞰する六甲山地の南東麓斜面に開けた、全国でも屈指の高級住宅街で、会社経営者や資産家が多く住んでいる。
光智は、まず麓の駐在所に出向き、学生証を提示して身分と用件を明かしたうえで、自治会長宅の住所を訊ねた。
緩やかなカーブを上がりながら、頂上へ近づけば近づくほど、その佇まいはより豪奢になっていった。光智は、その広壮な邸宅群を眺めているうち、真奈美の心情に思いを馳せずにはおれなくなった。
六歳までは、良家のお嬢様として何不自由なく育ち、明るい未来が約束されていたはずである。それが、一転して不幸の谷へと突き落とされた。運否天賦とはいえ、幼い彼女にとっては不条理な現実であっただろう。
そして、心の支えだった祖父母を相次いで亡くし、天涯孤独になった直後に、止めを刺すかの如く、理不尽な災難が我が身にも降り掛かった。彼女が己の運命を呪い、自暴自棄になったのも無理はない。
屋敷はすぐにわかった。山麓の上方部までやって来たところの、『漆谷(うるしだに)』という表札が掛かっている、一際壮麗な邸宅がそれであった。
「はい。おっしゃるとおり、尾藤さんという方は、この自治区内にお住まいになっておられました」
年齢を重ねた女性の声だった。
「尾藤さんは会社を経営されていたそうですが、何という名前の会社でしたでしょうか」
少し間があって、
「お宅さんは、どうしてそのようなことをお聞きなるのでしょうか」
と不審げに訊いた。当然の用心だった。
「私は帝都大学の学生で、尾藤さんの娘さんである真奈美さんの友人です。彼女は、今ある事件に巻き込まれています。私は、彼女を救いたいと思い、過去を調べているのです」
そこまで言うと、光智はインターホンのカメラに学生証と二人の名刺を向けた。
「決して怪しいものではありません。ご不審なら、帝都大学・学生部の辻見部長か、元東京地検特捜部長だった片桐弁護士に私の身分照会をして下さい」
また、少し間が空いた。
「わかりました。信用致しましょう。お訊ねの、尾藤さんが経営されていた会社は関西精機です」
「関西精機ですね。有難うございました」
カメラ越しに下げた頭は、庭石でも乗せられたかのように重かった。関西精機は、堀尾が買収した企業の一社だった。その後、光智は真奈美の両親が亡くなった経緯も詳しく聞いて帰路に着いた。
早くも夕闇が迫っていた。六甲の山並みは、薄い靄に覆われ、前方に広がる神戸の海は深い藍色を湛えていた。
どこかで、また雉が鳴く声が響き渡った。物悲しい彼の泣き声は、本宮真奈美の過去と交錯して、光智の琴線に激しく触れ、胸を詰まらせた。
宿泊する部屋は、神戸港に近い神戸ベイサイドホテルに取った。
光智は神戸の夜景を眼下に眺めながら、自分の推理が当たった虚しさに心を痛めていた。ときおり異国の貨物船が鳴らす霧笛が、香港の夜景と折り重なって、いっそう感傷的にさせた。
そこへ、思いも寄らぬ人物から電話が掛かった。
父の英傑からである。英傑は、知人の結婚披露宴に出席するため来日し、ここ神戸の華流会館にいるという。
光智は華流会館へ出向くことした。実に、一年四ヶ月ぶりの再会である。
部屋の外には龍頭と思しき三人の男が立っていた。彼らの先導でロビーに赴くと、横浜の夜、危難を救った男が待っていた。
「新幹線でも見かけたな」
「はい」
「工藤とかいう暴走族はどうなった。口を割ったか?」
「いいえ。どうやら、何も知らないようです」
「それで、どうした」
「泳がせていますが、なかなか尻尾を掴めません」
「口封じをされる心配はないのか」
「それは望むところです」
男はにやりと笑みを浮かべた。敵が動きを見せれば、正体を掴むきっかけとなるということである。
「車は玄関か」
「そうです。どうぞ」
玄関に横付けされたベントレーリムジンの中には先客がいた。男は光智の姿を見つけると、車から降りて彼に近づいて行き、頭を下げた。熊のように大きな男だった。頭を上げると、身長百八十センチの光智より頭一つ高かった。
「お久ぶりです、小爺。馬修傑(バ・゙シウチェ)です」
光智は男の顔に見覚えがあった。
「お前は、たしか父の護衛をしていたな」
「はい」
「父の許を離れて良いのか」
「今は小爺の護衛を命じられています」
「何、俺を……、もしや、お前が黄龍の……」
「頭をしています」
馬は顔色一つ変えずに答えた。
東京では、中筋刑事に意外な来客があった。警察庁に所用があって上京した松江東署署長の門脇が、麻布署に立ち寄ったのである。
麻布界隈には、若者向けのお洒落な飲食店が数多くあるが、初老の刑事二人には敷居が高く、駅前横丁にある古びた赤提灯の掛かった焼鳥屋の暖簾を潜った。
「東京に来るなら、電話をくれれば良かったのに。俺がいなかったどうするつもりだったのだ」
中筋は呆れ顔で言った。
「お前がいなければ、そのまま松江に帰るつもりだった。どうしても、という話ではないからな」
門脇は慎重な物言いで答えた。
門脇は、過日中筋らが東京へ帰った後、ふと思い出した事があった。七年前、自身が県警本部の捜査一課長をしていたときの、松江市外の県道で、大型ダンプカーと乗用車が正面衝突し、乗用車側の男性三人が即死するという交通事故である。
交通事故は、捜査一課の管轄外であるが、死亡した三人というのが神祖(こうそ)という名家の人々だったので、記憶に残っていたのだ。
「こうそ家?」
「神様の『神』に先祖の『祖』と書く」
「いかにも仰々しい名だな」
中筋の口調には、揶揄の響きがあった。彼ほどの刑事でも、知らない世界が存在するということである。
「出雲にある名家中の名家だ」
門脇は、慎重な姿勢を崩さずに言った。
「神々の集う出雲か。名から想像するに、相当なものだろうな」
中筋は、口調をあらためて訊いた。
「ああ。皇室を除けば、最高の名家の一つだろうな」
「それほどまでか」
中筋は息を呑んだ。
「事故で三人の身内を失った神祖家は、後継者を絶たれてしまったのだ」
「それが、別当家とどういう繋がりがあるのだ」
中筋は酌をしながら、焦れたように訊いた。
「そこだ。これは知る人ぞ知る事実なのだが、別当家は神祖家の分家筋に当る」
中筋はそう言うと、目で緘口を求めた。
中筋は黙って頷くと、
「神祖家というのは、どのような家なのだ?」
と門脇を除き見た。
「それは言えない。島根に住む者にとっては、アンタッチャブルな聖域なのだ。前にも言ったが、この世には触れぬ方が良いこともある」
肝心なことになると、門脇は口を噤んだ。中筋は一点だけ確認を取った。
「まさか、闇の世界と関わりがあるのではないだろうな」
「ばかな。これだけは断言するが、むしろこの国の良識を代表するような家門だ」
門脇は、怒ったように言った。
「そうなら、なぜ口を閉ざすのだ」
「人には分というものがある。たとえ善であっても、過ぎたる場合は、時に害を成すこともある」
「触らぬ神に祟りなし、ということか」
中筋は、今度は少し皮肉を込めた。門脇の口が割れないものかと、工夫をしているのである。
「それ以上だ。それに、この世には善を煙たいと思う勢力もある」
門脇は気にも留めないどころか、一層真顔になった。
「なるほど。では、これ以上は聞くまい」
中筋は驚きを覚えていた。二家の因縁もそうだが、別当家よりさらに格上の家門があるとは、さすがに最古の風土記が残存する歴史の国、島根出雲である。実に懐が深い。驚きというより、感銘を受けていたといった方が正しかった。
「それより中筋、問題はここからだ」
門脇は、ビールを一気に流し込むと、一息吐いた。
「お、おう」
中筋もグラスを干し上げ、耳を傾けた。
「一方の、ダンプカーの運転手が大王組傘下・足立組の息の掛かった運送会社の者だったこともあり、一応の裏付け捜査を考えていたのだが、その矢先、本部長が事故として処理をするように急いたのだ」
「それは解せないな。交通事故で本部長がいちいち口を挟むことなど有り得ん」
中筋は首を捻った。
「どうやら、さる筋からご下問があったらしい」
門脇は小声で言った。
「誰からだ?」
中筋も声を低めた。
「ちょうど、島根出身の武山首相を退陣に追い込んだと言われる、政敵の菅沼氏が首相に就任した直後だったから、その辺りの勢力だと考えられる」
ご下問は、別当家の影響力が薄まったのを見越して行われたということを示唆していた。
「しかし、なぜ彼らがご下問に及ぶのだ」
「それはわからんが、今になって考えれば、あれはただの交通事故ではなかったような気がする」
門脇は忌々しげに言った。組織の人間とはいえ、上司の命令に唯々諾々と従い、警察官としての本分を怠った自分を責めているのである。
「お前の言う、煙たい勢力による、事故に見せかけた殺害だったということも有り得るということだな」
中筋は、門脇の心情を察していた。
「この話が、お前の抱えている事件と関係が有るかどうかもわからんし、俺の取り越し苦労かもしれんが、お前がトラの尾を踏みはしないかと心配になったのだ」
門脇は中筋が思う以上に、濃い闇なのかもしれないことを忠告したかったのである。
「それを言うために来てくれたのか。ありがとう、君の友情に感謝する」
そう言って、中筋は門脇のグラスにビールを注いだ。
先日の門脇の話では、別当家には男子が二人いたはずだ。となれば、別当光智は神祖家を継ぐ者なのかもしれない、と中筋は直感した。長年、人間を観てきた刑事としての勘であった。
華流会館は在日中国人、つまり華僑が共同で建てたビルであり、ホテルから車で十五分ほどの、中央区花隈町にあった。七階建てで、コンサートホールや様々な文化施設を備えた多目的ビルだった。六階に大ホールがあり、臨時の披露宴会場に模様替えされていた。
新郎は関西華僑華人聯合総会・会長を務める陳長老の孫、新婦は香港特別行政区政府の高官の娘で、日本の大学を卒業後、商社に就職していた。
華僑にとっては、ある意味正式な披露宴より、この二次会の方が重要な儀式なのかもしれなかった。今日(こんにち)では、中国人の結婚式も日本のそれと大差がなくなってきたが、いわゆる華僑の長老クラスの縁者の披露宴ともなると、主だった在日華人が集まって、情報を交換したり、結束を固めたりするからだ。
この披露宴も在日華人ばかり、約五百名が集っていた。当然のように、周英傑はその中心にいた。彼の許には、常に誰かがやって来ては、追従あるいは相談事を持ち込んだ。
時ならぬ光智の登場は、それに拍車を掛けることになった。養子に出されたとはいえ、チャイナドリームの体現者で、中国社会に大きな影響力を持つ周英傑の後継者に変わりがないことは、紛れもない事実として伝わっていたからである。
光智の席は、陳長老と周英傑の間に設けられた。新郎新婦を蔑ろにしているのではないかと、恐縮するほど引っ切り無しの挨拶を受けたため、光智は落ち着いて英傑と話をすることができなかった。
その中に、横浜華僑総会の洪会長がいた。
「小爺。そういえば、横浜ベイブリッジで災難に遭われたとか」
「どうして、それを?」
「偉奇。それが華僑の情報網なのだよ」
洪に代わって英傑が答えた。
「龍頭の方では何か掴めましたかな」
「いえ。なかなか尻尾を出さないようです」
英傑は渋い顔で答えた。
「郷田組の名が挙がっていますが、どうも違うようです」
洪会長もお手上げの仕種をした。
「郷田組を騙ったのでしょう」
「そのようですね。ですが、私共も引き続き全力で情報収集をしていますので、そのうち何かわかるでしょう」
「しかし、皆様方はどうして……」
光智が言い掛けると、
「そこまで協力するのか、不思議ですか」
陳が先の言葉を奪った。
「はい」
「それは、周家が我々在日華僑にとって、戦前からの大恩人の一族だからですよ」
陳長老は光智の手を取り、両手で包み込んだ。その温もりは、陳の深い想いを伝えているようであった。
「私は、別当家へ養子に出された身ですよ」
「そのようなことは、全く関係ありません。皆、貴方が周家の後継者だと思っていますよ」
戸惑いを見せる光智に、陳と洪は信頼の笑みを寄せた。
英傑は、光智と同じ神戸ベイサイドホテルの、インペリアルスイートに泊まっていた。
英傑は五十四歳。背はそれほど高くないが、胸板、首、腕、指と全ての部位が太く、ガッチリとし体躯をしていた。四角い顔つきで彫が深く、窪んだ大きな目でギロリと睨まれると、たいていの者は身の竦む思いになった。さすがに、表経済界と裏社会の二つの世界で、中国の頂点に立つ男の迫力と貫禄は、形容し難いほどの凄みがあった。
二人は、窓際のソファーに腰を下ろしていた。
「殺人事件に関わっているようだな」
英傑は、ブランデーグラスを手に取り、一口喉に流して言った。
「耳に入っていましたか」
「お前のことは、些細なことでも報告させている」
「黄龍からですか」
「そんなところだ。横浜の件にしても、どうも後味が悪い」
英傑は、渋い顔つきになった。
「たしかに私を狙った節がありますが、少し神経質になり過ぎてはいませんか」
「いや、黒幕は正体を知られないよう周到に計画している。もしかすると、こちらの出方を窺ったのかもしれない。となると、奥は深いと思った方が良い」
英傑の歯切れは悪かった。頭の回転が速く、即断即決の彼には珍しいことであった。
不穏なことが一度もなかったこの四年間に比べ、光智の周囲は格段にきな臭さを増している。光智が英傑の息子だということを知っている日本人は、数人に限られている。皆、信用のおける人物ばかりで、もし他の誰かがその事実を知り、英傑の存在を承知のうえで、仕掛けて来たのだとすれば、それ相応の覚悟があってのことなのだ。英傑には、とうてい看過することができない事態であった。
「洪さんはあのように言ったが、何も掴めない公算が高い」
「わかりました、十分注意します。でも、黄龍を私に付けて、父さんは大丈夫なのですか」
光智にすれば、英傑の方が遥かに身の危険に晒されているはずだと、憂慮していた。
「それは心配ない。お前には黙っていたが、黄龍は龍頭の最上位ではない」
英傑はそう言うと、立ち上がって窓に近づいて行った。
「さらに上が存在するのですか」
光智は、英傑の背に視線をやった。
「そうだ。いずれ、私の跡を継ぐときに全貌を教えようと思っていたが、黄龍のことは教えておこう」
英傑は、ゆっくりと振り向いて言った。
頭である馬の直属の部下は五十名で、五人を一組にして十組あった。そのうち、三組十五人を、常に光智の身近に置いて警護に当たらせていた。ペントハウスの両隣の部屋、すぐ下の階の部屋、学生アパートの両隣、下の階の部屋、そして横浜の夜以降、サンジェルマンの正面の民家にも三人置いた。学生アパートを引き払った後は、その分はペントハウスの近くに配置されていた。
光智は、グラスにブランデー注ぐと、英傑に近寄って手渡した。
「しかし、あのアパートは学生専用ですよ」
光智は納得がいかなかった。
「帝都大学の学生だから問題はない。お前が講義を受けているときも、周りを固めるためだ」
「帝大生って、一般の講義は潜り込めても、ゼミや出席を取る科目はどうするのです」
「だから、学生証もあるのだよ」
英傑は事も無く言った。
「学生証?」
光智は素っ頓狂な声を上げた。さすがの光智も、事情が飲み込めなかった。
「お前は何か勘違いをしていないか。帝大生を偽装しているのではない。彼らは本物の帝大生なのだ」
英傑は、光智を養子にしたときから、今日のあることを想定していた。龍頭が日本の暴力団と大きく異なるのは、単に腕っ節の強い者だけの集まりではないという点である。頭脳優秀な者やスポーツ万能な者、芸術に秀でている者もいるのだ。彼らは、いずれも貧しい農村部の出身で、英傑の庇護を受けた者たちである。
むろん、日本の暴力団にも頭脳優秀な者はいるが、その数が龍頭とは比較にならないのだ。
「私のために、そのようなことまで……」
光智は言葉を詰まらせた。
「たいしたことではない。お前は、私のたった一人の大切な息子なのだ。そうだな。これまでは、お前に悟られないように、本国の者と交代させながら警護してきたが、今後は一時的に黄龍をお前の指揮下とし、馬とも緊密に連絡が取れるようにしよう」
「そうして頂ければ助かります」
光智は礼を言ったところで、少し思い詰めた表情になった。
「どうかしたのか」
「実は、私も父さんにお訊ねしたいことがあるのですが」
光智は意を決したように切り出した。
「私が別当の家に養子に出されたのは、特別な意味があってのことでしょうか」
「疑問でも抱いたのか」
「そうではありませんが、近頃私が考えていた以上に、深い思惑があるのではないかと思ったものですから」
光智は正直な胸の内を明かした。
「その通りだ。だが、これもまた時期尚早、いずれ折を見て話すが、お前はある重大な使命を負うことになる、とだけ今は言っておこう」
英傑は厳しい口調で言った。
「今、その使命は父さんが負っているのですか」
「そうだ。私が死ねば、後継者たるお前が負うことになるが、そのときは、今より大きなものになっているだろう」
英傑の面から笑みが消え、全身から殺気が漲っていた。光智は身震いするほど気圧されてしまい、先を問うことができなかった。
急転、英傑の表情は氷が解けたように崩れた。
「北条有紀とは別れたようだな」
「そのようなことまで、ご存知なのですか」
光智は照れくさそうに言った。英傑は、上杉親子と同居したことも、すでに承知していた。黄龍が警護していたのであれば当然ではある。
「良いか、偉奇。女性を軽く扱ってはならん。女性を己の欲望の捌け口とか、利得の道具として扱うな。真剣に愛さなければ、いずれ強烈なしっぺ返しを食らうことになるぞ」
「肝に銘じます」
光智は襟を正して言った。
「だが、同居は正解だった。サンジェルマンには、何者かが盗聴器を仕掛けていたぞ」
英傑は、黄龍に命じ深夜に店内を調べさせていた。その結果、カウンターの裏の死角に、簡易の盗聴器が仕掛けられていた。簡易とはいえ、店内の会話は鮮明に聞き取れる高性能なものである。
光智の行動を把握するためのものだとすれば、横浜での暴走族の襲撃も、そこから情報を得ていたと考えられる。黄龍からは、夜中に不審な者が出入りしたという情報は入っていないため、店の関係者かあるいは客が、隙を見て設置したものと見られた。
――本宮真奈美か……? 背後に葛西彰吾がいる。事件の真相に迫る俺が大王組には邪魔だったということだろう。
光智はそう思ったが、口にはしなかった。
「偉奇。これもお前には内緒にしていたのだが……」
英傑が、今度は煮え切れない態度を取った。光智は、決まりが悪そうにする父を生まれて初めて見た。
「実はな。上杉玲子さんとは旧知の仲なのだ。いや、この際正直に告白しよう。その昔、彼女は恋人だった」
「ええー!」
開いた口が塞がらないとはこのことだった。光智は、しばし唖然として父を見つめた。
若き日の英傑もまた、帝都大学に留学していた。その頃、アパートの大家の紹介で、友人の娘の家庭教師をしたことがあった。光智と同じく正体を隠していたので、貧乏留学生だと勘違いした大家がお節介を焼いたのである。英傑は、せっかくの親切心を断る訳にはいかなかった。
その娘というのが上杉玲子だった。二人は出会ってすぐに恋に落ちた。英傑が二十二歳、玲子が十六歳のことであった。だが二年後、留学期間を終えた英傑は、香港に帰国せねばならず、二人の恋は自然消滅した。
英傑の父が猛反対したのである。
それでも、どうにか玲子と連絡を取ろうと試みたのだが、何せ携帯電話どころか、国際電話を掛けるのも、面倒な時代のこと、すぐに父の知るところとなり、以来英傑には護衛とは別の監視役が付くようになった。
当時はまだ、一般の家であっても、日本人女性との交際を許すというような雰囲気はなく、ましてや周家は中国を代表するような家門であり、将来一族を率いることを考えれば、英傑の父も心を鬼にせざるを得なかったのである。
以降、音信不通だったが、二年半ほど前、光智の帝都大学進学に合わせて、大学付近を徹底的に調査させたとき、彼女の所在を知ることになった。
「玲子ママとは会われたのですか」
「ああ、一度だけ会った」
「では、ママは私が父さんの息子だということを?」
知っているのか、と訊いた。
ああ、と英傑は頷く。
「お前が帝都大学に入学することを話した」
英傑はばつが悪そうに言った。
「そう伺って、ママの態度に納得しました」
光智は、憑き物が取れた気分だった。初めて会ったときの玲子の反応や、出会ったばかりの自分に土地の件を依頼したこと。そして何より、英傑の息子だと知っても、恭子との交際を反対しなかったことに得心がいったのである。
「彼女を擁護する訳ではないが、お前のことを知って以降、彼女からお前に接近したことはないぞ。だから、お前の方からサンジェルマンに出向かなければ、あの母娘とは永遠に出会うことはなかっただろう」
「それは承知しています」
「だったら、玲子さんを責めるなよ。土地の件は、半分はお前の器量を試す悪戯心だったろうが、もう半分は真剣に取得したかったのだ」
「責めるだなんてとんでもない」
もとより、光智にそのような気持ちなど微塵もなかった。
「お前が彼女の娘さんと恋に落ちたと知って、私も深い因縁を感じている」
英傑は、すっかり父親の顔になっていた。
「本当に縁とは不思議なものですね」
光智もしみじみと言った。
「だが、偉奇。私と玲子さんとのことは、母さんには内緒だぞ」
英傑の目が笑っていた。
「わかっていますよ。それより、父さん。もしかして、学生部の辻見部長とも親交が有ったというようなことはないでしょうね」
光智は、穿った目をして訊いた。
「有ったどころか、今でも親友だ」
英傑は、至極当然とばかりに答えた。
「やはり、そうでしたか」
「彼は、私より二歳年下だが同級生だった。当時は、東西冷戦の時代だろう。公安の管理下にあった私は、彼のように表立って学生運動に参加することはできなかったが、裏で資金を提供してやった。彼は、今でも私には頭が上がらないよ」
「だから私に協力的なのですね」
「おまけに、お前が入学してから、毎年多額の寄付を催促してくる」
「部長らしいですね」
光智は笑いながら言った。
「根は良い奴だから、立場を弁えて付き合いなさい。ところで、偉奇。どうだ、今宵はこの部屋で一緒に寝ないか。お前ともう少し話がしたい」
「良いですね」
本宮真奈美の筆舌にし難い過去に触れた光智は、英傑とのひと時が、こよなく愛しく尊いものに感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます