第6話 ブックメーカー

 数日後のある夜のこと、別当光智は上杉恭子と横浜のベイブリッジに来ていた。

恭子が人気男性デュオ『ドリーム』のコンサートチケットを入手したので、横浜アリーナで観賞した後、中華街での食事を済ませ、港の夜景を望みに連れ立ったのである。

 上杉玲子の提案を、一度は断った光智だったが、二度目のときには彼自身にある思惑が働いていたこともあって承諾した。彼の思惑とは、加賀見食堂の店主・加賀見雅彦が殺害されたとき、消防署に通報した女性の正体を突き止めることである。

 光智は、本富士署で事情聴取を受けたときの、野崎警部の言った『若い女性』という言葉が、ずっと胸に痞えていた。

 仮に、光智を陥れるための策謀だとすれば、彼が加賀見食堂に行くことを知っているのは上杉母娘だけであり、若い女性といえば、恭子を指していることになる。

 だが、光智には上杉母娘に恨みを買う理由に心当たりがない。思案を重ねた結果、ついに恭子を直接探ってみる決心をしたのだった。

 横浜ベイブリッジは、すっかり夜の帳に包まれていた。吸い込まれそうなほどの明澄な満天に、両手でビー玉を目一杯投げ付けたような星屑が犇めき合って瞬いている。時折、思い出したように、横浜の街明かりが映る海面を這うように吹き抜けてゆく潮風が、なまめかしく肌をなぞった。

 二人はベイブリッジを望む岸壁に車を止め、鉄柵に身を乗り出して異国情緒の漂う空間に佇んでいた。

 辺りには、ちらほらとアベックの姿があった。

 光智がさりげなく横を向くと、気配を察した恭子も向き直った。目と目が合った瞬間、光智の胸は高鳴った。瞳は清心さを誇示するようにどこまでも澄み、鼻は高からず低からず形が整い、唇は少し厚めでルージュが潤んでいる。額が広く、細やかでさらりとした黒髪が肩の先まで靡いていた。たよりない電灯の明かりの下でも、はっきりと分かる透明感のある白い肌が目を釘付けにする。

 光智は、自慢げに言った玲子の言葉が、決して大袈裟ではないことを実感していた。恭子が街を歩いていると、男性から何度も声を掛けられるのだという。

 いわゆる『ナンパ』ではない。芸能プロダクションの関係者からである。なるほど、これだけの美形で、スタイルも抜群の彼女なら、生存競争の激しい芸能界でも成功するだろうと思われた。

 だが、彼女は見向きもしなかった。上辺だけ華やかで、裏では権謀術数が渦巻いているとの噂のある世界は性に合わない、と。

 光智はそれを聞いたとき、心から安堵した。彼女の純真無垢な精神が汚されずに済むと思ったのである。むろんどの世界でも、一切傷付かずに生きて行くことなど有り得ないと承知してはいるが、芸能界で有象無象の輩に、無残なまでに心身を切り刻まれて行くことを思えば、他愛のないことである。恭子は、それほどまでの崇高な美しさと純真さを持ち合わせていた。

――そんな彼女が、人を陥れるようなことをするだろうか。

 ふと、光智に疑念が過ぎった。疑念というより、一瞬でも彼女を疑った自責の念ともいうべきものであろうか。

 と、そのときである。

 静寂を打ち破るように、耳を劈く轟音が鳴り響いた。そういえば、先刻から遠くで複数のバイクのエンジン音が耳に入ってはいた。それが、気が付いたときには、すぐ傍に迫っていたのだ。

 振り返ると、五台のバイクと一台の乗用車が蛇行しながら向かって来ていた。

 まずい、と光智は思った。車は、少し離れたところに置いてある。周りにいたアベックたちは、車に乗り込んで逃げ去ろうとしているが、彼らは見向きもしない。 どうやら、自分たちが目当てだと光智は悟った。

 戦うか。光智は咄嗟に身構えた。まんざら腕に覚えがない訳でもない。五歳の頃より、護身術としてカンフーを習っていた。厳しい鍛錬のお陰で、かなりの腕前になっていた。だが、三、四人までなら何とかなる自信はあるが、相手は八人である。しかも、金属バットを持っている奴もいる。

 それでも自分一人であれば、怪我を覚悟で戦いもするが、隣には恭子がいる。何としても、彼女だけは護らなければならない。

 二人を取り囲んだ連中の中からヘッドらしき男が、バイクを降りて歩み寄った。

「おお。これは凄げえ良い女だ。思わぬおまけまで付いた」

 男は、品定めをするかのように彼女を目で嘗め回すと、大仰に言った。

 ヒューヒューと、男たちが一斉に囃し立てた。

――おまけ? ということは端から俺が目的ということか。

 光智は、緊張感の中にも冷静に分析していた。

 この種の連中は、たいていはカツアゲか強姦が目的である。だからこそ、アベックの多いこの辺りを屯しているのだ。それが、彼女を『おまけ』と言った。明らかに光智を標的にしているのだ。しかも、金品目的ではないことがはっきりとしていた。

「工藤さん。女は後で輪姦(まわ)しましょう」

「おう。それがいい、散々に甚振ってやろう」

下劣な言葉が飛び交った。リーダーは工藤という名らしい。

――こんな奴らに彼女を汚されてたまるか。

 光智は、総毛立つほどの怒りを覚えたが、反面冷静な自分がいることも意識していた。

 光智は、咄嗟に二つの選択肢を考えていた。

 一つは、海に飛び込むことである。まさか、奴らも海中までは追ってこないだろう。仮に追って来たとしても、泳ぎと巣潜りにも自信のあった光智は、地上より一対一で戦えると計算していた。時間も稼げると思っていた。その間に彼女を逃がすことも可能だし、誰かの警察への通報も期待できる。

 もう一つは、目の前の工藤というリーダーを撲殺するのである。端から撲殺を目的とする訳ではないが、その気合でひたすら狂気の如く工藤を殴り続けるのである。

 結果として、殺害することになっても、それは止むを得ぬ事と腹を括るのだ。多勢に無勢のときの、いわば死中に活を見出す戦法である。光智は、カンフーの師匠から教わったこと思い起していた。

 おそらく、彼らのような不良の輩でも、目の前で人が殺されるところを見たことはないだろう。さすれば、恐怖心が沸き闘争心は萎える。彼女のことも放念するだろうと推量していた。

 彼は、ある程度の正当防衛が認められる可能性も、父周英傑の力に頼ることも計算に入れていた。性格は温厚でも、彼は龍頭という中国黒社会の首領の息子として育てられたのである。非情な面は十分に持ち合わせている。非情というより、危機管理能力、いや生き抜く本能といった方が正確かもしれない。

 光智は小声で、泳げる? と訊いた。

自信がない、と彼女は返事をした。

これで腹は決まった。光智が有無を言わさず目の前の男をぶちのめすだけと、握り拳に力を込めたときだった。気配を察した工藤がさっと後ろに引いた。そして、他の七人が前面に押し出して来たかと思うと、左手の男が有無を言わさず、金属バットを打ち付けてきた。

光智は、右足を一歩引きながら上半身を逸らしてかわすと、流れるように引いた足を踏み込んで、右の掌底を男の顎に当てて突き飛ばした。脳震盪を起こし、しばらくは動けない。

 続いて、右手にいた男の腹部への一撃を、身体をくの字にして避け、左下段の蹴りで右ひざを砕いた。だが、三人目の一振りをかわし切れなかった。光智の左肩から背に掛けて打ち抜いたのである。強烈な痛みが貫き、光智の左膝が崩れた。それでも、次の一撃は前転してどうにかわしたが、その結果、恭子の間に距離ができてしまった。

 しまった、と思ったときは、すでに遅かった。抵抗する恭子を連れ去ろうとする工藤の姿が目に映ったのである。光智は、起き上がって恭子の元に戻ろうとするが、前に五人の男が立ちはだかった。

 激しい焦燥感が光智を襲った。それは彼に、金属バットで打ち付けられた痛みより失意をもたらした。打ちひしがれる光智の目に、さらに追い討ちを掛ける光景が映り込んだ。いつの間にか連中の後方に二台の車が止まっており、五人の男が立っているのだ。

 新手か? 光智に更なる動揺が奔った。五人の男は、見るからにその道のプロだとわかったからである。目の前の男たちだけでも手に余るというのに、そのうえプロが相手となればどうにもならない。

まさに絶体絶命だった。彼の失意は絶望に変わろうとしていた。

 ところが次の瞬間、光智は我が目を疑うことになる。後から来た五人が、暴走族の連中を片付け始めたのである。しかも、彼らの身体の捌き、蹴りや突きの型は光智が見慣れたものだった。

カンフーだった。四人の男たちは、苦もなく暴走族五人を叩きのめし、残るは工藤一人となった。戦いを傍観していた残る男が、工藤に近づいて行った。遠目にも、工藤の身体は恐怖に震えているのが看て取れた。男が無言で腹に一突き入れると、工藤は苦痛に呻き声を上げ、地面に崩れ落ちた。

彼らの正体に見当が付いた光智は、男に近づいて行った。すると、男はサングラスを外し、前屈みになりながら低い声で言った。光智には懐かしい広東語の響きだった。

「遅くなりました、少爺(シャオイェ)。お怪我は?」

 少爺とは若旦那という意味で、偉い人の息子に対する敬称である。現在の中国の一般社会では、このような意味では使わないが、古い仕来りが残る世界では用いられている。

「大丈夫だ。なぜか、本気で打ち付けてはいなかった。それより、お前らは龍頭だな」

 光智は威厳のある声で訊いた。むろん、広東語である。

「はい」

 男は目を地面に落としたまま答えた。

「名前は」

「……」

 男は何も答えなかった。光智は、彼らは父英傑の直属なのだと察した。そうであれば、名前を明かさないのも頷けた。

「父の命か」

「はい」

「わかった。ご苦労さん」

「恐れ入ります」

 そう言うと、男はようやく顔を上げた。

「さて、奴らをどうする」

「リーダーだけ連れ去り、目的を吐かせます」

「そうか。何かわかったら、俺にも知らせてくれるか」

「……はい」

 男は、少し考えて了承した。

 光智は恭子を見た。この一連の成り行きが、彼女の目にどのように映ったのか気になっていた。もっとも、こうなった以上は、身の上を話さない訳にはいかないだろうと腹を決めてはいた。

 だが、光智の懸念に反して、彼女は意外に平然としていた。まるで、夢の中の出来事のような顔つきだった。

「大丈夫、怖くなかった?」

 光智は優しい声を掛けた。 恭子は、俯き加減でポツリと呟いた。

「信じてた」

光智は、溢れる想いに胸が詰まった。彼女にとっては、生まれて初めての体験と思われる極限の状況でも、自分を信じていてくれた。光智は、その健気さを目の当たりにして、心の底から愛しいと思った。


 二人は、彼らの車に乗り込んだ。

「帝都大学の方へ行ってくれ」

 光智が運転手に指示すると、

「いえ」

 と、恭子が首を振った。それが何を意味するのか、光智にはわからなかった。

「そうだね。あいつらの仲間が着けて来るとも限らないから、一応用心をして、僕のマンションに寄る方が安全かもしれないね」

「うん」

 マンションと言ったのに、彼女は迷いなくコクリと首を落とした。

「お前とは、前にも会っているな」

 光智は、助手席に座った先ほどの男に訊ねた。襲撃の際は高揚していたせいもあってか気が回らなかったが、落ち着いて記憶を辿ると、父の護衛をしていた男だと思い出した。

「はい」

「いつから俺の護衛をしている」 

「四年前からです」

「四年前というと、俺が日本へ来てからか」

「はい」

「それから、ずっとお前たちが?」

「いいえ。私たちは、最近です」

「お前たちの色は?」

「……」

「それも言えないのか」

 光智が嘆息すると、男ははしばらく逡巡した後、ようやく答えた。

「……黄です」

「黄だと!」

 光智は驚愕した。黄とは黄龍のことである。光智は、父英傑から一度だけ聞いたことがあった。二十数万人いる龍頭の構成員の中でも、特に格闘技に優れた者は英傑の直属に選ばれた。英傑の護衛部隊として取り立てられるのである。その数は二百名とも三百名ともいわれているが、実態は龍頭の頭である英傑本人と、副頭の王辰逸(オウ・チェンイ)しか知らない。

 ともかく、その彼らをさらに黄、赤、青、緑、白の五段階に選別して編成している。つまり、黄は龍頭の中でも最上位の部隊なのだ。英傑は、その最強部隊を光智の護衛のために付けていたのである。

「お前が頭か」

「いいえ。一つの班を預かっているに過ぎません」

「黄龍に班は幾つある」

「……」

 男は、組織内部のことになると口を硬く閉ざした。光智は質問を変えた。

「黄龍の頭も日本に来ているのか」

 男は、黙って頷いた。頭が来日しているのなら、メンバーの多くが日本のどこかに潜伏していることになる。おそらく、治外法権的な様相を呈している新宿・歌舞伎町辺りを活動の拠点にしているのだろうと、光智は推測した。

 それにしても黄龍とは、と光智は思った。それが父の愛情なのか、それともただならぬことを予期してのことなのか……。

――もしかすると、二つの殺人事件も、その辺りと関係があるのか。

 光智は、得体の知れない不気味な影を意識せずにはおれなかった。

 やがて、車は湾岸タワービルの地下駐車場に入った。護衛の男たちが辺りを注意深く見回し、不審の無いことを確認してから、光智と恭子を車から降ろした。エレベーターで最上階に上がり、部屋に着いた。


 この数日、中筋博司と都倉正義の両刑事は、銀座、赤坂、六本木界隈のクラブや高級キャバクラ通いをしていた。もちろん、飲み歩いていた訳ではない。彼らの安月給では、とても足を踏み入れられる世界ではない。

 堀尾貴仁が主催していた投資事業組合の線を辿った二人だったが、契約書が紛失していたうえに、堀尾の独断専行による事業だったため、他に内情を知る者がおらず、すぐに断ち切られた。

 そこで中筋は、宇佐美彬の情報入手が高級クラブだったこと、防犯カメラに映っていたのも風俗関係者と、いずれも夜の世界だったことから、森野係長の了解を得て、堀尾の交友関係の洗い出しを、仕事関係から鵜飼主任の守備範囲である水商売関係者に移したのだった。宇佐美から聞いたクラブを足掛かりに、堀尾の馴染みの店を軒並み廻っていたのである。

 だが悲しいかな、確かな手掛かりを基にした捜査ではなかったので、決して潤沢とは言えない捜査費を当てにすることはできず、さりとて小遣いで賄える次元の話ではない。彼らはドアの中の別世界に入ることなく、踵を返すことしきりだったのである。

 しかもドアを開けたときは、一瞬歓迎の笑顔を受けるが、彼らの風体を見た途端、察しの良い黒服ならばすぐに笑みを消し去り、警察手帳を見せれば露骨に嫌悪感を漂わせる。国家権力である警察は、この世界、特に脛に傷のない者には快く思われていないため、簡単に客の情報を得ることはできない。

 それほど、夜の世界からの情報収集は一筋縄ではいかないのだが、それでもようやく、堀尾が六本木の会員制最高級クラブ・ベルサイユの『沙耶香』というホステスと親しかったという情報を入手したのだった。

 この夜の中筋は、心中穏やかでなかった。森野に掛け合って、ようやく捜査費として五万円を決済してもらったが、ベルサイユはそれで足りるような店ではない。 座って水を一杯飲んだだけで、五万円は霧のごとく消えてなくなるのだ。ボトルキープはしないまでも、ビールの一本も飲まなければならないし、指名料も掛かる。捜査のためとはいえ、どれだけ足が出るのだろうかと憂鬱だったのである。

 ベルサイユは六本木でも名高い店だった。

 在籍しているホステス八十名の内、約四割に当たる三十名余が、実際に芸能活動をしているタレントやその卵、そしてモデルたちだったからである。それ以外も、現役女子大生を中心に、選りすぐりの美女を揃えていた。彼女らを目当てに成金たちが屯し、店は連日盛況を極めていた。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか」

 中筋がドアを開けた途端、黒服から声が掛かった。四十絡みの貫禄のある男だった。どうやら、支配人のようである。

「初めてだけど、良いかな」

 中筋は、一応訊いてみた。一見はお断り、と言われれば、警察手帳を見せる腹積もりでいた。正直に言えば、心のどこかでその方が助かるとも思っていた。

「結構です。どうぞ」

 だが、男はあっさりと中筋を招じ入れた。会員制を標榜するのは、主に暴力団関係者の入店を拒否するための方便であり、現実には、ママや支配人の裁量で入店はできるのである。このあたりは、京都の御茶屋などの、一見さんはお断りとは明確に異なる。

「沙耶香さんをお願いしたいのですが」

 中筋は、男の去り際に言った。男は、少し困惑した面を見せた。

「沙耶香さんをご指名ですか……」

「知人の紹介なのですが」

 微妙な気配を感じた中筋は咄嗟に補足した。

「わかりました」

 そう言うと、男はいかにも金持ち風の中年を接客していた女性に声を掛けた。彼女は、中筋の方を振り向いて軽く会釈をすると、客に一言声を掛けて席を立った。

 どことなく古風な雰囲気の漂う美女だった。以前は女優を目指し、V・シネマにも数本出演していたらしい。

「いらっしゃいませ。沙耶香と申します」

 沙耶香は中筋の前に立ち止まると、感じの良い笑顔を浮かべながら名刺を差し出した。中筋には、彼女を指名したときの男の反応が分かった気がした。彼女は、この店のNO1なのだ。その彼女を、しがない風体の自分が指名したことを怪訝に思ったのだろう。

「申し訳ありませんが、名刺を持ち合わせていませんので」

 中筋は恐縮しながら名刺を受け取った。

「お客様初めてですね。お名前は何とおっしゃるのでしょう」

「あっ。申し遅れました。中筋です」

 さすがのベテラン刑事も、勝手の違う世界の雰囲気に、戸惑いを隠せなかった。

「お飲み物は何になさいますか」

「そうだな。ビールをお願いします」

 沙耶香は片手で合図を送ってボーイを呼び、注文を伝えると、中筋を見つめて訊いた。

「知人って、どなたかしら?」

 その表情は、全く見当が付かないというものではなかった。夜の世界、取り分け高級クラブのNO1ホステスともなれば、ただ美人というだけでは成れない。教養、立ち居振る舞い、話術はもちろんのこと、人を見る目、つまり洞察力がなくては務まらないのである。

 中筋は、この聡明な女性には正直に話した方が良いと思った。

「堀尾さんです」

「やっぱりね。中筋さん、刑事さんでしょう」

「そこまでわかりますか」

「何となくですけど、そんな感じがしました」

 沙耶香は得意げに言った。

「では、私がここに来た理由もおわかりなのですね」

「わざわざ足を運んでいただいたのですが、堀尾さんのことでしたら、あまりお役に立てないと思います」

 沙耶香は、ボーイが運んだビールを注ぎながら言った。

「かなり親しかったと伺っていますが」

「誤解なさらないでね。男女の関係ではありませんから」

 彼女は強い口調で言った。

「わかっています。貴方は金に転ぶような女性ではない。私も刑事を三十五年やっていますからね。人を見る目は有るつもりです」

 中筋はビールを一口だけ飲むと、沙耶香を見つめて言った。

「有難うございます。刑事さんにそう言って頂くと、何だか嬉しいわ」

 沙耶香は満更でもない様子で言った。

「では、堀尾さんの一方的な思い入れだったのですね」

「そうは言っても、店にとっては大切なお客様ですからね。粗略に扱うこともできないので、適当に食事などに付き合っていたのです。それに、元々の本命は彼女だったんです」

 沙耶香は、ちょうど横を通り過ぎたホステスを目で指し示した。細身の長身で、スタイル抜群の女性だった。『真衣』という雑誌モデルなのだが、彼女が全く相手にしないため、沙耶香にお鉢が回ったのである。上客の堀尾を逃さぬよう、店側として沙耶香にフォローを要請したのである。

「そこでお訊ねしたいのですが、食事などの際、堀尾は何か言っていませんでしたか」

「お酒が入ると、俺は笹野何とかに成る、と口走っていました」

 彼女は即答した。あまりの反応の速さに、中筋はつい刑事の性分を出してしまった。

「笹野。間違いないですか」

 と、強い口調で質したのである。

「間違いありません。二、三度耳にしましたから」

 沙耶香は、それにも怯むことなく言い返すと、機嫌を損ねたのか、

「刑事さん。笹野って、どこかの大会社の社長さんか何かですか」

 とぶっきらぼうに訊いた。

「すみません。つい、きつくなりました」

 中筋は率直に謝ると、

「笹野とは、おそらく笹野銀平のことだと思います」

 と説明した。

「笹野銀平ってどなたです?」

 そう問うた沙耶香の目に一点の曇りも無いのを見た中筋は、なぜだか愉快になった。

「貴女のような若い女性には、さすがの笹野銀平も形無しですね。公営ギャンブルの首領で、政界の黒幕といわれた大立者ですよ」

「へえ、そんなに大物なのですか」

 沙耶香は少々大仰に言うと、

「堀尾さんは、なぜ畑違いの人を目標にしたのかしら」

 と不思議そうに言った。

「そうですね、畑違いですね」

 中筋は相槌を打ちながら、『やはり堀尾は、賭博絡みで何かを考えていたのだ』との確信を深めた。だが、それがどういうものなのかまでは見当は付かない。

「ねえ、中筋さん。私も何かお飲み物を頂いて宜しいかしら」

 彼女の一言が中筋を現実に引き戻した。

「気が利かなくてすみません。何か好きな物をどうぞ」

 そうは言ったものの、中筋の胸が急に痛んだ。高級ワインなどでも注文されたら堪ったものではない。

「おビールを頂こうかしら」

 沙耶香は、中筋の心中を見透かしたように言った。助かった、と思った中筋だったが、中瓶でも三千円は下らない。

「良いですよ」

 中筋は作り笑顔で答えた。彼女の気分を害することはできないのだ。

  沙耶香は、中筋の注いだビールをいかにも旨そうに一気に飲み干し、宙を見つめたまま記憶を辿った。

  少し間が空いた。  

――ここまでか……。

 中筋は無駄足となったと、諦め掛けていた。彼女の証言により、光智の情報の裏は取れたものの、それ以上の収穫が無く、当てが外れた格好だった。

「では、何か思い出したら……」

  中筋は席を立とうと思っていた。懐具合が気になって心が落ち着かない店に長居は無用である。

 ところが、

「そういえば、お役に立てるか話かどうかわからないけど……」

 と、沙耶香の視線が中筋に戻った。

「どんなことでもかまいません」

 中筋の目も輝きを取り戻していた。

 彼女が堀尾と食事をしているときに、彼が一度だけ携帯電話に出たことがあったのだという。いつもであれば、電源を切るかマナーモードにしており、決して通話することがなかったので、沙耶香は好奇の眼差しを向けていた。すると、堀尾の表情が見る見るうちに強張り、あわてて席を外したので、ますます不思議な思いになった。

 そこで沙耶香は、いきなり片目を瞑って見せた。何とも愛嬌のある仕種だった。彼女は、優雅な大人の色気の中に、小悪魔的な魅力を内在させている。

「どうかされたのですか」

「その後、トイレに立ったときに、悪いと思ったのだけど悪戯心が沸いたの」

「悪戯心?」

 中筋には沙耶香の微笑の謎が解けなかった。

「彼が携帯をテーブルの上に置き忘れたのね。電話のときといい、トイレのときといい、彼が心ここに在らずなんてことは、これまでに一度も無かったから、よほど重要な用件だったのだろうと、電話の相手に興味が湧いてね。悪いとは思ったけど、携帯を覗いちゃったの」

「誰だか分わりましたか」

 中筋の声には期待が滲んでいた。

「ならたつあき、という名前でした」

「どんな漢字ですか」

「奈良県の奈良と、ドラゴンの龍に、明るいの龍明です」

「奈良龍明に間違いありませんか」

 中筋は興奮を抑え、静かに訊いた。

「間違いありません。着信画面の一番目に残っていましたから……。奈良龍明の後、電話は一度も掛かって来ていませんでした」

 沙耶香も穏やかな声で答えた。

「それなら確かですね。それで、会話の内容は分かりませんか」

「それはわからないわ。ごめんなさい」

「とんでもない。貴女が謝るようなことではないですよ。奈良龍明という名前が分かっただけでも収穫です」

 中筋は右手を顔の辺りで左右に振った。

「お役に立てたのかしら」

「ええ」

「真犯人は捕まえられるかしら」

「そこまでは何とも……」

 口を濁した中筋に、再び沙耶香の小悪魔的な表情が向けられた。彼は嫌な予感がした。

「もし、真犯人逮捕に役立ったら、ご褒美を頂けないかしら」

 やはりな、と思いつつも、中筋はそのようなことは億尾にも出せない。

「ご褒美? 何がご所望ですか」

「そうね。一度、同伴して下さらない?」

「同伴……、ですか」

 中筋は思わず唾を呑んだ。呑み代だけで五万円以上も掛かるのに、食事も加わるとなると、十万円を超える計算になる。

「大丈夫よ、心配しないで。お寿司とかフランス料理とか言わないから。居酒屋か焼き鳥で良いわ」 

 沙耶香は気遣ったつもりである。中筋の一ヶ月の小遣いを超えていることなど知る由も無いのだ。

 だが、中筋は柔和な表情を保ちつつ、

「真犯人逮捕に役立ったら、必ず同伴すると約束しましょう」

 と言わざるを得なかった。

「じゃあ、他に何か思い出したら電話しますから、名刺を下さい」

 沙耶香の目が笑っていた。

「そうだね。もう渡してもかまわないね」

 中筋も苦笑いしながら名刺を渡した。

「へえ。巡査部長さんか。案外偉いのね」

「それが、ちっとも偉くないんです」

「だって、部長さんでしょう」

 沙耶香は、まるで脳天から出したかのような声で言った。

「一般の会社と違って、部長の名が付いても、下っ端です」

 そう卑下した中筋だったが、瞼には矜持が宿っていた。彼には、刑事の本分が何であるかの自負があったのである。

 たしかに、警察機構の役職と階級は分かり難い。巡査部長というのは、十ある階級の下から二番目で、主任や係長、課長といった役職とは別物ものである。同じ部長の名がつく役職に刑事部長があるが、階級でいえば、巡査部長の五階級も上位の警視長に当たる。

 ちなみに、課長や部長といった役職は、一般の会社のそれよりも強い権限を有している。例えば、警視庁の捜査一課長は、首都東京の強盗や殺人など、凶悪犯罪の捜査指揮を一手に担う重職である。

「そうですの、面白いですね」

 沙耶香は納得した表情で言うと、

「そうだわ、私の携帯の電話番号も教えておきますわ」

 ともう一枚別の名刺を差し出した。そこには、彼女の携帯電話の番号と、メールアドレスが記載されてあった。

「では、そろそろ失礼します」

 中筋がそう言うと、沙耶香が席を立ち、支配人と何やら話をした。ほどなく、沙耶香に続いて、支配人が会計を持ってやって来た。

 いったいどれくらいなのだろう、と中筋の心は鉛を抱えたように重かった。少なくとも六万円は超えている。持ち出し分は、今月の小遣いの残りだ。彼の脳裏には、鬼の形相をした妻が浮かんでいた。

「有難うございました」

 と差し出された会計を見て、中筋は我が目を疑った。料金は、ちょうど三万円だったのである。正直、助かったと思った中筋だったが、即座には訳がわからなかった。

 何気に沙耶香を見ると、胸を張らんばかりに、どうだという顔をしている。

――そうか。彼女が支配人に掛け合ってくれたのか。NO1とは、それほどの力を持っているのか。

 中筋は、あらためて目の前の彼女を見つめ、

「こうまでされたら、必ず同伴しなくてはならないね」

 と観念したように言った。だが、彼女の心遣いに気分は良かった。小遣いさえ許せば、何度でも来たいと思ってしまうほどだった。

 外へ出て、地上への階段を上がった。表通りの喧騒が、中筋の耳に徐々に大きくなっていった。階段を上りきったところで、道路脇まで送ってくれた彼女に、

「今夜は有難う。では、また……』

 と礼を言おうとして振り返った中筋は、はて? と首を傾げた。彼女の視線が遠くにあったのだ。

「どうかしたかね?」

 中筋も彼女の視線の先に目を合わせた。そこには、『BOOK』という看板が掲げてあった。

「そうだ。思い出したわ」

 彼女は弾けるように言った。

「何を思い出したのだね」

 つられて中筋の声も大きなものになった。

「堀尾さんが席を立ったとき、たしか『ブック』と呟いたわ。あの看板を見て思い出したの」

「ブック? 本のことかな」

「それはわからないけど」

「でも、たしかにブックと言ったのだね」

「はい。それは間違いありません」

「わかった。後はこっちで調べてみるよ」

 中筋は手を振る彼女に軽く頭を下げると、ネオンシャワーを浴びながら、人混みを掻き分け、足早に都倉の待つ喫茶店へと向かった。


 都倉は『マドンナ』という喫茶店で中筋を待っていた。交差点に面したこの老舗カフェは、恋人たちの待ち合わせのスポットとして賑わいを見せている、六本木でも有名な店だった。そのような場所で、人相の悪い男が二人でコーヒーを飲んでいる様は、一種異様だった。

「何か手掛かりが掴めましたか」

 都倉は中筋が席に着くなり、待ち兼ねたように問うた。中筋は『奈良龍明』という人物と堀尾が呟いたという『ブック』の言葉を話した。

「奈良龍明とは何者でしょうかね」

「おそらく、堀尾の事業投資組合の仲間ではないかな。電話の様子からして、二人の間に何らかのトラブルがあったと思われる」

「では、奈良龍明が真犯人ですか」

 都倉は結論を急ぐように訊いた。

「いや。いくらなんでも、それは短絡過ぎる」

「でも、捨て置けませんね」

「それはそうだ。他に、有力な手掛かりが無い以上、どんな些細なことも捨て置けない」

「そうですね……」

 そう相槌を打った都倉だったが、急にどこか上の空になった。

「都倉君、どうかしたのかね」

「ええ」

 やはり生返事である。

「気になることがあるのなら、遠慮なく言いたまえ」

「もう一つのブックなんですけど、どこかで目にしたような気がするのです」

「そりゃあ、本屋なら至る所で目にするだろうよ」

「そういうことではないのです。何だったかなあ……」

 都倉は、脳の襞を一枚一枚剥ぐようにして、記憶を辿っていった。そして、

「そうだ!」

 と声高に言った。

「ブックとは、ブック・メーカーのことではないでしょうか」

 都倉は瞳を輝かせて言ったが、中筋の反応は鈍かった。

「ブック・メーカーって、最近テレビでよく話題になっている賭博の胴元のことか」

「そうです。有名なのは英国の政府公認のやつです」

「政府が公認しているのか。だが、いずれにしても外国の会社だろう」

 中筋の素っ気無さは相変わらずだったが、都倉はしたり顔になった。

「それがですね、中筋さん。そのブック・メーカーのライセンスを初めて日本人が取得したらしいのです。その記事をどこかのスポーツ紙で読んだ記憶を思い出しました」

 転瞬、中筋の顔つきが一変した。脳が激しく作動し始めたのである。

「ちょっと、待てよ。その日本人っていうのが、奈良龍明だとしたら、どうなる。堀尾は、投資事業組合を通じて奈良に出資をしようとしていた」

「だから、笹野銀平に成る、などと吹聴していたのですね」

 都倉の言葉にも力が籠っていた。

「ブック・メーカーを利用して賭博事業に参入すれば、たしかに笹野銀平に近付くことも可能になる。ITの分野では、並外れた才能の持ち主だったという彼なら、強ち夢物語ではないな」

「ところが、二人の間に何かのトラブル、たとえば利益の配分か何かで揉めたため殺害された、と考えれば一応は筋が通ります」

と言ったところで、

「あっ!」

 都倉が今度は悲鳴のような声を上げた。周囲の客が、一斉に不快な目を注いだほどだった。

「都倉君、落ち着きたまえ」

 中筋は周囲を気にしながらなだめた。都倉は必要以上に声を低めて言った。

「中筋さん、ブック・メーカーの略語は『BM』ですよ」

「ぐふっ」

 さすがの中筋も、口に含んだコーヒーを吐き出しそうになった。

「捜査会議に諮りますか」

 都倉が興奮を抑え切れないように急いた。

「いや、まだ早すぎる。あくまでも我々の憶測に過ぎん。物証の無いままだと、袋叩きに遭ってしまう。ともかく、奈良龍明の所在を掴むことが先決だ。それと、君はスポーツ紙の発行元を当たって、記事の確認とライセンスの取得者を割り出してくれ」

 中筋の目がきらりと光った。それは真実へと迫る老刑事の執念に満ちた輝きだった。


 恭子は、その広さに呆然としていた。光智がただの学生ではないことは、加賀見食堂の土地の一件でうすうす察しが付いていたが、まさかこれほどのマンションに住んでいるとは想像もできなかった。

 光智の傷の手当をした後、八十畳もあるリビングのソファーに座っていた恭子は、居心地が悪そうにしていた。

「どう。少しは落ち着いた?」

 光智は、コーヒーカップを手に恭子の横に座った。

「うん。でも、何だか……」

 恭子は部屋の中を見渡しながら言った。

「そうだね。きちんと、話さなければいけないね」

 光智は、恭子の心の内が分かっていた。

「無理しなくても良いけど」

「いや。いずれ分かることだから、今話すよ」

 光智は、コーヒーを一口飲んだ後、恭子の目を見つめた。

 彼は、実父が香港のホテル王とか賭博王と呼ばれている実業家・周英傑であること、そして四年前、英傑の古い知人である島根の別当家に養子として出されたことを告白した。

「だけど、光智君の日本語って、とても四年とは思えないほど上手ね」

「日本語はね、物心が付いた頃から習っていたんだ。日本語だけじゃなくて、歴史や文化、慣習も教えられていた」

「何だか、まるで養子に出されることが前提だったようね」

――なに、そうだったのか……?

 光智は、分厚い雲の切れ間から、真実を照らす薄日が漏れ始めたような気がした。これまで彼は、日本語を始めとする、日本に関する教育はビジネス上のこと、つまり経済大国である日本進出を目論む上で役に立つという親心だと思っていた。 同様の意味で英語も堪能になっている。

 だが、恭子に言われてみて、父英傑の態度に思い当たる節がある。日本語はともかく、歴史や文化、慣習においても、必要以上に細かく教育されたような気がする。それは恭子の言うように、予め日本人になることが決まっていたとも取れなくはない。

 とはいえ、英傑の一人息子という紛れも無い事実がある。彼は、そんなはずはないと思い直すが、恭子はさらに真実の扉を押し開くような言葉を吐いた。

「でも、光智君って一人息子だったわね。それでも養子に出されたのなら、よほどの事情があったのね」

 光智は返答のしようがなかった。恭子の指摘はいちいち的を射ているのだ。

「別当家ってどんな家なの?」

「島根でも屈指の旧家らしいことしかわかっていない」

 事実、別当の義父母とは、来日した当初と日本国籍を取得するときなど、ほんの数回しか会っていない。それも、儀礼的な話に終始し、お互いの家族や個人的な会話はなかった。

「たったそれだけなの」

 恭子は呆れ顔で言った。

 光智には、恭子の言いたいことが分かっていた。しかし、この養子縁組はあくまでも形式上のことで、思慮深い父には何か考えがあるのであろうと、光智は何の疑いも持たずに従っていたのである。

「それで、さっきの人たちは?」

「父の護衛をしている人たちなんだ」

「うわー。ボディーガードなんて初めて見た」

 恭子は無邪気に言った。彼女の屈託のない明るさに、光智は心が癒されてゆくのを実感していた。

「父は、仕事柄敵も多いんだ。それに、日本と違って中国は治安が悪いからね」

「じゃあ。あの人たちが日本にいて、お父様は大丈夫なの」

「他にもいるらしいから、心配はないと思う」

 そう言った光智の目に、壁掛けの時計が映り込んだ。午後十時を指していた。

「恭子ちゃん、そろそろ送って行くよ」

 光智は、名残惜しさを振り切って言った。

「うううん」

 恭子は、いやいやをするように首を横に振った。

「でも、もう遅い。玲子ママも心配しているよ」

「ママは大丈夫。今日はどんなに遅くなっても良いって」

 恭子は俯き加減で言った。

「そうは言っても……」

 口ごもった光智は、恭子の頬が赤く染まっているのを目にした。

「じゃあ、泊まることも?」

 恭子は返事をする代わりに、小さく頷いた。その瞬間、光智は血液が逆流するかのような興奮を覚えた。

 だが、一方で躊躇いもあった。恭子には、己の正体の全てを話してはいないのだ。

 北条有紀には悪いと思うが、恭子とはいい加減な気持ちで肉体関係を持つことはできなかった。恭子は有紀のように大人ではないし、それどころか同年代と比べても幼い。当然、まだ男を知らない身体だろう。そんな彼女を抱いて良いのだろうか、と光智は自問自答していた。

 恭子は居た堪れないように、ソファーから立ち上がり、東の窓際に身体を寄せた。

 光智は、後を追うように近づいていった。彼の眼下には、巨大な物体が蠢いていた。悪魔のようにうねり、娼婦のように光揺らめいているそれは、何者をも包み込んでしまうかのような、底知れぬ奥深さをも持ち合わせている。

「さっきより星が大きいね」

 夜空を仰いでいた恭子が呟いた。彼女は、このペントハウスからの眺めをそう表現した。

 光智は、そのあまりの愛らしさに、抱きしめたい衝動に駆られるが、後ろめたさが解消されずに残っている。本能と理性のせめぎ合いが、光智の躊躇いを増幅させていった。

 恭子は、まるでそれを察したかのように、横顔を光智の胸に沈めた。彼女が放つ甘い香りが鼻孔を、その温もりが肌を通して伝わっていった。

 その目眩がするほどのときめきに、たちまち欲望が理性を凌駕した。

「ママに、ここに泊まるって電話をしたら?」

 光智は逸る心を抑え、極めて冷静に言った。


 江東区・辰巳埠頭。物流センターや倉庫が立ち並び、深夜ともなれば全く人気が無くなるこの場所に、一台の車が到着した。車は、埠頭に差し掛かった辺りからヘッドライトを落とし、周囲に気を配りながら、とある倉庫の中に入っていった。

 極東倉庫との看板が掲げてあり、東南アジアからの冷凍食品を保管するための倉庫のようだったが、実は日本における龍頭のアジトの一つであった。地下二階に秘密の部屋があり、各種の武器や現金が置かれていた。むろん、警察の不意のがさ入れを受けても、決して龍頭には辿り着けない細工は施されている。

 光智を襲った暴走族・ブラック・スネークのリーダーである工藤は、目隠しをされたままその部屋へ押し込まれた。工藤の口を割らせるための拷問が始まるのだ。 拷問といっても、龍頭は顔面や腹部を殴打したり、ガスバーナーで火炙りにしたりして、外傷を負わせることはしない。

 身体の痛みに訴えるのは下策であり、最上策は精神、次善は神経に訴えることと考えているからに他ならない。最も効果的なのは、音の無い狭くて暗い独房に押し込め、水滴を一定のリズムで落とすことである。これには、訓練を積んだ者でも発狂に追い込まれると言われている。

 ただ、このときの龍頭には、そこまでの時間の余裕がなかったため、神経に痛みを与える手段を採った。それは、手の指の爪と肉の間に一本ずつ針を刺してゆく方法である。殴られたときの鈍痛とは違う、神経に響く痛みは生理的に耐えることができない。頭痛より歯痛の方が眠れないのと同じ原理である。

 工藤はすぐに口を割った。

 昨日、稲墨連合傘下・郷田組の中堅幹部である『室田(むろた)』の知人だという男から電話があった。男は『東野(とうの)』と名乗った。室田というのは、ブラック・スネークの初代総長である。

 用件は、今日の夜横浜ベイブリッジで、あるアベックを拉致して欲しいというものだった。報酬は二百万円。男の方に恨みがあり、室田から話を聞いていたブラック・スネークを思い出したのだという。

 室田は、現在服役中で確認の仕様がなく、半信半疑だったが、今朝ポストの中に前金として五十万円が投函されていた。先輩である室田の名前を出されたうえ、手元不如意だった工藤は依頼を受けることにした。

 東野の指示は詳細だった。

 人数は八人。

 レンタカーを一台用意し、拉致用に使用すること。

 抵抗した場合は痛めつけても良いが、絶対に殺したり、重傷を負わせたりしないこと。

 監禁場所は、横須賀埠頭の第三東海倉庫の地下。

 彼らが横浜ベイブリッジに到着すると、工藤の携帯に拉致するアベックの身形を知らせる連絡があった。

 工藤の自白には信憑性があったので、元の横浜ベイブリッジで解放し、念のためその後の挙動を見張ることにした。工藤が金を掴まされたと白状した、東野という男との接触を期待してのものだった。


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