第7話 老刑事の執念
早朝の眩い光がカーテンの隙間から入り込み、床に白い道を敷いていた。
トントントン……。
リズム良くまな板を叩く包丁の音で、光智は目を覚ました。仄かに味噌汁の匂いも漂ってくる。少し身体を横にずらして、半開きのドアから台所を覗き見た彼の目に、エプロン姿の恭子後姿が飛び込んで来た。
北条有紀とは大違いだと思った。料亭の女将だというのに、有紀は朝食など一度も作ったことがなかった。朝食だけではない。家事らしいことは何一つしなかった。
それでも、光智は有紀に惹かれていた。
光智にとって、彼女は初めての女性だった。当時十八歳の彼が、一回り以上も年上で、経験豊富な有紀にのめり込んだのも 当然の成り行きだったと言えよう。
有体に言えば、肌の相性が良かったのだ。ダムの放水のように迸る十代の性欲を、有紀はその豊熟な身体で満足させていた。
恭子との肌の相性も悪くはなかった。初めての体験で、最後まで緊張が解れなかったのは仕方がないとしても、見事なまでに瑞々しく均整の取れた肢体は、ようやく蕾を綻ばせる緒に就いたばかりで、先々どのような芳香を放つ大輪に育つか、興味のそそられるところだ。しかも、その剪定の役割を受け持つのだと思うと、正直有紀とは違った肉欲が沸いてくる。
肌だけでなく、恭子とは心の相性も良いような気がする。鼻歌交じりに朝食の支度をする彼女を見ていると、見栄や嫌々やっているようには思えず、家庭的な一面にも心惹かれるものがあった。
光智は、家庭の温もりには恵まれていなかった。実母は――彼はそう思っているのだが――十歳のときに亡くなり、継母も愛してはくれたが、寂しさは禁じえなかった。そして、いま父の意向で日本人の養子になっているが、義理の父母とは数度しか面識がない有様である。
それでも、これまで自分の境遇に不満など感じなかったが、恭子のような女性と巡り会うと、つい感傷的になったりするのである。
ふと、恭子が振向き掛けた。光智は咄嗟に身体を戻し目を瞑った。
光智は昨夜のことを想起した。恭子との初夜ではない。彼女との会話である。恭子が消防署に電話をしていないとすると、若い女性とはいったい誰なのだろうか。いや、そもそも自分が嵌められたというのは、思い過ごしなのか。しかし、偶然にそのようなことが起こるものだろうか。しかも、女性は素性を隠している。
そのとき、恭子の足音が大きくなった。どうやら、起こしに来たようだ。
「起きて、智(とも)君。朝食ができたわよ」
彼女が耳元で囁いた。吐息が光智の肌を、一閃の緑風のように擽る。
「おはよう。ずいぶん、早く起きたんだね」
光智は、いかにもいま目が覚めたかのように言った。
「うん。頑張っちゃった」
彼女は照れ隠しをするように、伏せ目勝ちになった。
光智は、その隙を付いて上半身を起こし、すばやく両手を彼女の背で組むと、引き擦り込むようにして、ベッドに倒れこんだ。
「あっ」
不意を突かれた彼女は、呆気に取られた声を発したが、抗してはいなかった。
それを看て取った光智は、有無を言わさず彼女の唇を求めた。昨夜とは違い、荒々しく吸った。同時に、左手に力を入れ、逃げられないようにしておいて、右手で服を脱がせようとした。
「だめ、時間が無いわ」
彼女は、光智の唇の愛撫から逃れると、子供を諌めるように言った。だが、その表情は満更でもないように映る。
「大丈夫。講義は十時からだし、お店の方もそれまではママと真奈ちゃんの二人で大丈夫だろう」
「そうだけど、お味噌汁が冷めちゃうわ」
「そんなもの、もう一度温めたら良い。だから、もう一回」
光智は、強引にもう一度唇を重ねた。手早く服を脱がせ、続いてブラジャーのホックを外して剥いだ。
白く大きな乳房が光智の胸に垂れた。光智は、顔を下げて桃の蕾のような薄いピンクの乳首を口に含んだ。
「ああ……」
彼女は切ない吐息を吐いた。その血液の流れが分かるほどに白い肌が、官能の予感にたちまち朱に染まっていった。
麻布署の捜査会議は久々に熱を帯びていた。
堀尾貴仁殺害事件の捜査は、然したる進展もないまま、長期化の様相を呈し始めたところへ、中筋刑事から齎された情報が、まるで火に油を注いだように熱い波紋を呼んだのである。
ブック・メーカーのライセンス取得者は、スポーツ新聞社へ出向いたときに判明した。『今津航(いまずわたる)』という、半年前まで世界最大のブック・メーカー『スタイン社』の日本市場担当をしていた三十三歳の男である。彼の所在は間単に掴めた。千代田区二番町、通称・麹町にある新日テレビのすぐ裏の高級マンションを事務所兼用で借りていた。
事務所を訪れてみると、今津の他にスタッフとして、非常に小柄な男性と二人の若い女性が事業化への準備作業を手伝っていた。中筋は、玄関で警察だと告げたとき、応対に出た小柄な男性の瞳が、一瞬不気味な鈍い光を帯びたような気がした。だが、今津の事情聴取に焦点を置いていた彼が、それ以上気に留めることはなかった。
今津は快く事情聴取に応じ、事業の出資者は堀尾貴仁と奈良龍明の二人だと認めた。彼の証言から、奈良龍明は三十六歳。職業は企業ブローカーともいうべきものであった。
今津が意外にあっさりと認めたことが、却って捜査会議に臨む中筋博司の胸中を揺るがしていた。今津の証言に沿って捜査を進めていった彼は、背後に大王組の存在があることを突き止めていた。
もし、大王組が犯行に関わっているのであれば、実行犯や関係者、つまり足の付きそうな人物は、警察の手の届かない安全な場所に隔離するはずである。
彼らにとって、究極の安全な場所とは、造成中のゴルフ場の土中か深海ということになる。ドラム缶にコンクリート詰めしたうえで投棄するのだが、いずれにしても口封じだ。まだ利用価値がある場合は生かしておくが、それでも今津のように野放しにして置くはずがない。
――奈良龍明や大王組は、本件と関係が無いのか……?
心に不安が宿った中筋は、前もって石塚警部補に心の内を正直に打ち明けた。
石塚の見解は、今津はライセンス取得者である以上、大王組といえども迂闊には手が出せないこと。仮に今津が情報を漏らしても、自分たちまでには辿り着けないと高を括っているのではないか、というものだった。
中筋は石塚に背を押される形で、捜査会議に臨んでいたのである。
中筋の主張の骨子は、以下の通りである。
『ブック・メーカーのライセンスを取得した今津航は、これを事業家するために堀尾貴仁と奈良龍明の出資を取り付けた。ところが、利益配分か何かのトラブルが発生し、堀尾は殺害された。BMの文字は、ブック・メーカーの略語と一致する』
「では、奈良龍明という男の犯行と睨んでいるのですね」
森野係長は意気込んで訊いた。彼にとっては、膠着状態を打開できる鍵になると期待していたのである。
「いえ。決め付けている訳ではありません。他も考えられます」
「他と言いますと」
「大王組です」
中筋は、語気を強めて言った。
「何ですと!」
森野係長の声が昂じた。彼だけではない。会議場に地鳴りのようなどよめきが広がったが、それも無理のないことだった。
我が国最大の裏組織の名前が挙がったのだ。しかも、ブック・メーカー事業という性質上、何らかの関与があるとすれば末端の組織ではなく、かなりの上層部であることが推測される。
言い換えれば、最高幹部の逮捕という金星と裏腹に、下手をすれば真相が闇から闇へと葬り去られる可能性を示唆しているのだ。捜査員に緊張が奔るのも、当然と言えば当然だった。
「それは、確たる物証があってのものですか」
その場を静めるように、山根捜査本部長の声が響いた。
「いえ。残念ながら、今のところ状況証拠の域を出ません。ですが、看過できないものがあります」
「どういうことですか」
石塚警部補が訊いた。そこから、彼と中筋刑事が議論の中心となった。
「奈良龍明と大龍組の因縁です」
中筋の声には、緊張の中にも余裕が見られた。今津航から、他にも幾つかの重要な情報を得ていたのである。
中筋が最も注目したのは、奈良龍明から『大王組との話は付けた』と聞いた、という証言である。暴力団と話を付ける場合は、ほとんど金銭が絡んでいるといって間違いがなく、中筋は上納金を納めるのだろうと推測した。
当然のことながら、ブック・メーカー事業は、暴力団のしのぎを犯すことになり、彼らの了解を得なければ命の保証がない。しかも、今回の場合は、一つの組組織がどうこうという問題ではなく、大王組全体の了解が必須となる。
中筋は、奈良龍明という男にそのような強力な伝手があるのか。ひょっとすると、大王組傘下の企業舎弟ではないかと疑った。そこで、本庁に問い合わせし、大王組の構成員ファイルを検索してもらうと、奈良龍明という名前はなかったが、『奈良龍之(たつゆき)』という名前が大龍組の中にあった。他にも、数名『奈良何某』という名前があったが、一字違いというのが気に掛かり、戸籍謄本を閲覧すると、龍明と龍之は実の兄弟だということがわかったのである。
「大龍組の組長・勝部幹夫は、大王組の若頭補佐の要職にあり、七代目が有力な澤村の懐刀として、切れ者との噂の高い極道です。龍明は、弟龍之を通じて大龍組、そして大王組の了解を取り付けたのでしょうか」
「いえ。龍之とは関係なく、龍明が直接勝部幹夫に会って話をしたと思われます」
「龍明が直接ですか。そのような手立てがあるのですか」
石塚は声高に訊いた。
いかに実弟が属しているとはいえ、大王組の最高幹部と直接話を付けられるとなれば、龍明自身もただの堅気ではないということになる。
「戸籍謄本を見て驚いたのですか、奈良兄弟の亡き父親は、何と大龍組の先代組長・奈良龍一郎(りゅういちろう)だったのです」
中筋が言い終えるや否や、会場の至る所で、ほうーという異様な呟きが漏れた。
元を糺せば、奈良兄弟は勝部幹夫の主家筋に当った。つまり、長男の龍明が大龍組を継いでいれば、勝部は若頭として龍明を支えるか、独立して新しい組を構えねばならず、いずれにしても、三代目・大岡組長時代からの直参である名門・大龍組を受け継いて得た、いまほどの出世は望むべくもないということであった。
「勝部は、龍明に大龍組を譲ってもらった恩義があるということですね」
石塚は得心の表情で念を押した。
「はい。したがって、龍明が手掛けた様々な事業には、勝部個人及び大龍組の金が流れていると思われます」
中筋の言葉は、勝部幹夫が少々の依頼事は受けざるを得ない事を示唆していた。
そのとき、最前列で声が掛かった。
「それはわかりましたが、堀尾殺害とどのように繋がるのですか」
中筋と石塚による会議のリードに、鵜飼主任が待ったを掛けたのだ。
「害者が直前になって資金提供を断ったのです」
「それで殺害を、とお考えですか」
鵜飼の口調には、侮りの色が滲んでいた。
「動機としては十分かと」
中筋は平静に答えた。
「それはおかしいでしょう。龍明にしても、資金提供を断ったぐらいで殺害したりしないでしょう。他に出資者を探せば良い訳ですから。ましてや大王組に至っては、しのぎの補填として上納金を受ける訳ですから、仮に事業が延期しても、いや中止になったとしても、実害は無く、犯行になど及ぶはずがありません」
強い口調だった。しかも鵜飼の反駁は筋が通っていた。
「害者が、ただ資金の提供を断っただけでなく、事業そのものを乗っ取ろうとしたらどうでしょう」
「乗っ取る? 証拠はありますか」
鵜飼の追及は厳しかった。
「害者は、今津航にライセンスの買取りを打診しています」
「買取りなどできるのですか」
石塚が議論の主導権を取り戻そうとした。
「現実には、ライセンスの取得にはブック・メーカー二百社で構成される組合の承認が必要となりますので、難しいでしょう。特に今津は、業界を代表するスタイン社のターナー社長が後ろ盾になっていますから、まず無理でしょうね」
「では、どのようにして?」
「事業会社における今津の持ち株を買い取るのです。ライセンス取得者と代表は今津にしておいて、配当など実質面を取るようにすることはできるでしょう」
中筋の説明も一定の筋が通っていた。
「なるほど。それで、今津は了承したのですか」
再び鵜飼が訊いた。
「いいえ。断りました」
「それならば、なぜ害者は殺害されるのです。たしかに、奈良龍明は一時的に窮地に落ちるでしょうが、害者を殺害するまでのことではありませんし、大王組にすれば、仮に害者が実権を握ったとしても、上納金が入ることには代わりがないのですから、殺害など全く考えられません」
鵜飼は肩を張って言った。この反駁も全くの正論であった。
「手法はわかりませんが、害者が大王組と関係を持たない形で、乗っ取りを画策していたと思われます」
中筋の推察もまた深化していった。
「裏付けはありますか」
「これも確たるものはありませんが、害者は笹尾銀平になると、上機嫌で吹聴していたようです」
「いつの話ですか」
「今津に買収を断られた後です」
「その時点なら、たしかに興味のある話ですが、中筋さんの推測には、確たる物証がありません。害者にしても、好んで裏社会を敵には回さないでしょう。ブック・メーカー事業は、彼らの了解がなければ始まらないと言ったのは、中筋さん貴方ですよ」
鵜飼主任の的確な反駁は最後まで続いた。
本来、捜査会議はこのように進行する。反駁したからといって、元よりその者に悪意はなく、議論が一方に流れ過ぎないように、懐疑派を代表して議論の均衡を図るのである。
だが、このときの鵜飼には、前の捜査会議で受けた恥辱を晴らす意図に加えて、後から被害者の女性関係の捜査に加わりながら、いち早く有力な情報を得た中筋に対する焦燥が明らかに看て取れた。
「中筋刑事の主張は、推測または状況証拠の部分が多いが、さりとて全くの見当違いとも思えない。そこで、今後の捜査は、これまでの捜査の継続のうえに、奈良龍明なる人物の所在確認と身柄確保、そして事情聴取を重点項目に加える。そこから、害者と奈良兄弟、ひいては大王組の間にどのような確執があったのか解明するように」
山根捜査本部長の判断で、中筋の主張が通る形となった。
中筋博司は忙しい合間を縫って光智と会った。都倉正義とは違い、彼は光智に異能の才を感じていた。彼が優秀な帝大生だからという訳ではない。周英傑の息子だからでも、島根の名家・別当家の養子に入ったからでもない。光智に、直に接した感覚である。
その正体まではわからなかった。だが中筋は、刑事の勘というべきか、事件の解決に至る鍵は光智の頭脳に有ると直感していた。
「なるほど、ブック・メーカーですか。たしかにBMの文字とも、堀尾さんが笹尾銀平云々と言っていたこととも符号しますね」
「でも、腑に落ちないようですね。本富士署の件と繋がらないからでしょう?」
中筋は、光智の胸の内を読んでいた。
「ええ、まあ……」
「他にも何か?」
「彼とは、殺害される一週間前にも会ったのですが、別段トラブルを抱えて悩んでいる様子がなく、むしろ上機嫌でした」
「それは伺っていますが、貴方の前では虚勢を張っていたのではないですか」
中筋は意に介しなかったが、光智はある疑問を抱いていた。
奈良龍明を使った大王組の犯行だとすると、そもそも彼らが、どのようにして堀尾貴仁の裏切りを知ったのだろうかということである。堀尾が株式の買取りを今津から断られた後、他の手段を考えたとしても、大王組の報復を恐れて厳重に秘匿するはずである。
投資仲間の宇佐美彬に話をしたように、他でも吹聴している可能性が無くはないが、大王組が手を下したとすれば、単なる噂話や憶測ではなく、具体的な裏切り行為を掴んだと見るべきであった。
仮に、酒に酔った勢いで、詳しい計画を漏らしたとすれば、奈良龍明や今津航であるはずがなく、さしずめ大学の先輩でもあり、深い信頼を寄せていたであろう村井慶彰が最有力候補のはずであった。だが、村井は何も聞いてはいない。
――極秘を共有する投資仲間より信頼できる人物とは……? 堀尾さんは、いったい何者に秘中の秘事を打ち明けたために、大王組の知るところとなったのだろうか。
光智の心底には、得も言われぬ疑惑が澱のように横たわっていた。彼は、それを晴らす手掛かりを模索した。
「ところで、例のBMの文字ですが、いつ頃から、どれくらいの頻度で記述があったのでしょうか」
中筋は、待っていましたとばかりに手帳を開いた。
「都倉君が害者のパソコンの文章を入念に調べたところ、昨年の十月十日からメモが残っていました。他にもメモが残っているかもしれないので、全容を把握しているとは断言できませんが……」
そう前置きしたところで、声色が変わった。
「全部で八回あったのですが、そのうち七回が三日か十四日なのです。つまり、昨年の十月十四日、十一月三日、十二月十四日、今年の一月十四日、二月三日、三月三日、四月十四日です」
「四月二十二日に殺害されるまで、毎月三日か十四日には必ず会っていたということですね」
「そういうことでしょうか」
中筋は気のない返事をした。
「他に何かありますか」
光智が水を向けると、
はい、と中筋が続けた。
「実は、他にBだけの記述も六回ありましてね。何と、それも全て毎月三日と十四日なのです」
なに? と光智の目が光った。
「もしかして、Bだけというのは、いま言われた毎月の日付のもう一方の日ではありませんか」
「その通りです」
「ということは、堀尾さんは、毎月三日と十四日の二度、誰かと会っていたことになります」
「しかし、BだけとBMの違いは?」
「そこまではわかりませんが、Bは一人だけで、BMは二人とも考えられます」
「なるほど」
と言った中筋の語気が再び弱まった。
光智は中筋の心中が分かっていた。
「誰かと会ったにしろ、何かの記号にしろ、それだけ同じ日に偏っているということは、二つの日付にはよほど特別な意味があるということになりますね」
堀尾は、社長とはいえ会社勤めであるから、それなりに時間の拘束はある。仮に曜日に関係なく、同じ日に誰かと会っていたとすれば、相手の都合に合わせたということになる。また一つ、事件の謎を解く鍵の浮上であった。
中筋は縋るような思いで口を開く。
「別当さん、日付の規則性から言えば、BとBMは同一で、Bは単にBMを端折っただけと考えられませんか」
中筋の見解だった。
光智は、堀尾の性格からして、意味無く端折ることはないと思ったが、口にはしなかった。彼には、もう一つ気になる点があったからである。
「その可能性も捨て切れませんが、いずれにしても、記述は直近ではないのですね」
中筋は、光智の言葉の意味を的確に理解した。
「本富士署の方は直近なのですか」
「四回記述があったそうですが、いずれもここ一ヶ月以内のものなのです」
中筋は少し考え込んだ後、
「同一犯だとすれば、まず堀尾貴仁と知り合い、後日加賀見雅彦とも知り合ったか、加賀見の方は旧交が復活したということになりますね」
との推量を口にした。光智は軽く頷いて、同感である旨を伝えると、さすがに細大漏らさぬ注意深さで訊ねた。
「中筋さん、三日と十四日以外の、残る一回はいつですか」
中筋は、はっと目を見開いた。
「おっと、うっかりしていました。三月二十八日です」
「本当ですか!」
光智は高揚した胸の内を抑え切れなかった。BMの文字以外に、二つの事件の共通点が見つかったのである。
「三月二十八日は、加賀見のメモと一致します。ようやく、二人の接点が見つかりました」
「同じ日に同じBMの文字を残している。決して弱くはない共通点ですね」
中筋も慎重な面持ちで言った。
「ところで、BMの文字の分析結果は出ましたか」
「そちらの方は、これといった差異はありませんでした」
「となると、やはり同一人物の可能性が高いですね。三人と同列に書いてあったBMも、私の事ではないのかもしれません。中筋さん、どのように記述されていたか詳しく教えて下さい」
「村井、宇佐美、赤木の前に、離れて記して有りました」
また中筋の声に力が無くなった。
「前に離れて……。他はどうですか、昨年の十月十日以降だと、私が彼に会ったのは五人で会合した二回だけです」
「それが、他は三人の記述しかありませんでした」
中筋の言葉で、堀尾は光智の存在を秘匿していたことになった。律儀な面も覗かせていた堀尾であれば、さもありなんと光智は思った。
「偶然、一度だけBMなる人物に会った日と、私たちの五人の会合が同じ日だったということでしょうね」
光智の声は確信に満ちていた。
「やはり、BMは特定の人物を指し示しているとお考えですか……」
中筋は不安げに言った。先ほどからの彼の発言は、BMはブックメーカーを示している前提に立ったものだったのである。
光智は中筋を慮るように、
「しかし、事件の背景にブック・メーカー事業が絡んでいるという推測は、私も核心を付いていると思います」
と気遣った。とはいえ、光智は決して気休めを言った訳ではなかった。
中筋にもそれが伝わったのか、
「それを伺って、意を強くしました。今のところ二つの事件には、決定的な接点がありませんが、捜査が進展すれば、ブック・メーカーで繋がるやもしれません」
と気を取り直して言った。
本富士署の捜査も、一つの山場を迎えていた。
鑑識課の指紋照合作業により、玄関のドアノブと厨房裏のドアノブ、そして帝都大学内の法学部へ向かう坂道にある公衆電話の、三ヶ所の慰留指紋が一致した。
この結果、公衆電話から消防に通報した女性は、犯行現場に居合わせたことが濃厚で、実行犯が男性である可能性が高いことを考え合わせると、真犯人は少なくとも男女二名以上とみなされた。これは、被害者宅のテーブルにあった湯飲み茶碗の数と一致する。
しかも、男性のものと思しき慰留指紋が一切検出されないことから、指紋を残すことに神経質なっていたと思われ、男性の方は犯歴がある可能性が浮上した。
また、真犯人は玄関から中に入って犯行に及んだ後、厨房の出入り口から帝都大学内に抜け、法学部学舎裏の門から外へ出たと断定し、その後は車に乗って逃走したものと推測した。
「玄関のドアノブの指紋が真犯人のものである可能性が高いことから、害者は少なくとも真犯人の一人とは顔見知りで、中へは招じ入れたと思われ、流しの強盗目的の線は無くなったと考えてよいでしょう」
野崎が一定の進展を強調した。
「犯行の動機は何でしょうか」
若い福間刑事が訊いた。彼もまた都倉正義と同じく、交番勤務から刑事部に栄転した新米刑事ある。
「それがわかれば事件は解決だよ。福間君」
野崎は、まるで子供を宥めるように諭した。
「いったん招じ入れられた客が、突然犯行に及ぶケースとは、どのようなことが考えられるだろうか」
桑原捜査本部長も疑問を投げた。
「何かの交渉に来て、決裂した場合はどうでしょう」
意気軒昂の福間はたじろぐことがない。
「たしかに考えられなくもないが、一気に殺害にまで及ぶだろうか」
野崎は懐疑的に言った。
「たとえば、借金の返済交渉はどうでしょう」
「被害者は土地を売った金で、借金は全て返済しているはずだ。三千万はその残りだろう」
「他に借金があったとは考えられませんか」
「少なくとも、暴力団関係者には無いだろうな。一般人が、借金問題で殺害にまで及ぶとは考え難い。少なくとも、消えた一千万円は返済されたことになるのだからね」
野崎の冷静な分析に、福間も口を閉じざるを得なかった。
「女性が絡んでいるのも気になるね」
代わって、桑原が別の問題を呈した。
「その女性は、なぜ消防署に通報したのだろうか。通報するくらいなら、犯行に及ばなければ良いだろうに」
「少なくとも、女性の方は事態を予測していなかったのではないでしょうか。つまり、一千万で話は一旦付いたのだが、その後犯人の強烈な怒りを買う事態を害者が引き起こしてしまった。そこで、女性の方はあわてて消防署に通報したとは考えらませんか」
一見、筋道が通っているようだが、矛盾を内在していた。
すぐに気付いた桑原は、
「しかし、不慮の事態に遭遇したにしては、よく逃走ルートを思い付いたものだと思わないかね」
と、野崎の推測に注文を付けた。むろん、野崎も承知していた。
「そこが私にも謎なのです。咄嗟に思い付いたとなると、女性はその道を日頃から良く使っているか、記憶に残っているということになります。現に、聡明な別当君ですらも、なかなか気が付かなかったくらいですから。それに、車を法学部の裏門の近くに置いていたとすれば、計画的な犯行になりますし……」
「二つの茶碗に指紋が残っていないのも気になるが、少なくとも強盗目的の線は消えた。また、抜け道に詳しい若い女性が関与していることもわかった。これらを踏まえて、害者の交友関係をもう一度洗い直してくれ」
桑原の気合の入った声が捜査員の気を引き締めた。
午後七時半。サンジェルマンには、上杉親子と光智、そして結城真司が集っていた。シャッターを下ろし、ドアの鍵を閉めた店内には気まずい空気が漂っていた。光智が、玲子と真司に身の上を告げたのである。
「何となくただ者ではないと思っていたわ」
玲子は妙に落ち着いていた。その理由が光智には謎だった。
「すみません。別に、隠すつもりはなかったのですが、そうかといって、積極的に言い触らすことでもないので……」
光智は、まるで悪戯が露見した少年のような眼つきで言った。
「そうね。光智君の正体を知ったら、金目当てで近づいて来る者も多いでしょうからね」
「ええ。僕自身、その都度疑心暗鬼になるような気がして嫌だったのです」
「その気持ち分かる気がするな」
恭子が口を挟んだ。
「貴方に分かるはずがないでしょう。恭子、そんな軽口を叩いているけど、貴方は光智君の正体を知っても気持ちは変わらないのね」
「うん」
恭子は、照れくさそうに小さく頷いた。
「でも、いつまた昨夜のような目に会うか分からないのよ。本当に覚悟はできているの?」
玲子は強く問い質した。だが、恭子はどこまでも楽観的だった。
「昨夜は、ボディーガードが付いている光智君だったから助かったとも言えるでしょう。他の人だったら、きっと酷い目に遭っていたと思うわ」
光智の立場を逆手に取った。たしかに、狙われることもあるが、その分防御も備えている。
「貴方がそこまで言うのなら、ママはこれ以上何も言わないけど……」
世間知らずの恭子とは違い、昨夜の襲撃には裏があるように思え、玲子は心中穏やかではなかったが、恋の熱に犯されている娘にこれ以上何も言っても通じないと諦め、後は光智を信じるしかないと腹を括った。
「そこでご相談なのですが、今後のこともありますので、しばらくの間、私のマンションに引越しをされませんか」
「私たちが、光智君のマンションに?」
玲子は戸惑いを見せた。
「真相が分かるまでの間だけです」
「そうねえ。少し考えさせてもらえるかしら」
光智の真剣な表情に、玲子はそう答えた。
サンジェルマンでは一言も言葉を発しなかった真司だったが、光智のアパートの部屋に入った途端、真司が強い口調で言った。
「お前、他に黙っていることはないか」
二、三発殴られる覚悟をしていた光智は、正直拍子抜けした。強い口調ではあるが、怒りを全く感じないのである。
「堀尾さんの件か」
「ああ。お前、彼と仕事をしていたんじゃないのか」
「分かっていたか」
「いや。お前が周英傑の息子だと聞いて、堀尾が殺害されたとき、意外と好意的だったことを思い出し、ピンときたのさ」
「良い勘をしているな。お前の推測通り、堀尾さんは株式投資の仲間だった」
口では誉めたものの、その目付きは、獲物を見据える鷹のようだった。
「それがお前の本当の目か。さすがに、世界一の資産家と言われる男の後継者だな」
真司は、光智の威圧を跳ね返すように言葉を返した。
「他に誰がいるんだ?」
「フューチャーの村井さん、宇佐美グループの宇佐美さん、赤佑の赤木佑一君だ」
「それに堀尾が加わっていたということか。錚々たるメンバーだな」
「……」
光智は無言を返した。真司の腹を探りかねていたのである。
「そして、フィクサーがお前ということか」
「フィクサーとは聞こえが悪いな」
「お前の金が彼らに流れているのなら、フィクサーじゃないか。姿も隠しているのだろう」
真司の声に、嫌味の色を感じた光智は、語気を荒げた。
「お前、俺に喧嘩を売っているのか」
「勘違いするな。お前を許す条件の一つは、俺をその仲間に入れることだ」
真司はあわてて弁明した。なるほど真司の真意はそれか、と光智は思った。
「それなら、覚悟はできているのだろうな」
「覚悟、というと?」
「数億円単位で損をするかもしれない覚悟と、俺の支配下に入るという覚悟だ。たとえ友人といえども、ビジネスに関しては、俺は容赦をする男ではないぞ」
光智は、真司の目の芯を突き刺すように見た。恫喝しているのではない。真司の腹の括り具合を量っているのである。
「それなら、大丈夫だ」
真司は、気圧されながらも言い切った。
「じゃあ、いくら出せる」
「親父に言えば、十億は出せると思う」
「十億か。良いだろう。足りなくなったら俺が貸してやる」
光智は、そう前向きに言った後、転じて慎重な物言いになった。
「ただ、こちらにも一つだけ条件がある。お前を仲間に入れることは、俺の一存ではいかない。皆の了解が必要なんだ。特に村井さんが首を縦に振らないとどうにもならない」
光智は実しやかに言ったが、これは方便だった。村井慶彰が心を許す重要なパートナーであることは事実だが、光智がそこまで遠慮することはない。いざとなれば、村井を口実に真司を切る地ならしなのである。
「わかった。だけど、お前はできるだけ説得してくれるのだろう」
「それは約束する」
「それでも駄目な場合は、諦めて他を考えるさ」
真司は妙に明るく言った。
「他を?」
「お前はいくら動かしているんだ」
「五千億余りだが……」
「五千億だって?」
真司は、眼を剥いてそう言うと、
「とても一介の学生が扱う額じゃないな。それだけお前の父親が大物なのか、あるいはお前に見所があるのか。どっちにしてもとんでもねえ野郎だ。俺はこれまでそんな奴に飯を奢っていたとは、とんだピエロだな」
と自嘲した。
「すまん」
光智は、初めてばつが悪そうにした。
「いや、それはもう良い。それより、五千億もあるのなら、俺と二人で投資する金ぐらい捻出できるだろう」
「そういうことか。良いだろう。もし、皆が反対したらお前とチームを作ると約束する」
真司も然る者だった。光智は、ただのお坊ちゃまでなかったことに気を良くした。
「よし。これで話は付いた」
真司が決意の面で言った。
「話が付いただと……? さっきのお前の口ぶりだと、他にも条件があるんじゃないか」
一転、真司の表情が崩れた。
「結果的に、恭子ちゃんは俺が紹介したようなものだからな。今度はお前が俺に彼女を紹介しろ」
「お前に彼女か……。そうだ、良い娘がいるぞ。恋愛に関して、優柔不断のお前にはピッタリの彼女だ。だが、少々金が掛かるぞ」
「まさか、それも数億じゃあないだろうな」
真司は冗談を言った。ようやくいつもの彼に戻っていた。
大王組若頭の澤村健治の許には、別当光智襲撃失敗の報告が上がっていた。澤村から相談を受けた勝部が、大龍組の枝で横浜・伊勢佐木町の一角を縄張りとする勝栄会の会長・堂本に実行の指示をしていたものである。勝部と堂本は、本牧一帯を勢力図とする暴走族ブラック・スネークに目を付け、巧妙に金を掴ませていた。
緊張の面持ちの勝部とは裏腹に、澤村は気に留めていなかった。小手試しに過ぎないと考えていたし、計算の内でもあった。
「それより、わしらの影は踏まれてへんやろうな」
澤村にとっては、その方が気掛かりだった。
「はい。その点は、堂本にも厳重に言い含めましたので、抜かりありません」
勝部は、澤村から目を逸らさずに答えた。
「せやけど、一人捕らえられたと言ったな」
「はい。リーダーの工藤が捕まりました」
「そいつが『うたう』ことはないか」
うたう、とは白状することである。
「工藤は裏を何も知りません」
「ほうか。それなら、勝部」
澤村の語気が強まった。
「はい」
「堂本には、こちらから指示があるまで一切動くな、と釘を刺しておけ。それと、工藤と接触した葛西やが、奴もほとぼりが冷めるまで、どこか地方でおとなしくさせておけ。場合によっては……」
澤村はそう言って、勝部の目を見て小さく肯いた。勝部は、澤村の心の内を見抜いた。
「わかっています。では、さっそく指示をしますが……、若頭」
「なんや?」
「この後はどのようにされるおつもりですか」
「問題はそこや。護衛はおそらく龍頭やろう。そうなると下手な真似はできん。と言うて、黙って指を銜えている訳にもいかんしな」
澤村が首を捻った。勝部は、かつてこれほど思い悩む澤村を見たことがなかった。筋金入りの武闘派である彼は、抗争の中に生きて来たような男だったからである。
「我々の手を汚すことができないのなら、いっそのこと天聯幇(ティエンリェンパン)に依頼するというのはどうでしょう」
「台湾マフィアか」
澤村は乗り気の無い声を漏らした。
「天聯幇は龍頭と対立関係にあります。金を積めば、引き受けるのではないでしょうか」
経済ヤクザの勝部らしい考えであったが、
「さあ、それはどうやろ。対立してるいうても、それは末端でのいざこざやろ。周英傑の跡目を殺るとなりゃ、全面戦争を覚悟せにゃならんのやで。勝部、それに見合う額ってのは、いったいなんぼや?」
と、澤村は冷ややかな目で見た。
「それは……」
勝部は言葉に窮した。それでも、咄嗟に考えを巡らし、
「では、別当の素性を隠して、相場の値段で殺らせたらどうですか。上手くいけば、龍頭と天聯幇の全面戦争になり、大王組が漁夫の利を得ることもできます」
と意気込んで言った。
だが、澤村はそれをも一蹴した。
「一見妙案のようやが、もし天聯幇にバレたら、大王組は龍頭と天聯幇の両方と戦争になるんやぞ。そないなやばい綱渡りはでけんな」
澤村は数々の修羅場を潜って来た、いわば抗争、喧嘩のプロ中のプロである。学は無くても、その種の頭の回転はすこぶる速い。
「考えが足りませんでした。すみません」
勝部は頭を下げた。
「いや、謝ることやない。俺も、場合によってはお前と同じ事を考えたと思うで」
澤村の声は穏やかなものに変わっていた。
澤村は、親分の山城のためであれば、今でも命を投げ出す覚悟があった。したがって、光智が山城の直接の仇敵であれば、手段を選ぶつもりはなかった。だが、光智は山城の敵ではない。あくまでも、宗方妙雲の敵である。
それでも大王組が、山城一代で築き上げたものなら、潰れるのを覚悟で戦争もできるが、六代という修羅の歴史があった。そこが、澤村に二の足を踏ませるジレンマだったのである。
「大王組のために逝った数知れん極道者のためにも、山城の親父には悪いと思うが、なんぼ恩人やからいうて、大王組が的に掛けられることは避けなあかんと思うとるんや」
「若頭のお気持ちは良くわかりました。私は、若頭の意に沿って行動したいと思います」
澤村の本心に触れ、勝部は額を畳に擦り付けた。
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