第5話 忍び寄る魔手

 京都山科の、国道から少し山間へ分け入ったところに、凛として佇む名刹があった。

 我が国最大級の仏教宗派・浄臨(じょうりん)宗の別格大本山・万臨寺(ばんりんじ)である。約十三万坪の静謐な山間に、まるで宝物を散りばめたように配置された塔堂伽藍は有に七十を超え、その壮麗さは静岡にある総本山・国臨寺(こくりんじ)に少しも劣らない。

 それもそのはずで、全国に四十六ヶ寺ある大本山及び本山の中でも、宗祖道臨(どうりん)大聖人が、幕府のあった鎌倉と同様の精力を傾けた、京都布教の中心的な役割を果たした万臨寺は、旧門末寺約八百を有する山科流の総本山であることから、『西の総本山』との異名を持つほどの格式高い寺院なのである。

 いま、国宝に指定されている麓の涅槃(ねはん)門を、中央のロールスロイスを前後のメルセデスベンツが挟むようにして、三台の高級外車が潜った。万臨寺は山の七合目付近に建立されており、涅槃門から本堂までは、杉木立の中を九十九折に上って行くことになる。

 本堂の右、東門を入った車はそのまま直進して庫裏の前に止めた。前後のベンツのドアが開き、八名の屈強な男たちが出てきて、辺りを警戒するように四方を見渡した後、やや間を置いてリムジンの前部座席から出てきた男が、軽く会釈をして後部座席のドアを開けた。

 中から姿を現したのは、一際貫禄を備えた男であった。背はさほどでもないが、肩幅が広く恰幅が良い。五分刈りで、黒いサングラスの横から頬に掛けて古い傷が張り付いている。

 大王組六代目組長の山城忠徳である。山城は従者の中から三人だけを従えて庫裏の中へ入って行った。

 庫裏の中で彼らを待っていたのは、白の着物に白袴を穿いた老人だった。横に並ぶと、頭が山城の肩までしかない非常に小柄な老人ではあったが、尋常ではない威圧感を放っている。

 眼窩の奥は相手を射竦めるような妖光を帯び、柔和な表情の裏に宿る濃い陰影が、尋常ならざる不気味さを醸し出していた。それは、数々の修羅場を潜って来た大親分である山城忠徳をも凌ぐ迫力であった。

 宗方妙雲(むなかたみょううん)、七十三歳。第八十八世・万臨寺貫主である。近い将来、総本山・国臨寺の法主、つまり我が国最大級の規模を誇る仏教宗派の頂点に立つと目されている高僧であった。

 妙雲は、俗に言う政財界のフィクサーである。

 厳しい修行で培われた神通力を頼って相談に訪れる、政財界の要人を指南しているのだ。ここ数代の首相も、事ある毎に彼の直言を仰ぐという威勢ぶりであった。

 妙雲は、山城一人を自室に招じ入れ、護衛の三人を部屋の外で待機させた。

「ご無沙汰をしております。貫主様」

 山城が深々と頭を下げた。彼が頭を下げる相手など片手で事足りる。

 妙雲は山城に茶を勧めながら、

「六代目。ご無沙汰はお互い様じゃ」

 と静かに言った。そして、自らも一口啜った後、眉一つ動かさずに続けた。

「さっそくじゃが、今日君にわざわざ足を運んでもらったのは、ちと込み入った相談があってのことじゃ」

 その様子に、山城は只ならぬ気配を感じた。

「私にご相談とは、これはまた珍しいこと……」

「残党がおった」

 山城の語尾に重ねて、妙雲は唐突に言った。

「残党……?」

 すぐには言葉の意味が響かなかった。思いを巡らす山城に向い、

「あ奴めの血を引く者じゃ」

 と、妙雲は言葉を加えた。

「まさか、あの?」

 山城の脳裏に、ようやく一人の巨人の像が浮かんだ。

「そうじゃ。そのまさかじゃ」

「しかし貫主様。彼の者の血筋は、七年前に始末をしたはずです」

「それが残っていたのじゃよ、一人だけ」

 妙雲は口元を歪め、憎々しげに言った。

「残っていた? そんな馬鹿なことが……」

 珍しくも、山城が動揺を見せた。

「いや。君が驚くのも無理のない話なのじゃ。その男は、生まれてまもなく他家の養子になっておった」

「なるほど、養子に……」

 山城は得心した面をした。

「ところが、あの事故で跡継ぎがいなくなったため、あ奴が養子先から呼び戻していたのじゃ。しかも用心したのか、分家に入れるという周到さじゃ。それで、わしも今まで気付かなかった」

「それで、その者の名前は?」

 妙雲が眉を寄せ、

「別当光智」

 と憎々し気に吐き捨てた。

「何者ですか」

「帝都大学の学生じゃ。住まいも調べが尽いておる」

「それなら、容易いことです。さっそく、こちらで始末を付けましょう」 

 山城は勇んで言ったが、妙雲の表情は冴えなかった。

「いや。それが、そうもいかんのじゃ」

「何か不都合なことでも?」

「その男を養子にしたのは、香港の周英傑なのじゃ」

「香港の周英傑とは、まさかあの周ですか」

 山城の面に緊張が奔った。それも無理の無いことだった。周は香港随一の大富豪で、中国政府にもかなりの影響力があるが、それだけではなく、裏では中国最大の黒社会組織、つまり日本の暴力団に当たる龍頭の首領ではないかという噂があった。首領でなくても、龍頭との良好な関係がなければ、カジノ事業を展開することは不可能である。

 さて、宗方妙雲の話から、別当光智は香港の周家から島根の別当家に養子に出されたのではなく、別当家の本家筋から周家に養子に出されたものの、それが解除されて、その本家ではなく分家の別当家に戻されたという、複雑な経緯を辿っていることがわかった。そして、当の光智はそのような事実を知ることなく、周英傑こそが実父だと信じ切っていることになる。

 妙雲の細長い両眼が、山城の目を捉えた。

「そうじゃ。もし風聞が事実なら、六代目、いわば裏社会においては君と同じ立場ということになる」

 その瞬間、山城は口の端を歪め、

「構成員の数においては、向こうが数倍の規模でしょう」

 と歯切れの悪い口調で言った。

 うむ、と妙雲は頷く。

「その周の、別当光智に対する愛情は尋常ではなくてな、親子関係が切れた後も、財産の全てを彼に継がせると公言しているようだ。噂通りなら、そこには龍頭も含まれることになろう」

「となれば、当然護衛を付けている筈ですね」

「そういうことだ。おそらく、相当数の腕利きを身辺警護に付けていると思った方が良い。それでも、大王組がその気になれば始末を付けられなくはないじゃろうが、正体を見破られずに、とはゆくまい」

 妙雲は遠回しな言い方をした。山城も妙雲の言いたいことは分かっていた。

「つまり、下手をすれば龍頭との全面抗争、ということですね」

「龍頭だけじゃないぞ。全てが敵になる」

 妙雲は、苦虫を潰した顔つきになった。

 民主主義の日本に於いては、暴力団が社会の敵であることは言うまでもないが、中国の場合は少し事情が異なる。周英傑の祖父は、中国共産党草創期の最高幹部の一人で、英傑自身も生粋の共産党員である。

 さすれば、賄賂が横行する社会に鑑みて、彼の金は共産党中央幹部、軍高官にも大量に行き渡っていると見るのが常識である。また、英傑は立志伝中の英雄として民衆にも人気があり、華僑も彼に好意的な立場だと見られていた。つまり、政府も軍も民衆も、そして華僑までが英傑の味方なのである。

「中国という国そのものが相手という訳ですか。いかにも……」

 山城の口も重くなった。

「しかも、華僑は全世界の至るところにおる。この日本も同じだ。周が情報網として活用するのは目に見えておる。六代目、これは厄介なことだぞ」

 たしかに、と山城は頷いた。

「龍頭の暗殺部隊が彼らの中に潜り込み、大王組幹部の詳細な情報を掴んだうえで的に掛けてきたら、どれだけ持ち堪えられるか見当も付きません」

 山城の顔色は苦渋に染まった。ましてや周の資産は、表向き三、四兆円と推測されているが、仮に地下資金も所有となれば、さらに天文学的な数字になる。無尽蔵の資金を背景に、人海戦術も仕掛けられるし、長期戦にも耐えられるということである。

「だから、こうしてわざわざ君に足を運んでもらったのじゃ」

「これは、大王組の浮沈に関わる大問題なります。少なくとも最高幹部会議に諮らなくてはなりません」

「やはり、大事になるかの」

 妙雲は腕組みをしてそう言うと、唇を真一文字に結んだ。

「なにせ、龍頭には日本円にして百万も貰えば、平気で人を殺す輩が五万と居ます」

 山城はそう言うと、拳で膝を殴り付けた。実際のところ、百万円という額は農村部の家族が十年暮らして行ける額である。それに引き換え、大王組の場合は、一人殺害して刑務所に入ると、刑期中の積立金や家族の生活費に五千万円から一億円も掛かっていた。

 いや、彼にとっては金の問題より、組のために命を張る子分が少なくなった現状の方が頭痛の種であった。豊かさに比例して人の心が弱くなるのは自明の理である。守るべきもの多くなった日本人の心が弱くなったのは必然であり、ヤクザとて例外ではなかった。

 一方、中国がいくら急激な経済発展をしているといっても、日本とは比べようもない。一人当たりの所得を比較すれば、日本国民の十分の一以下という貧しさであり、内陸の農村部は、日本の終戦直後の状況に毛の生えた程度と言っても過言ではない。そうした貧しさから抜け出すために、龍頭に入る者も少なくないのである。

「ある殺人事件に事寄せて、別当光智の背後関係、特に警察関係者の動きを探ってみたが、想像以上の大物が動き出しおった」

 と言って妙雲は舌打ちをした。本来であれば、別当光智は公安職員を貼り付けてもおかしくない要注意人物に該当した。ところが、不問に付すどころか、保護に回っているのが気に入らなかった。

「それも、あ奴の曾孫だと知ってのことであろう。法曹界だけではない。今でもこの国のあらゆる分野の権力中枢には、あ奴の熱烈な信奉者が生き残っている。そのうえで周英傑が後ろにいるとなると、七年前のように上手くはゆくまい。もし、犯行が大王組の仕業と判明すれば、あ奴は残る気力を振り絞って、警察やマスコミを始めとするあらゆる組織を動かし、我々を糾弾するだろう。そうなれば、いくらわしでも抗し切れるものではない」

 妙雲は、忙しなく顎鬚を擦りながら言った。

「では、あの男がこの世を去ってから、実行するというのはどうでしょう。あの男は、たしか九十六歳のはず。そう遠からず、あの世から迎えがあるのでは……」

 山城は、身を乗り出して言ったが、

「それでは、わしの気が治まらんのじゃ、六代目。あ奴に両親を殺されたわしの恨みがな。本音を言えば、あ奴自身を亡き者にしたかったのじゃが、力の無かったわしには、とうてい無理な話じゃった。そこで、わしは力を付けた後に、あ奴の大切な者の命を奪うことに目的を変えたのじゃ。あ奴の生きているうちに、わしと同じ悲しみを味あわせてやるとな」

 と、妙雲は山城の提案を一蹴した。

「お気持ちは良く分かりますが、今回の件は慎重の上にも慎重を期さねば、貫主様の身も危ういかと思われます」

「それも分かっておる。分かってはおるが、わしの宿願を諦める訳にもいかん」

 妙雲はそう言うと、湯飲みを手にして口に当てた。

 長い沈黙が続いた。

 外はすでに陽が傾き掛けていた。西の空にある太陽は、多宝塔の先端を掠めて書院を照らし、薄赤色の光が窓を通して部屋中を染め始めていた。

 ようやく、山城が思い付いたように口を開いた。

「では、貫主様。とりあえず、別当なる学生を襲撃して、噂の真偽を確かめるというのはどうでしょう」

「それは妙案だな。もし護衛が付いていなければ、そのまま拉致してしまえ。その後の処置はゆっくりと相談しよう。だが、くれぐれも大王組の仕業と気付かれてはならんぞ」

 妙雲は語尾に力を込めた。

「決して……」

 と両膝に手を置いて言った山城の目に、妙雲の不敵な笑みが飛び込んだ。 

「そうじゃ。別当の動向は、わしの方でも調べを付けてみよう」

「貫主様が?」

「実は、わしも一つ手を打ってはいるのじゃ」

 その声は、打って変わったように軽やかだった。

「まあ、軍隊で言えば兵站(へいたん)じゃがの」

 妙雲はそう前置きをしておいて、 

「別当光智の身近に、わしの熱烈な信者が居ることが分かっての。その者に情報収集をさせておるのじゃ。ほれ、死んだ堀尾とかいう男の代わりに出資する人物じゃ」

 と、山城を見据えた。 

「ほう、それはまた何とも奇遇ですな」

「実を言うとな……」

 妙雲は茶を一口喉に通すと、

「別当光智の存在も、その者から齎されたのじゃ。三ヶ月ほど前、月例の祈願で会った際にの、安アパートに住みながら、高級外車を乗り回している正体不明の学生が居ると言って、別当を話題にしたのじゃ。最初はそうでもなかったが、話の内容から、しだいにその者の人物像と、別当光智という古めかしく由緒が有りそうな姓名、特に『智(ち)』の字が妙に胸に引っ掛かっての。何といっても『智』の一字は、七十五代になんなんとするあ奴の家門の通字じゃからの、念のため信頼できる筋を使い、隠密裏に素性を調べたという訳じゃ」

 と事細かく言った。

「さすがの眼力でございますね」

 山城は、恐れ入ったように頷いた。

「そこで、いま言ったように、その信者を使って別当を陥れ、背後関係を探ったというわけじゃ。ま、小手調べじゃがの」

「なるほど」

「引き続き、身辺を探らせておるから、何か新たな情報が入るじゃろう。いざというときには、君にも流すつもりでおる」

 妙雲は力を込めて言ったが、山城の反応は浮かぬものだった。

「差し出がましいようですが、慎重になさって下さい。別当に感付かれでもすれば、元も子も無くなります」

「おう。言われてみればその通りじゃな。本人には別当の正体を教えているから、迂闊なことはせんじゃろうが、龍頭の存在も懸念されるし、十分に気を付けさせよう」

 妙雲は胸を撫で下ろすように言った。

「いずれにしましても、始末は当方で……」

 山城の両眼が底光りした。

「では、六代目。よろしく頼むぞ。じゃが、急がずとも良い。ゆっくりと慎重にな」

 妙雲の目が鋭く呼応し、異光を放った。


 中筋博司と都倉正義は、島根県松江市に赴いていた。光智の供述の裏付け捜査や交友関係を洗い直した二人だったが、何ら目ぼしい手掛かりを掴めずにいた。

 元々光智の交友関係は狭かった。村井ら投資仲間以外は、親しい友人は結城真司のみで、超高級マンションと学生アパート、そして大学以外に立ち寄る場所と言えばサンジェルマンぐらいのものだった。

 結城真司は身元が確かであり、不審な点がなく、上杉母娘には犯罪の匂いなど欠片さえ感じられなかった。

 村井と宇佐美、そして赤木に関しても調べを終えており、最後に光智の養子先とされる別当家に関する情報を得ようとしたのである。

 中筋と松江東署の署長・門脇は、警察学校の同期であり、両名ともノンキャリア組である。ノンキャリアの勝ち組である警視の門脇と、巡査部長の中筋とでは三階級も違うが、暑中見舞いや年賀状の他に、度々電話で近況を報告し合う仲だった。門脇は刑事としての中筋の能力を大いに認めていたのである。

 中筋は電話で用を済まそうとしたが、門脇は案件が別当家の内情と聞き、強く来陰を求めたのだった。

 門脇は署内ではなく、宍道湖湖岸のホテルを面会場所に指定した。

 松江へは、新幹線で岡山まで行き、伯備線に乗り換える陸路のルートがあるが、仕事にしては時間が掛かり過ぎる。中筋は空路で米子空港まで行き、空港からタクシーに乗ることにした。

 空港から松江へ向かうルートは二つある。

 産業道路を南に下り、国道九号線で安来市を通って松江市に至るか、同じく産業道路を北に上り、四百三十一号線で松江市に至るルートである。距離的には中海の北側を通るコースが短いのだが、中筋は南側のコースを選択した。別当家は安来市にあったので、立ち寄って内情を探る腹積もりが中筋にはあったのである。

 だが、米子市を通過したところで門脇から連絡が入り、別当家に立ち寄ることを固く戒められたので、素通りして指定されたホテルに入った。


 松江は美しい水都である。

 宍道湖と中海に挟まれた清楚な城下町で、市内には大橋川を始め、多くの掘割があり、風光明媚な景勝地に恵まれているからである。特に宍道湖の夕映えは垂涎もので、夕陽が湖内に浮かぶ唯一の島である嫁ヶ島を掠めながら沈む情景は、例えようもなく優美で、その哀愁は胸に沁み入って止め処が無い。

 二人はその絶景を眺めながら、談笑で旧交を暖めたが、中筋が本題に入ると、門脇の面が引き締まった。初めて見る旧友の顔つきに、さすがの中筋も緊張を強いられた。

 門脇は、辺りに気を使いながら話を切り出した。

 市内を本拠とし、テレビ局、新聞社のマスコミから、電鉄、バス、タクシーの運輸、ホテル、ゴルフ場の不動産まで、幅広く事業を展開している山陰興業グループというのがある。

 いわゆる地方財閥であり、地域産業の発展はもちろん、福祉や文化の向上にも大きく寄与している。経営者は、簸川(ひかわ)家という松江の名士なのだが、グループ企業の大株主なのが他ならぬ別当家であった。

 また、保守王国である島根は政権与党である民自党の幹部を多く輩出しており、中でも党の大立者である武山元首相の後ろ盾になっているのが別当家だというのだ。

 それも只の後ろ盾ではない。造り酒屋の次男として生まれ、幼少の頃より評判の秀才だった武山は、彼が小学校五年生のとき、噂を耳にし、学校を訪れていた別当家の先代当主・別当実元(さねもと)の眼鏡に適い、中学校進学と同時に親元を離れ、別当家の書生に入った。

 地元の高校、大学を出た後、山陰新聞社に入社するや、ほどなく青年会議所の会頭に選出され、その後島根県議会議員を経て、三十二歳の若さで衆議院議員選挙に初当選した。

 これらは、全て別当家の引き立てによるものだった。国会議員になった武山は、その後も順調に出世街道を驀進し、とうとう頂点である総理大臣まで上り詰めたのである。

 中筋は、門脇の反応の意味を理解した。武山は別格としても、同様に育てた人材を少なからず輩出しているのが容易に推察された。別当家はただの旧家ではなく、その影響力は県行政全般、おそらくは警察にも及んでいるのだ。

「寄付があるのか」

 中筋は単刀直入に訊いた。

「ああ。毎年かなりの額が県や市にある。名目は福祉や教育の為、ということになっているが、廻り廻って我々警察もその恩恵に与っている」

 中筋は悪びれる事無く答えた。島根は小さな県である。産業は農業と漁業が主で、安定的な税収という意味でも、山陰興業グループの存在は際立っていた。

「肝心の家業は何なのですか」

 都倉が苛立ちを隠し切れないように訊いた。この種の手合いには嫌悪感を覚えるのだ。

「学問ですよ」

「学問?」

 都倉は拍子抜けした声を出した。

「ただの学問じゃありませんよ。別当家は、代々徳川の親藩だった松江藩藩主の侍講を務めた家柄で、明治以降は山陰にある大学の学長や理事長の要職にあります」

「しかし、おかしいですね」

 都倉の目は不審の色に染まっていた。

「何が、ですか」

「学者の一族が、なぜ山陰興業グループの出資者になれるほどの、巨額の資金を持っているのですか」

 転瞬、門脇の目が再び厳しいものになった。

「その辺りの事情については、知らない方が身の為です」

「身の為ですと?」

 門脇の物言いに都倉がいきりたった。

「都倉君、落ち着きなさい。これ以上は深入りするなという親切心からの忠告だ」

 気を使った中筋が都倉を宥めたが、門脇は全く意に介する事無く、むしろ好感を持って都倉を見ていた。

「若いっていうのは、良いなあ。正義感に溢れている。だが、これ以上の詮索をして別当家の耳に入れば、君たちのトップに、さる筋からご下問があるやもしれないぞ」

「ご下問? そうか、それほどの影響力があるのか。それで、別当家には立ち寄るなと忠告してくれたのだな」

 門脇は黙って頷いた。

「では、最後にもう一つだけ訊いて良いか」

「何だ。言ってみろ」

「その別当家が、香港の周英傑の息子を養子に迎えた理由は何だ?」

 中筋は光智の名は伏せた。

「なんだと。別当家が養子だと……?」

 門脇は、思わず昂じた声に自ら驚き、辺りを見回しながらあわてて口を塞いだ。

「知らないのか?」

 中筋は小声で訊いた。

「ああ。中筋、その話は本当なのか」

「間違いのない話だ」

 中筋の眼光は揺ぎ無いものだったが、それでも門脇は半信半疑だった。

「別当家には、大学院生と高校生の二人の男子がいる。いまさら養子など必要ないのだがな。それも寄りによって中国人とは……。それに、今時殿様のお国入りじゃないが、その養子になったという男が別当家を訪れたという噂すらも耳にしていない」 

 首を傾げた門脇に、中筋は核心を示唆した。

「どうやら、あまり公にはしたくない養子縁組だったということだな」

 なるほど、と門脇が頷いたとき、石塚警部補から至急帰京する旨の連絡が入った。中筋は門脇の忠告を聞き入れ、別当家には立ち寄ることなく、東京へとんぼ返りをした。


「今日はどうしたの。気もそぞろっていう感じだったわね」

 北条有紀は、隣で背を向けている光智の腕を強くひねった。

「痛てて。ごめん、ごめん。ちょっと気になることがあってね」

 光智は申し訳なさそうに言うと、身体を仰向けに戻した。

 湾岸タワービルのペントハウスで、二人はベッドを共にしていた。すでに三年の付き合いになる。光智は、父英傑から北条有紀を紹介されたとき、彼女は父の愛人だと勘違いしていた。

 しかし数ヵ月後、彼女と肉体関係を持つに至って、それが誤解だと分かった。英傑は、銀座のホステスだった有紀を気に入り、光智の性の教育係として白羽の矢を立てたに過ぎなかった。それを条件に料亭風月を与えたのである。

 その関係が三年も続いていた。光智にとって、彼女は初めての女性だった。当時十八歳の彼が、衆に優れた美貌の持ち主で、経験豊富な有紀にのめり込んだのも当然の成り行きだったと言えよう。ダムの放水のように迸る十代の性欲を、有紀はその豊熟な身体で満足させていたのである。

 有紀は光智より一回り以上も年嵩だが、それを意識するのは風月の女将として接するときだけで、一緒にいるときは同い年か年下のように感ずるときがある。その落差が、魔性のように光智の心を捉えて離さなかった。 

 有紀は光智の胸に右手を当て、顔を肩に添えた。

「堀尾さんのことね」

「仲間だったからな。ショックだよ」

 搾り出すような声だった。

「彼が殺される理由って何かしら」

「警察は顔見知りによる怨恨の線で動いているらしいが、もし彼が仕事上で恨みをかっていたとすれば、僕も同罪のようなものだからな。この辺りに痛みを感じる」

 と、光智は左胸を擦った。

「それに……」

「他にまだ何かあるの」

 有紀は上半身を起こし、光智のそれに密着させた。光智は、両手で彼女の肩を抱くようにして呟いた。

「もう一つの件も気になるし……」

「貴方が第一発見者となった殺人事件ね」

「目撃者が誰も居ないんだ。いかに日曜日だろうと、深夜でもない限り、あの辺りは全く人通りがない訳でもない」

「休日の夕方でしょう。大学近辺なら、偶然人っ子一人いないことだってあるわよ」

「そりゃあそうだが、よく思い起こしてみると、僕も車の音一つ聞いていないんだ」

「遠くに置いていたんじゃないの」

「そんなばかな。車まで歩いて、余計に人目に触れるような危ない真似はしないよ」

「だけど、現場に置いていれば、不審車と思われるじゃない」

 有紀はしたり顔で言った。

 なるほど一理ある、と光智は思ったが、すぐに思い直した。

「でも、エンジン音が全く聞こえないほど、遠くに置くかな」

「だったら、抜け道でもあるんじゃないの」

 そう言いながら、右手を光智の下腹部に這わせると、

「ねえ、そんなことよりもう一回……」

 と、有紀は甘ったるい声で求めた。

「えっ。有紀、いま何て言った?」

 光智が鋭く反応した。だが、彼女は気に留める素振りもなく、手の動きを続けた。

「何にも言っていないわよ。もう一回したいって言ったの」

「それじゃない。その前だよ」

「なあに、その前って……ああ、抜け道のこと……」

 光智の男根を弄っている有紀は、心ここに在らずとばかり、うわ言のように呟いた。

「それだ! 有紀、分かったぞ」

 光智は大きな声を上げると、身体を起し有紀に覆い被さった。

「どうしたの」

 目を丸くしている有紀に、

「有難う、有紀。謎が一つ解けた」

 と言って、光智は荒々しく愛撫を始めた。

「訳が分からないけど、良いわ。で、でも、もっとやさしくして……」

 二人はもう一度身体を求め合った。光智の手馴れた愛撫に、有紀はしだいに嬌声を漏らし始めた。 


 京都山科の万臨寺から箕面の自宅に戻った山城忠徳は、直ちに若頭の澤村健治を呼び寄せた。山城が待つ部屋に入った澤村は、思わず身震いをした。山城のいつになく険しい表情に、若かりし頃の『浪速の虎』と恐れられた面影が過り、百戦錬磨の澤村も戦慄を覚えたのである。

「困ったことになった」

 山城の低い声が澤村の胸に響いた。

「どうされたのです、親分。京都で何かありましたか」

 澤村はその声を押し返すように訊いた。山城は、穏やかな口調の中にも殺気を含んだ声で、万臨寺でのやり取りを澤村に話した。

「なんと、真に弱りましたね。龍頭とは協力関係を築かねばならない矢先に……」

 澤村も言葉を詰まらせた。ブック・メーカー事業を推進するうえで、将来的に龍頭との提携も視野に入れていた彼には二重の苦悩であった。

「この際、しのぎの件は横に置くことにしよう。それより、別当なる男をどうするかや」

「襲うにしても、絶対に大王組であることは隠さねばなりません」

「そこや。何か良い方法はないか」

 縋るような声だった。澤村は初めて気弱な山城を見た。

「なくもありませんが」

「ほんまか」

 山城の声に生気が戻った。

「はい」

「大王組(うち)の仕業とは分からないのだろうな」

 山城は澤村の目を見据えていた。澤村は、その鋭い眼光に気圧されながらも、山城の視線から目を逸らせることなく答えた。

「はい。間違いなく」

「なら、お前に任せよう。だが、決して拙速なことはするなよ」

 山城は念を押した。

「承知しました。しかし……」

 澤村は途中で口を閉じた。

「何や」

「立ち入るようで恐縮ですが、親分がそれほどまでに肩入れされるのは、何か特別な理由でもあるのかと思いまして……」

 澤村は、山城の顔色を窺いながら、恐る恐る訊ねた。

「まあ、そうやろうな。お前が疑問を抱くのも無理はない」

 山城の頬がようやく緩んだ。

「なあ、澤村。わしには父親が三人いるんや。一人は生みの親。もう一人は四代目の大岡親分。そして、いま一人が貫主様や。年齢から言えば、兄貴ぐらいの年の差やがな」

 山城は、遠くを見つめるような眼で記憶を辿った。


 山城は戦争孤児だった。親戚をたらい回しにされたのだが、貧しい時代のこと、どの家でも厄介者扱いされ、ずいぶんと虐められた。我慢ができなくなった彼は、とうとう最後の親戚の許を飛び出してしまった。

 感情の趣くままの軽率な行動に、彼はすぐに後悔したのだが、後の祭りである。当てもないまま、食い物を探してさまよう日々が続くことになった。そうして、腹を空かして路地に寝そべっていたとき、宗方妙雲と出会ったのである。

「当時、貫主様は二十歳。托鉢の途中であられた。俺の話を聞かれた貫主様は、何も言わんと托鉢のお金で素うどんを食べさせて下さった。美味かったなあ、あのうどん。あのときのうどんより美味いもん食うたことがない」

「情けの味が詰まっていたのですね」

「お、澤村。お前も上手いこと言うやないか」

 珍しくも笑みを浮かべた山城に、澤村は胸の奥にむず痒いものを感じた。

「貫主様は、俺をお寺へ連れて行かれ、御住職に掛け合って寝泊りができるようにして下さった。御住職は奇特な方でな。身寄りの無かった貫主様も引き取っておられたんや」

「貫主様は、ご自分と同じ境遇の親分を打ち捨てて置く訳にはいかなかったのでしょう」

 そうや、と山城は相槌を打った。

「だが七年後、貫主様が総本山へ荒行に入られたのと同時に寺を飛び出した俺は、無頼の世界へと入ったという訳や」

「そこで、出会ったのが大岡親分ですね」

 山城は黙って頷いた。澤村は居住まいを正した。

「親分の心情は良く分かりました。ですが、この件は大王組の命運が掛かっています。慎重のうえにも慎重を期しましょう」

「そうやな」

 ポツリとそう溢した山城の背には、悲壮感さえ漂っていた。

――場合によっては、進退を賭けねばならんかもしれん。俺一人の恩人と、大王組を引き換えにすることはできん。

 山城は、そう言おうとして言葉を呑み込んだ。彼は、龍頭との正面切っての抗争を避けるために、引退もしくは足を洗ってでも、光智の命を狙おうと心に期していた。それ以外に、大王組の安泰を図りながら、尚且つ妙雲に極道として、人としての義を通す手立てが彼には思い付かなかったのである。


 翌朝、光智は本富士署の野崎刑事と加賀見食堂裏に赴いていた。

「これは迂闊でした。まさか、こんなところに出入り口があるとは……」

 野崎は鑑識員の作業を見守りながら、頭を掻いた。

 光智も顔を顰め、

「それは無理もないでしょう。食堂の大学側の扉は内鍵が掛かっていたと私が証言し、母屋側も内側から施錠されていたのですから、母屋の玄関か勝手口から逃げたと思うのが当然です。しかも、この出入り口は厨房の裏の隅にありますから、完全に死角になっています」

 と申し訳なさそうに頭を下げた。

「いやいや。気になさらないで下さい」

 野崎は右手で光智の肩をポンと叩くと、

「しかし、この出入り口を使ったとなると、真犯人は食堂の合鍵を持っていたことになり、少なくとも流しの犯行ではなくなりました。これは大きな収穫です」

 と引き締まった顔つきで言った。

 光智は、有紀の抜け道という言葉から、加賀見食堂には正面の他に、出入り口がもう一つあるのを思い出した。その出入り口は、帝都大学内の林に通じていた。加賀見食堂は帝都大学に隣接する形で建てられていたが、その間には小高い丘の片斜面があった。つまり、その斜面の頂上に、光智が通う帝大法学部の学舎へと向かう路があったのである。斜面は鬱蒼とした樹木に覆われていて、その中を獣道のような小道が貫いていた。

 光智と野崎は、その小道を帝都大学へ向けて上っていた。 

「しかも、帝都大学の学生か職員が、何らかの形で犯行に関わっているとは言えませんか」

 野崎は、行く手を塞ぐ草木を手で払いながら、後続の光智に問い掛けた。

「私もそう考えていました。加賀見食堂は、近所の住民も利用しているとは思いますが、この小道を知っている人は少ないと思います。何かの偶然に知ったのなら別ですが」

 光智は野崎の意見に同意した。

「それにしても、草木が伸び放題ですね。道もあってないようなものですし……」

「ですから、多くの学生はこの小道の存在すらも知らないでしょう」

 この光智のさりげない言葉は、重要な指摘を含んでいた。加賀見食堂の歴史は古く、殺害された主人は二代目だった。元々、大学側の要請を受ける形で、大学が借地していた隣接の土地に学生食堂を開店し、その後先代が所有者から土地を買い取ったのである。通路が残っていたのは、その名残だった。営業は順調で、すぐに手狭になり食堂を増築することになった。

 そのときの設計上、出入り口が今の位置になったのである。法学部の学生にとっては、近道であり便利だったが、しだいに往来が制限されてゆき、二年前からは使用禁止となっていた。光智は、入学したばかりの頃、先輩に連れられて一度だけこの道を通ったことがあった。三回生の光智ですら、そうなのであるから、一、二回生は知る術も無いということになる。

 そのうちに法学部の学舎へ続く坂道に出た。

「こんなところに、公衆電話があるのですか」

 野崎の視線は、坂道のやや上方に向いていた。そこには、村井から堀尾の死を聞かされたとき、光智が凭れ掛かった公衆電話があった。

「ええ。今でも大学内には、数ヶ所公衆電話があります」

「となると、消防署に通報した女性は、あの公衆電話から掛けた可能性もありますね」

「公衆電話は特定されていないのですか」

 光智は、新たな直感に声が昂じていた。

「はい。帝大の付近というところまでです」

「待って下さい。もし、あの公衆電話から通報されたのだとすると、真犯人自らが消防に通報したとも考えられますよ」

「真犯人が? 何のために……」

 野崎は驚きの眼で訊いた。当然である。真犯人自らが事件の発生を通報するなどという発想は常人には生まれない。まして、捜査経験からも、そのような事例は極まれでしかなかった。むろん、自らの犯行を通報する者はいるが、その場合は自首である。

「分かりませんが、可能性はあります。野崎さん、鑑識員を呼んで慰留指紋を採取されたらいかがですか。あの公衆電話は滅多に使用しませんから、完全な形で残っていると思われます」

「真犯人が犯行後自ら救急車を呼ぶとは思えませんが、万が一ということも考えましょう」

 野崎は鑑識員を呼びに、いま来た小道を戻って行った。

 光智は、その間に推理を始めた。

 もし、真犯人の指紋が採取されれば、真犯人には殺意が無かったとも考えられる。突発的な事故で加賀見を刺したものの、気になって消防署に通報した。その場合、真犯人は何のために加賀見宅を訪れたのか。そして、持ち去られた一千万円は何を意味するのか。彼にも、そこから先には考えが及ばなかった。

 そのうち、野崎が鑑識員を連れて戻って来た。

「もし、真犯人の中に女性が含まれるとなると、刺入角の問題が再浮上しますね」

「刺入角?」

 光智は聞き慣れない言葉に、思わず問い返した。

「簡単に言いますと、凶器の刺さった角度、つまり胸部表面から心臓に至る傷痕の角度で、真犯人は小柄な人物の可能性も捨て切れないのです。ですから、女性の犯行とも考えられるという訳です」

 野崎は身振りを交えて説明した。

「傷痕一つから、そこまで分かるのですか」

 光智は科学捜査の一端に触れ、感心しきりで言った。先の捜査会議では、凶器の刺入角が問題提起されていた。被害者の体内に残された凶器の傷痕は、下方から上方へ突き上げた角度が付いていたのである。被害者の身長は百七十センチであり、同程度の身長の者が刺した場合、ある程度の角度が付くのは当然であったが、被害者の傷痕は相当に角度が付いていた。つまり、小柄な男性の他に、一旦は女性の可能性も浮上していたのだった。

「この坂道は、正門に繋がっているのですね」

「そうです」

「真犯人は一旦大学内に入り、人混みに紛れて正門から出て行ったということですか」

 野崎は正門の方に目を遣った。

「いえ。そうとは限りません」

「と、言いますと」

 野崎は振り返って光智を見た。光智は法学部の学舎を指差した。

「この坂道の頂上に在る、法学部の学舎の裏手に小さな門があります。ちょうど、正門の真反対です」

「その裏門は、日曜日でも自由に出入りができるのですか?」

「内側から簡易の鍵を掛けるようになっていますので、外からは入れませんが、中からは出られます」

 その瞬間、野崎の顔が高揚し、

「そうすると、門の外に車を止めて置けば、人目につかず逃走することができますね」

 と興奮を抑えきれないように言った。逃走ルートの特定は、捜査の飛躍的な前進を可能にするのだ。

「行ってみましょう」

 光智の言葉に、二人は法学部の学舎へと歩みを進めた。

「野崎さん。二、三お伺いたいことがあるのですが」

 歩き出して間もなく、光智が満を持したように切り出した。彼には、ある疑問が渦巻いていた。

「何でしょうか」

「残された現金は、仏壇の下に有ったということでしたが、金庫は無かったのですか」

 光智は、現金の保管があまりにずさんだと気になっていた。というのも、土地の売買契約は、抵当権者である東都庶民信用組合の立会いの下で行われたはずである。実際、加賀見の土地を購入した上杉玲子と島原も、東都庶民信用組合に預金していた。

 そうであれば、通常は現金が動くことはなく、口座間を移動するだけである。それを、加賀見はわざわざ大金を家に持ち帰っている。しかも、彼は食堂経営をしていた。業務用の金庫があってもおかしくはない。

「手提げ金庫はありましたが、本格的な防犯用の金庫はありませんでした」

 そう言った野崎は、光智の目から疑念が晴れていないことを悟ると、

「土地を売って、急に入った金ですからね。金庫を買う気にならなかったのでしょう」

 と言葉を足した。

「そうであれば、売買契約の際に、そのまま金融機関に預けませんか」

「害者は、金融機関を毛嫌いしていたのではないでしょうか」

「なぜですか」

「食堂の土地家屋を売る羽目になったのは、東都庶民信用組合が強引に返済を迫ったからだ、と逆恨みをしていてもおかしくないでしょう」

 もっともな理由ではあるが、それでも光智は釈然としなかった。一食当たりの利益が数十円という食堂経営に携わっていた者の金銭感覚ではない、と違和感を感じていたのである。

「もう一つ。ノートの分析は終わりましたか」

「ええ」

「BMの記述は、何ヶ所あったのでしょうか」

「ちょっと、待って下さい」

 野崎は手帳を取り出すと、光智に見せながら、ページを捲った。

『BM』の記述は四回あった。

 事件当日、

 三月二十八日、

 四月十日、

 そして、四月十八日であった。

「いずれも、一ヶ月以内ですね。最近知り合った人物か、旧知の仲でも、最近交友が復活した人物となりますね」

「我々も、そこに重点を置いています」

「時間はどうですか」

「時間の記述はありませんでした」 

 ふと、堀尾の方はどうなのだろう、と光智は思った。

 二人が会話している間に、法学部学舎裏の門の前に着いた。

「なるほど、近所の目撃情報が無い訳だ」

「車のエンジン音が聞こえなかったことも納得できます」

 二人は顔を見合わせた。そこは殺人現場の加賀見宅から二百メートルの道程があった。

「この辺りの住民への聞き込みと、当日大学に来ていた学生や職員がいなかったかどうか調べることにします」

「私も、できるだけのお手伝いをします」

「別当さんが?」

「私も、ある意味当事者ですからね。事件の早期解決を願っています。それに、警察には非協力でも、私の呼び掛けならば応じてくれることもあるかもしれません」

「いやあ。別当さんにはご迷惑をおかけ致しましたのに……」

 野崎はばつの悪そうな顔をした。

 本富士書は帝大当局の許可を得て、各学部の連絡版に、目撃情報の協力を求める貼紙を掲示した。


 その日の夜――。

 光智は、村井慶彰、宇佐美彬、赤木佑一の三人と会っていた。中断している牧野モーター株の買収について方針を決定するためである。

 結論は、世間の耳目を集めている現在、派手な動きは却って世論の反感を買う恐れが大きいと判断し、またウィナーズの新社長に内定した土江徹の本心も読めていないこともあって、しばらく中断のままにしておくことになった。

 代案として、新たに工作機械の中堅メーカー、碓井フライスの買収を手掛けることを決定し、その手順について綿密な打ち合わせを行った。

 仕事の話が終わった直後、宇佐美が躊躇いがちに口を開いた。

「堀尾君の事件、犯人の目星は付いたのでしょうか」

「私の友人である警視庁の参議官にそれとなく訊いてみてはいるのですが、かなり苦戦しているようです」

 村井が答えた。

「実は、堀尾君のことでちょっと気になることがありましてね」

「事件に関わりのあることですか?」

 光智が声を落として訊いた。村井と赤木も宇佐美に注目した。

「そのときは何気に聞いていたので、気にも留めていなかったし、事件との関係も分からなかったので、警察にも話していません。ですが、なぜか最近気になるのです」

 日頃、はっきりとした物言いをする宇佐美にしては、歯切れが悪かった。

「どんな些細なことでも結構です。その気になる話というのを聞かせて下さい」

 光智に促され、口を開いた宇佐美の話は意外なものだった。

 一ヶ月近く前、宇佐美は堀尾と飲食を共にした。その際、いつもは口数の少ない堀尾が、酔っ払ったせいもあってか、珍しく上機嫌なり、しだいに饒舌になったのだという。そして宇佐美に向って、『俺、もうすぐ大きな仕事をしますよ』と言った。宇佐美は、『君は今でも大きな仕事をしているじゃないか』と返すと、堀尾は『その程度の仕事じゃありません。俺は、第二の笹野銀平(ささのぎんぺい)になります』と意味有り気に微笑んだという。『笹野銀平って、公営ギャンブルの首領と言われた、あの笹野か?』と、宇佐美が問い質すと『そうです』と、堀尾はきっぱりと答えた。

 邪魔が入り、話はそこで終わったのだが、宇佐美はその後しばらく、堀尾の言葉の意味が分からなかった。だが、堀尾が殺害された今になって考えると、彼は何かとんでもないことを仕出かそうとしていたのではないかと、気になって仕方がないというのだ。

「大きな仕事、笹野銀平、ですか。堀尾さんは、新しい賭博事業でも始めようとしていたのでしょうか」

 赤木が深刻な面で言った。

「佑一君。それは無理な話だ。賭博開帳図利でお縄になる」

「村井さん。それくらいは知っていますよ。僕は、コンピューターシステムに詳しい堀尾さんのことだから、法の盲点を突く何かを考えていたのではないかと思ったのです」

 赤木が、少し怒ったように言った。

「いや、すまない……」

 村井は詫びると、

「なるほど、今後インターネットがますます発展、普及してゆくことを考えれば、その分野で天才的な能力を持っていた堀尾君なら考えられなくもないな。海外の宝くじがインターネット販売される時代でもあるし……」

 と苦笑いしながら同調した。

 光智も肯きながら、

「宇佐美さんの話から、仮に堀尾さんが新しいギャンブルの形を考えていたとしましょう。でも、そうなると話を付けねばならない相手がいます」

 と話を先に進めた。

「暴力団ですね」

 宇佐美が即座に答えた。みかじめ料を巡って、暴力団のことは良く知っていた。

「そうです。素人に縄張りを荒らされると分かったら、黙っている連中ではありません」

「それはそうですが、あまりに結論が性急過ぎやしませんか。まだ、堀尾君は何もやっていなかったのですよ。一般人と違い、彼は有名人です。警察も捜査に力を入れることは予想できたはずです。彼らは曖昧な状況下で、危険を冒すほど、愚かではないと思います」

 村井が拙速な議論に冷や水を浴びせた。彼もまた、株式投資を通じて、彼らの行動思考は良く知っていた。

「でも、どうして堀尾さんは別世界に夢を抱いたのでしょうか」

 赤木が率直な疑問を口にした。

 おそらく……と言って、宇佐美は口籠った。

「何かご存知であれば、この際話して頂けませんか」

 村井が水を向ける。

「彼とは、幾度となく飲食を共にしましたが、その度に別当さんの話をしていました」

「私の?」

 光智は意外という顔を宇佐美に向けた。

「羨んでいました。別当さんは何もかも手中にしているとね」

 なんてことを、と村井が嘆息した。

「帝都大学時代に痛い目に遭って、目が醒めていたのではなかったのか……」

「大学時代に痛い目って、堀尾さんは何をしたのですか」

 赤木は初めて聞く話だった。小学生の頃の話なので無理もない。

「株式相場で一世を風靡したことがあったのだが、最後は自己破産に追い込まれたのだ」

「そんなことがあったのですか」

 光智も驚いたように言った。彼もまた幼少である上に、香港に住んでいたのだから知る由もない。

「ですから宇佐美さんから別当さんを羨んでいたと聞いて、少しも薬になっていなかったことに落胆したのです」

「でも、それは仕方がないでしょう。正直に言えば、私だって……」

「別当さんが羨ましいかい」

 村井が赤木の言葉の尻を奪った。

「はい」

 赤木は素直に頷く。

「けどな、佑一君。他人を自分の価値観の延長線上に置いて評価することほど愚かなことないのだよ」

「……」

 赤木は首を捻った。

「逆に、世の中には君を羨んでいる者がどれだけいるか、考えてみたまえ」

 あっ、と赤木が目を見開いた。

「わかったようだね。羨望の的の君が別当さんを羨んでいる。それはつまり、考え方を変えない限り、どこまでいっても際限がないということなのだ」

「なるほど」

「人には誰にでも分というものがある。生まれ持った宿命と言っても良い。別当さんがどれだけの重い荷を背負っているかなど想像もぜず、うわべだけで羨ましいなど、とんでもない話なのに。堀尾君ともあろう者が、それに気付かなかったとは……」

 村井の呟きを最後に、しばらく沈黙が座を支配した。

「どうでしょう。気分直しに、今日はこの後、銀座にでも繰り出して、パッーとやりませんか」

 光智が沈んだ空気を切り裂くように声高に言った。

「そうおっしゃると思いました」

 宇佐美が含み笑いをした。

「なぜですか」

「今日は、めかし込んでいらっしゃらない。貴方が銀座に行かれるときは、いつも普段着のときと承知しています」

「あっ。言われてみればそうですね」

 光智は自身の身形を確かめながら言った。村井の拙速を戒める言葉に肯いた光智だったが、いずれにしても中筋刑事の耳には入れておこうと心に決めていた。


 四人が足を運んだのは、銀座四丁目の第五栄玄ビルの地下にある『檸檬』という高級クラブだった。村井が接待用に使っている店であり、有紀がかつて在籍していた店でもある。

 光智は愛車を風月に置いていた。代行を使う方法もあるが、恋人を寝取られるようで、他人に運転させることを嫌った。それに、有紀が運転してやって来ることが光智には分かっていた。

「あら。お久しぶりです、村井さん。ずいぶんお見限りでしたわね」

 ママが席に着くなり、あからさまな嫌味を言った。だが、村井は一向に笑顔を崩さない。ママの三浦環(みうらたまき)は彼の愛人なのである。環が他の店でちいママをしている頃からの馴染みで、人気ホステスだった有紀が店を去り、斜陽になったこの店の権利を村井が買い取って環に任せているのである。

 もっとも、商売柄世間には秘匿しているので、この事実を知っているのは光智だけである。逆に言えば、光智と有紀の関係を知っている者も村井だけであり、そういう意味でも、光智と村井は心を許しあえる関係と言えた。

「例のことがあって、忙しかったんだ」

「堀尾さんの件ですね。何だか、知り合いがああいうことなると、ショックですね。まして、仕事……」

 環が口を滑らしそうになったとき、

「おほん」

 と、村井が一つ咳払いをした。

「あっ、ごめんなさい」

 環はあわてて口を押さえた。 

 これまで、この四人が一緒に銀座で飲んだことは一度もなかった。同席したとしても、それぞれが一対一であった。言うまでもなく、世間に自分たちの関係を隠すためである。光智は、特に有名人だった堀尾貴仁とは、二人きりでも遠慮した。

「ママ、紹介しよう。彼は別当光智君。帝大の学生さんだ」

 村井は、何事もなかったように話を逸らした。

「初めまして。ママの三浦環と申します。よろしくお願いします」

 彼女は胸に手を入れて、名刺を取り出して言った。四十歳手前といったところか、豊かな胸の谷間が眩しく映った。

「初めまして。別当光智です。名刺は持っていませんので」

 光智は目を合わさないようにして答えた。

「私、三枝実佳(さえぐさみか)です。よろしく」

 光智の横に座ったホステスが声を掛けた。

 光智が挨拶を返すと、

「村井さんが学生さんを連れて来られるなんて、珍しいですね」

 と揶揄するように言った。

「こらこら、実佳ちゃん。失礼でしょう。別当さんは、ただの学生さんじゃないのよ。帝大の法学部ってことは、村井さんの後輩になるし、村井さんが目を掛けておられるということは、きっと優秀な学生さんなのよ」

 環は商売上の勘で、光智にただならぬ気配を感じてはいたが、差し障りのない言葉で濁した。

「案外、村井さんのスポンサーだったりして」

「どうして」

「だって、ママの言う通りだとしても、それならお二人で来られるでしょう。宇佐美さんと赤木さんがご一緒だなんて普通じゃないわ」

――ほう。言われてみれば、たしかに理屈が通っている。案外、頭の良い娘だな。

 と、光智は思った。

「よく分かったね。スポンサーではないが、彼のお父上には、昔お世話になったことがあるんだ」

 村井が如才なく取り繕った。

「やっぱりね。別当さんってお坊ちゃんなんだ。好きになっちゃおうかなあ」

 と、実佳が色目を使う。

「月三万八千円の安アパートに住んでいるお坊ちゃんなんていないよ。本物のお坊ちゃんなら、目の前にいるじゃないか」

 光智は目配せをして赤木を見た。

「赤木さんには、可愛い彼女がいるから駄目よ」

 実佳は恨めしそうに赤木を見つめる。

「じゃあ、僕の友人を紹介しようか」  

 光智の脳裏には結城真司の姿が浮かんでいた。

「ただのお坊ちゃんなんか要らないわ、退屈だもの。それより、貴方のようなミステリアスな男が良いわ」

 そう言いつつ、実佳は光智の手に自分の手を重ね合わせてきた。

「僕がミステリアス? 初めて言われたなあ。じゃあ、僕のスポンサーになって貰おうかな」

 光智は、ほんの冗談で言ったのだが、

「ええ、良いわ。すぐに私のマンションに引っ越していらっしゃいよ。生活の面倒を見てあげる」

  実佳は、重ねていた光智の手を握った。彼女の、冗談とも本気ともつかない真意を量りかねた光智は戸惑った。

「お堅い実佳ちゃんのそんな台詞、冗談にでも初めて聞いたな」

 村井が冷やかすように言うと、

「冗談じゃないですよ。先行投資です」

 と、実佳は胸を張った。

「なるほど、先行投資か」

 納得顔の村井に、実佳は得意げに続ける。

「ひと目でピンときたの。ママが言ったようにただ者じゃないって」

 彼女は飛び切りの美人という訳ではないが、愛くるしい顔をしていた。しかも、明るく物怖じしない性格で、しっかりとした気性をしている。光智には、優柔不断な真司とは、ますます似合いではないかと思えた。

「少し考えさせてもらえないかな。今日初めて会って、いきなりは……」

「そうやって、誤魔化さないの」

「実佳ちゃん、いい加減にしなさい。別当さん、お困りじゃないの」

「はあーい」

 環の一喝にも、彼女は悪びれた様子もなく生返事をした。その様子を見ていると、からかわれただけのような気がした光智だった。

 ひとしきり談笑した後だった。一旦、別の接客をしていた三枝実佳が席に戻って来ると、光智に小声で話し掛けてきた。

「ねえねえ。殺された堀尾さんが、村井さんの仕事のパートナーだったと知ってた?」

「仕事のパートナー?」

「ママは、堀尾さんも帝大法学部の後輩だからといって、時々連れて来ていたけど、私は絶対仕事のパートナーだと思っていたの。光智君もそのときと同じ気配がしたのよ」

――本当に勘の良い女の子だな。こんな女性なら、案外良い伴侶になるかもしれない。

 北条有紀や上杉恭子とは違う魅力に、光智は鼻がむず痒くなっていた。

「堀尾さんだけどね。彼、絶対痴情の縺れで殺されたのよ」

「痴情の縺れ? 何か心当たりでもあるのかい」

「光智君、興味あるの」

「そりゃあ、あるさ。あれだけの有名人だからね」

 光智はそう言ったが、興味があるのは実佳の想像力だった。

「有名人ね。まあ、そういうことにしておくけど。彼ね、相当な女好きで、あちこちで手当りしだい女の子を口説いていたらしいの」

「じゃあ、当然君も口説かれたんだね」

「どうして?」

「だって、可愛いから」

 光智は真顔で言った。

「ぷっ」

 実佳は思わず噴出し、

「光智君もお世辞ぐらいは言うのね。でも嬉しいわ」

 と表情を崩した。

「お世辞じゃないよ。本当に君は可愛いよ」

「やだあ。そんなことを言われると、また迫りたくなっちゃうじゃない」

 実佳は、一転して頬を赤く染め、恥じらいを見せた。意外にしおらしい一面が、光智を惹き付ける。

「残念ながら、私は口説かれたことはないの。村井さんの目が気になっていたらしく、私だけじゃなくて、この店の女の子は誰も口説かれていないの」

「その辺りは、仁義を守っていたんだ」

「だけど、私が親しくしている女の子なんか、しつこく付き纏われて困っていたの。そんな女の子が沢山いたと思うわ。お金持ちだから、店にとっては上客でしょう。無下に扱うこともできなくて……」

 実佳は、いかにも煙たそうに言った。

「女性からすれば、性質が悪かったんだね」

「そうなのよ」

 実佳は強く同意した後、思い出したように言った。

「そうそう、いつだったか彼氏がヤクザのホステスに手を出して、痛い目に遭ったこともあったらしいわ」

「それで、実佳ちゃんは、痴情の縺れだと思ったのか」

「そう、全くの勘だけどね」

 彼女はペロッと下を出して、首を竦めた。

--いや。この娘の勘なら、意外と近い線を行っているかもしれない。

 光智はそう思わずにはいられなかった。


「いやあ。ちょうど貴方にお会いしたいと思っていたところです」

 中筋は、愛想の良い声で言った。

 翌日、堀尾貴仁があるグレイゾーンの経済活動に手を出していたことを掴んだ捜査本部は、光智から詳しい情報を得るため、中筋と都倉を向かわせたのである。

「どのような御用でしょうか」

「ちょっとお訊ねしたいことがありましてね。貴方は?」

「お役に立てるかどうか分かりませんが、中筋さんの耳に入れた方が良いと思われる情報を掴みまして」

「それは奇遇ですね。どんなことでしょう」

 光智は麻布署近くの喫茶店で中筋刑事と会っていた。宇佐美の話を伝えるためである。

「いやあ。それは貴重な情報です。実を言いますと、その後の調べで、被害者は投資事業組合を設立して、様々に活動していたことが分かりました」

「投資事業組合……どの種類ですか」

「それが匿名組合なのです」

 中筋はため息混じりに言った。

「それはまた厄介ですね」

 光智も同調した。

 投資事業組合とは、投資ファンドの一種で、技術力はあるが資金力のないベンチャー企業に出資するために結成されるものである。目的に応じて四種類の組合があるが、いずれも規制が甘く、中でも匿名組合は、悪事の隠れ蓑になっているのではないかと、何かにつけ問題視されている組合だった。

 匿名組合の組合員は営業員と出資者の二者の組合員で成り立ち、営業者が組合で集めたお金を運用するのだが、営業者と出資者は個別に契約を結ぶことで、営業者は組合に参加している人物を把握できるものの、出資者同士は誰が参加しているか、いくら出資しているか把握できず、個人情報を保護していたからである。

 当時、ベンチャー企業に対する投資促進を目的として結成されたが、意に反して反社会的組織の資金洗浄、いわゆるマネー・ロンダリングに利用される危険性を指摘されていた。

「それで、貴方にはその出資者に心当たりがないかと思いまして」

 都倉の目は疑いの光を帯びていた。

「都倉さん。私は出資なんかしていませんよ」

「申し訳ありません。職業病みたいなもので、彼もつい……」

 中筋が代わりに謝り、

「都倉君、別当さんがいまさら細々とした事業に手を出されるはずがないじゃないか」

 と短慮を叱責した。

「出資者に心当たりはありませんが、堀尾さんは契約書を持っていたはずです」

「それが、よほど秘匿したかったのか、契約書が見つからないのです。まあ、仮に見つかっても幽霊会社でしょうがね」

 そう言ったところで中筋の目に力が籠った。

「ですから、貴方の情報で確信を得ました。たぶん、害者は投資組合の資金を使って、新しい賭博の形態を考えていたのでしょう。そこに闇の金が流れていた可能性もあります。そして、何かのトラブルに巻き込まれた害者は殺害され、真犯人は手掛かりとなる契約書を持ち去った」

 中筋は、実に滑らかな口調で推論を展開した。

「十分に考えられますね」

「まだ、これを説得するだけの物証がありませんがね」

 中筋は上を指差して力のない笑みを浮かべたが、目には気力が漲っていた。


 本部から戻った澤村健治は、勝部幹夫を呼んで策を練っていた。

「話はよく分かりました。暴走族を使おうとお考えなら、横浜の勝栄会(しょうえいかい)にやらせたらどうでしょう」

「勝栄会? 堀尾のときと同じ枝を使うのか」

 勝部の進言に、澤村は難色を示した。あまり目立ち過ぎると、そうでなくともマークされている警察当局の目に留まり易くなる。

「確か横浜には、ブラック・スネークという大規模な暴走族がいるはずです。奴らに金を掴ませましょう」

 勝部は強く主張したが、それでも澤村は、

「しかし、横浜の暴走族が東京へ出張る訳にはいかんやろ」

 と容易には了承しなかった。

 暴力団と同じく、暴走族にもいわゆる『シマ』というものがある。横浜の暴走族が東京を爆走するとなると、無用の悶着が起こる懸念があった。

 だが、勝部にも彼なりの思惑があった。

「それはそうですが、しかし若頭。東京しかも帝都大学の付近には、若頭の澤健組や私の大龍組の枝はありません。そんなところで、若頭のところやうちの若い者が事を起こして、他の組に露見しますと厄介なことになりかねません。場合によっては、この話が大王組内部に広がることも考えられます」

「それはあかんで。山城の親父の面子がある。あくまでも我々の手で隠密裏に片を付けんとな」

 澤村は怒鳴るように言った。むろん、勝部を怒っている訳ではない。山城の面子を第一に重んじる、彼の気性の現れである。

「そうなると、問題は別当なる男をどこで襲わせるかやな。親父の話だと、貫主様は独自の情報源をお持ちのようだが、当てにする訳にはいかんしな」

 澤村は、勝部の案に前向きな口調になった。

「それにつきましては、打ってつけの男がいます」

 勝部は意気込んで言った。

「誰や?」

「葛西です」

「堀尾の件を任せた男やな。同じ奴で大丈夫か」

 再燃した懸念を問うた澤村に、勝部は自信に満ちた表情で答えた。

「実は、奴のこれが帝大生でして、そいつをうまく騙して、別当の行動を把握させようと思います」

 勝部は右手の小指を立てて言った。

「なんやて、極道者の女が天下の帝大生やと。ほんまか?」

 さすがの澤村も呆気に取られていた。

「何でも、幼馴染ということです」

「ほう。そりゃあ都合はええが、それにしたかて、別当が横浜に出向く保証がないやろ」

「それについても、私に一つ考えがあります」

 勝部は不適な笑みを浮かべて言った。その面構えに澤村もようやく腹を決めた。

「そうか。お前のことやから、下手は打たんと思うが、葛西にもその女にも、わしらの真の狙いは悟られるなよ」

「重々分かっています」

「それと、あんまり人数を掛けるな。警察沙汰になってもまずい。ええか、勝部。くどいようやが、相手が相手や。絶対にわしらの正体は分からんようにせえよ」

 澤村は、最後に厳しい口調で念を押した。





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